スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー |
2004年 ケリー・コンラン(監) |
1939年、ニューヨークでは万国博覧会が始まっていた。そんな中、世界中の大都市に奇妙な巨大ロボット軍団が飛来し、人間を襲い始めた。NYの新聞記者ポリー=パーキンス(パルトロウ)は命がけでロボット軍団の写真を撮っていたが、危機一髪で元恋人“スカイキャプテン”ジョー=サリヴァン(ロウ)に救われる。独自に調査を開始した二人は、これが一人の科学者によってなされたこと、そして地球の危機が迫っている事実を突きつけられる… 古き良き冒険活劇を最新デジタル技術で再現した(現時点では最も多くのディジタル・アーティストが参加した作品で、320人が動員されたという)野心作。 本作は“SF”と言うよりは、まさに“冒険活劇”と評したい作品で、こういう馬鹿馬鹿しい雰囲気、私はとっても好きだ。 では、“冒険活劇”とはどういうものを言うのだろうか?ちょっと考えてみると、先ず主人公が最新の兵器を駆使し、警察や軍の手に負えない凶悪犯罪人をばったばったとなぎ倒す。そして敵の駆使する兵器は絶対に黒か白のモノトーンで、可能な限りシンプルにする。アクセントとしてグラマラスな美女が登場し、主人公とつかず離れずで軽いラブコメを展開。そして一番重要なのは、いかにもこれは“荒唐無稽なおとぎ話です”とばかりに主張する安っぽさ!そう。冒険活劇に必要なのは、何より安っぽさなんだ。 本作はその辺のところ実によく分かった作品で、上に挙げた要素を全て満たしてくれている。何よりあれだけの巨費を投じていながら、まるでパルプのモノクロ漫画のように、安っぽい感じで仕上げてくれてる。 この雰囲気だけでもうOK!って感じ。 それがあるからこそ、ストーリーのつなぎの悪さも、必然性の全然無い設定もぬるいアクションシーンも間の悪さも全て許せる感じ(つーか、この画面なかったら、単なる駄目映画じゃん)。とにかく冒頭5分で「誰がなんと言おうとも、俺だけは応援するぞ!」と思わせた時点で本作の勝ちだろう。 それに、大まかなストーリーが破綻してる(!)割には小技がとにかく光っており、一つ一つのこだわりを見ているだけでも楽しめる。多くの映画からの引用やリスペクト、巨大なネジや歯車の質感、くっきり役付けされたヒーロー、ヒロインの存在感。全てが妙にツボにはまってくれる。 キャラに関しても、やや現実離れした二枚目って感じのヒーローを演じるなら、この人を置いて他にはあるまい!と思わせるジュード=ロウの役付けと言い、お転婆なヒロインに徹したパルトロウと言い、謎の美女の姿勢を決して崩さずに最後まで抑えた演技をしてくれたジョリーと良い、はまりすぎるほどはまりすぎ。見事すぎるはまり役ばかりだ。 これを観ていると、自分自身の好みってのも考えさせられる。私はSF作品が大好きだけど、隙のない緻密な設定や「あっ」と思わせる巧妙な物語で展開するのが好み。と言う方向性と、「馬鹿馬鹿しくて良いじゃない。格好良ければ」という方向性のどっちも好きなんだ。と改めて思わされた。物語そのものは『アベンジャーズ』(1998)とたいして変わらないけど、中途半端なまま話が展開する『アベンジャーズ』と較べたら、極端から極端に走った本作は非常に好ましく思える。結局冒険活劇とは、冒頭の部分で観ている側の心をがっしり掴んでいられるかどうかでその価値のほとんどは決まると言うことだ。 ま、本音言えば、冒頭の新聞のシーンで「大怪獣国民を救う」という見出しが見られた時点でゾクゾクしてしまったからなんだけど(あの姿はどう見ても…しかし、まだこの時代では原爆も開発されてないんだよな)。 |
明日の世界計画 | → | |||
【あす-の-せかい-けいかく】 | ||||
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ジョー | → | |||
【じょー】 | ||||
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スカイキャプテン | → | |||
【すかい-きゃぷてん】 | ||||
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大怪獣国民を救う | → | |||
【だい-かいじゅう-こくみん-を-すくう】 | ||||
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デックス | → | |||
【でっくす】 | ||||
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トーテンコフ | → | |||
【とーてんこふ】 | ||||
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フランキー | → | |||
【ふらんきー】 | ||||
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ポリー | → | |||
【ぽりー】 | ||||
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2004年 ジョセフ・ルーベン(監) |
14ヶ月前に飛行機事故で最愛の息子サムを亡くしたテリー(ムーア)は未だそのショックから立ち直れず、テリーの写真や遺品を眺めて過ごしていた。 セラピストの治療を受けていても心は鬱々としたままだった。そんなある日、いつも眺めている写真から息子の姿が消えていることに気づく。しかも夫は最初から息子はいなかったと言うようになる。不安になったテリーは同じ事故で娘を亡くしたアッシュ(ウェスト)の元に行くが、先日までテリーと悲しみを共有していたはずの彼も、娘はいない。と言いだす… ジュリアン・ムーア主演で、現代を舞台に、ほんの少しだけ常識から外れた日常を描くタイプのSF作品。自分の知っている人がもし消えてしまって、誰もその人のことを知らないと言うなら?極めてストレートな視点で描かれている。 もし自分が見ているものが、他の人とは違っていたら? 社会生活を送らねばならない人間にとっては、これは根源的な恐怖だろう。自分の信じているものが、実は誰も理解できないものであることを知らされたり、みんな知っていることが自分だけ知らされてなかったり…人が仲間と一緒にいたがったり、流行を追い続けるのは、根底にこの恐怖があるんじゃないかと思うのだが、この恐怖が小説や映画では好んで用いられる素材になる。 特に映画にあっては、多かれ少なかれこれらが効果的に用いられることになる。真実を知っている一人が周囲の目をはねのけて目的を達するという逆境の演出なんかはこの恐怖心を使っていることになるだろう。 他の作品ではスパイスの一つに使われている素材がストレートに用いられているのが本作の特徴で、その分純粋化された作品とも言える。 ただし、純粋化された物語と言うのは、見所を一カ所に定めてしまうため、往々にして間の取り方が悪いものが多い。そして本作はその難点を見事に表してくれていた。 根本的に本作はもの凄く退屈なのだ。 ふんだんにアクションシーンを入れようとも、役者が頑張ろうとも、「本当に子供がいなくなったの?」と言う地点に常に帰っていくため、過程の物語が全然楽しめないのだ。物語自体も圧縮すれば1時間も必要ない程度のもので、テレビシリーズの内の一話程度にまとめられる。 最初から難点があった物語なのだから、その過程部分に何か引き付けるものが必要だったはずだが、それも入れられなかった。結論部分を忘れるほど過程の内容に力が入っていれば。とは思う。 それら全てがオチの部分で「おおっ」となれば、挽回も出来たのだが、いきなり宇宙人が出て全部説明してくれ、さらに何もかも空の彼方にふっとばして、全部なかったことにして終わり。これじゃ納得いかないな。何より途中まではサスペンスだったのに、宇宙人が出てきた時点で物語そのものが全部破綻してるし。宇宙人出せばどんな不条理でも許せる物語になってしまったからなあ。 空を飛ぶ人間を笑うのが強いて言えば見所か? |
アッシュ | → | |||
【あっしゅ】 | ||||
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サム | → | |||
【さむ】 | ||||
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テリー | → | |||
【てりー】 | ||||
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マンス | → | |||
【まんす】 | ||||
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2004年 トレイ・パーカー(監) |
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テロに溢れる世界の平和を守るために国際警備組織“チーム・アメリカ”が結成された。とある国の独裁者がテロリストに大量破壊兵器を売りさばこうとしている、との情報を掴んだチーム・アメリカのリーダーのスポッツウッドは、ブロードウェイ俳優ゲイリーをリクルートし、おとり捜査をさせようと発案。強引にゲイリーを仲間に引き込むのだが… 人間の笑いというのは、根元的にどこか差別的なものが多いと思う。それは時に共通認識を高めるためであり、どうしようもない自分の今の状況を笑い飛ばすためであったりする。しかし、同時に人間には理性や常識というのもあり、人を差別することはいけない事という認識もあるため、その笑いというのは、どこか秘密めいた、そして後味の悪さを残すもの。 ただし、これが仮に身近なものではなく、国家的なものになると、話は少々変わってくる。特に戦争状態にある国だと、愛国心を鼓舞するために国家レベルで敵国を侮蔑的に語るようになっていく。それが正義になっていくわけだから。 ところで本作だが、敢えて肯定的に捉えてみると、そのような狂騒状態にあるアメリカという国を皮肉ってみた。と言うことも出来るのだが、単純に考えると、本作は単にガキが作った挑戦作。とにかく何でも良い。良識ぶったオトナが嫌がることをやって、「どうだ。面白いだろう」と叩きつけてやろう。と言う感じが一番強い。 映画の可能性として、それはありだと思う。観てる側としては、大笑いして、なんか後味の悪さを噛みしめるってのは、挑戦的な作り方としては悪くない。私自身かなり笑ってしまい、それで自分自身、ちょっとこれはいけないな?と思うこともあったのも事実だったし。「パール・ハーバーは糞だ」には、それを越えて思いっきり頷いたし。 ただ、この後味の悪さは、何か違っている気がしてならない。一体何が悪かったのか。色々と考えてみた。 一つには、この作品、正義を行うチーム・アメリカの無茶苦茶さを笑うべき作品のはずなのに、本当に最後の方になるとヒーローになってしまったと言う点。チーム・アメリカは自分たちで“正義”を標榜する単なるカウンター・テロ組織で終わって欲しかった。そもそもこの笑いは全てを相対的に観るからこそ笑える作品へと変わっていくはず。それが一方的な価値観の押しつけのように見えてしまったことが一番の悪さだった。世界遺産を片っ端からぶちこわし、テロは許さないけど、それに巻き込まれる一般市民をも顧みないチーム・アメリカの活躍をもっと主軸にし、最後の最後に、それこそ“神の手”が降りてきてチーム・アメリカ全員が殺されてしまうとか、あるいは北朝鮮にやってきた各国首脳を惨殺した上で、世界中のテロ組織どころか国そのまでも滅ぼし尽くすとか、そこまでやってこそ、本当に物語として成り立つんじゃ無かろうか?最後にチーム・アメリカを単純なヒーローにしてしまってはいけなかったはずなのだ。後味の悪さを作り上げるには、そういった無茶苦茶さが必要のはず。(トレイ=パーカーが大成功したTVアニメの『サウス・パーク』は、無茶苦茶やっても、最後は常識をちゃんと出していたから安心できたのでは?) 更にハリウッド・セレブを惨殺する事に血道を上げすぎて、それだけしか印象に残らないのも問題。彼らだって単に受け狙いで戦争反対を語っていた訳ではないはずだ。それなりに自分のキャリアの中で、思うことがあってそれらの主張をしている。その部分をすっぱり抜けさせて、単なる悪役に堕し、殺されるだけと言うのも問題だな。ガキの論理を押し通すにしても、一方的すぎては面白くも何ともないのだ。仮にこの作品が全米公開された『華氏911』(2004)に対抗し、それを笑おうとしたのだったとしたら、単にムーアをぶっ殺すだけじゃなくて、映画そのものに対するアンチテーゼを出すべきだったんじゃないかな?そこが限界だったのか? 面白くなかった訳じゃないし、笑った自分自身に妙な後ろめたさを感じさせてくれた点はとりあえず評価しよう。 |
アレック | → | |||
【あれっく】 | ||||
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イーサン | → | |||
【いーさん】 | ||||
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金正日 | → | |||
【きむ-じょんいる】 | ||||
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クリス | → | |||
【くりす】 | ||||
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ゲイリー | → | |||
【げいりー】 | ||||
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サミュエル | → | |||
【さみゅえる】 | ||||
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サラ | → | |||
【さら】 | ||||
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ジョー | → | |||
【じょー】 | ||||
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ジョージ | → | |||
【じょーじ】 | ||||
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ショーン | → | |||
【しょーん】 | ||||
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スーザン | → | |||
【すーざん-さらんどん】 | ||||
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スポットウッズ | → | |||
【すぽっとうっず】 | ||||
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パール・ハーバー | → | |||
【ぱーる-はーばー】 | ||||
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ヘレン | → | |||
【へれん】 | ||||
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マイケル | → | |||
【まいける】 | ||||
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マウントラシュモア | → | |||
【まうんと-らしゅもあ】 | ||||
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マット | → | |||
【まっと-でいもん】 | ||||
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リサ | → | |||
【りさ】 | ||||
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惑星ザイオン | → | |||
【わくせい-ざいおん】 | ||||
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2006年 M・ナイト・シャマラン |
"コーブ・アパート"の管理人クリーブランド=ヒープ(ジアマッティ)は、廊下の掃除や電球の交換をするだけのひっそりした単調な毎日を送っていた。ところがある晩、中庭にあるプールでストーリーと名乗る女性と出会う。実は彼女は水の精"ナーフ"という存在で、"青い世界"からある目的のために人間界にやって来たという。アパートの住民の持つ絵本から、彼女のことを知ったヒープはアパートの住民の協力を得て謎解きを始める。 自慢ではないが、『シックス・センス』の衝撃以来、これまで一策も欠かすことなく劇場でシャマラン監督作品を観続けてきた。それが止まってしまったのは本作のお陰。観たくないわけではなかったのだが、たまたま丁度仕事が忙しい時期と公開が重なってしまった上に、他に観たいものもあったので、優先順位が下がってしまい、いつの間にか公開が終わってしまったというのが真相。 シャマラン監督作品の魅力と言えば、勿論「あっ」というどんでん返しがあるだろう。だけど、実際に本当に意外な終わり方をしたと言えるのは『シックス・センス』くらいで、他の作品は帯に短したすきに長し。実際そんな力を込めて「良い作品だ」と言えるほどのものはない。だけど、それはそれとして、シャマラン監督の諸作品には、彼にしか出せない独特の雰囲気が存在し、それが妙に心地よいのだ。 本作は色々叩かれはしてるけど、実はその雰囲気が最も良く現れた作品なのではないかと思う。物語は、ファンタジックなものではあるにせよ、勘が良すぎるキャラクタたちのお陰であれよあれよと物語が進行し、いつの間にか終わってしまったという感じ。どんでん返しなど全く存在せず、逆にそれが煙に巻かれてしまった感じもあり。 決してそれが悪いとは言わない。いやむしろ、それらの演出のおかしさ加減が、他の監督には出せないシャマラン特有の不思議な雰囲気を醸してくれているのだ。言ってしまえば、シャマラン監督作品を観るというのは、シャマランの世界に入り込んで、どっぷりとその雰囲気に浸かっていればいいのだ。それが心地良いか悪いかはともかく。ちなみに私は結構心地よく浸かっていられるタイプ。50年代から60年代の古き懐かしいハリウッド映画をぼんやり眺めている気にもなる。過激さばかりが流行る現在の映画界にあって、こう言うのは貴重だよ。 それに現代とファンタジーをくっつけ合わせる場合、下手に説明をすると膨大な設定を語らせねばならないので、御伽噺にしてしまって単純化させたのは少なくとも間違いじゃないしね。 それに私の場合、昔大好きだったアニメがあって、それを思い起こさせてくれるもので。そのアニメは「ポールのミラクル大作戦」というやつ。この作品はポールという少年がさらわれたガールフレンドのミーナを救うためにファンタジックな世界に入って冒険するという作品だが、中盤以降になると、初期設定では決して大人は入れないはずのこの世界に、子供っぽい夢を持つ大人も特殊な条件を満たすと入れるようになる。中年男達がファンタジーっぽい世界を旅するって、まさにそれを思い出させてくれたから。 |
青い世界 | → | |||
【あおい-せかい】 | ||||
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クリーブランド | → | |||
【くりーぶらんど】 | ||||
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コーブ・アパート | → | |||
【こーぶ-あぱーと】 | ||||
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ジャレッド | → | |||
【じゃれっど】 | ||||
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ストーリー | → | |||
【すとーりー】 | ||||
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チョイ | → | |||
【ちょい】 | ||||
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デュリー | → | |||
【でゅりー】 | ||||
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ナーブ | → | |||
【なーぶ】 | ||||
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ハリー | → | |||
【はりー】 | ||||
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レジー | → | |||
【れじー】 | ||||
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2006年 (監)シュテフェン・ファンマイアー |
貧しい農家の息子エラゴン(スペリーアス)は、15歳になった時森の中で光り輝く青い石を見つけた。この石を売って家族に食べ物を買ってあげようと思うのだが、その青い石はなんと伝説のドラゴンの卵だった。そのドラゴンの誕生を知った時、エラゴンはこれまでの貧しくとも平和な生活から引き離されることになる… なんでも本作はローティーンの少年が書いたベストセラー小説が原作らしい。 これはどの世界でも同じだと思うが、ローティーンの書いた小説というものほどやっかいなものはない。情熱だけはあるものの、その内容は大体どこかの小説や映画から設定、場合によっては物語そのものまで引っ張ってきて、オリジナリティのかけらもない。それなのにそういう元引き作品って割と低年齢層を狙って作られているので、選者が触れてない場合が多く、結果として「天才」の名を冠されて世に出されることが多い。こう言うのは元ネタを冒涜するようなものなので、同人誌レベルならともかく、こう言うのを一般流通に乗せ、さらにそれが売れてしまうってのは、結構苦々しいものがある。 で、本作だが… 何というか、この内容でよくルーカス・フィルムが訴訟起こさなかった。と感心するほどまんま『スター・ウォーズ』だった。ルークが持つフォースの力がそのまんまドラゴンになっただけ。 元ネタが良いため、本作もそれなりに物語は見られる作品には仕上がってるが、見事にパクってるため、物語の展開が分かってしまうし、そろそろここで新キャラ登場か?と思えたところには必ず新しい人が出てくる。デジャブというより、まさしくそのまんま。 しかし、不思議なのは、どう観てもビデオスルー作品なのに、それなりに売れたってことだな。なんでこんなのがわざわざ日本で劇場公開までされたのか理解できない。 強いて言うなら、どれだけ予想通りの物語になるか、それを楽しむくらいだろう…それで受けた。とするのは乱暴すぎるか? なんかネットの評判を見たら、映画はけなしても原作は褒める人が結構見受けられた。ひょっとしたら私が知らないだけで、原作はとても面白いものだったりして… |
アーリア | → | |||
【あーりあ】 | ||||
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アジハド | → | |||
【あじはど】 | ||||
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アラゲイジア | → | |||
【あらげいじあ】 | ||||
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アンジェラ | → | |||
【あんじぇら】 | ||||
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ヴァーデン | → | |||
【う゛ぁーでん】 | ||||
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エラゴン | → | |||
【えらごん】 | ||||
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エルフ | → | |||
【えるふ】 | ||||
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カーヴァホール村 | → | |||
【かーう゛ぁほーる-むら】 | ||||
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ガルバトリックス | → | |||
【がるばとりっくす】 | ||||
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ギャロウ | → | |||
【ぎゃろう】 | ||||
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ゲドウェイ・イグナジア | → | |||
【げどうぇい-いぐなじあ】 | ||||
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古代語 | → | |||
【こだい-ご】 | ||||
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ザーロック | → | |||
【ざーろっく】 | ||||
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サフィラ | → | |||
【さふぃら】 | ||||
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シェイド | → | |||
【しぇいど】 | ||||
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シャートゥガル | → | |||
【しゃーとぅがる】 | ||||
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スクルブラカ | → | |||
【すくるぶらか】 | ||||
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スクルブラカス・ヴェン | → | |||
【すくるぶらかす-う゛ぇん】 | ||||
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ダーザ | → | |||
【だーざ】 | ||||
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ドラゴン | → | |||
【どらごん】 | ||||
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ドラゴンライダー | → | |||
【どらごん-らいだー】 | ||||
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ドワーフ | → | |||
【どわーふ】 | ||||
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ファーサンドゥアー | → | |||
【ふぁーさんどぅあー】 | ||||
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フロスガー | → | |||
【ふろすがー】 | ||||
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ブロム | → | |||
【ぶろむ】 | ||||
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ホースト | → | |||
【ほーすと】 | ||||
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マータグ | → | |||
【まーたぐ】 | ||||
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ローラン | → | |||
【ろーらん】 | ||||
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名称 | → | |||
【】 | ||||
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2007年 ダニー・ボイル(監) |
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2057年。太陽の活動が急激に衰え、地球は滅亡の危機に陥った。人類は太陽の活動を促すため、核爆弾を太陽に撃ち込む計画“イカロス計画”を立ち上げた。だが1号機は太陽へと向かう途中で交信を断ち、計画遂行不能状態に陥ってしまう。そして7年後、船長カネダを始めとする8人のエキスパートが乗り込んだ最後の核爆弾を積んだイカロス2号が太陽に向かって発進するのだった。航行は順調だったが、太陽に近づいたその時、イカロス1号の救難信号を受信する… 毎回変わった手法で映画を作るボイル監督の最新作。今回は宇宙を舞台としたSF作品。 はっきり言ってしまうと、ボイル監督作品はどうにも肌触りが合わない所があって敬遠しているのだが、たまたま映画観る時間に丁度合ってしまったために鑑賞。まあ、真田広之がどんな役やってるのかな?と言う好奇心も多少。 …だけど、やっぱり合わないわ。この監督。 以降は読むと不快に思われるかも知れないので、ご注意を。 冒頭の観ただけで気持ちが萎えた。なんだこれ?『スター・ウォーズ』(1977)か?それとも『2001年宇宙の旅』(1968)か?何というオリジナリティのないオープニングだ。しかも続いてのタイトルロゴは『エイリアン2』(1986)か?それとも『ザ・コア』(2003)か? 冒頭だけで「はははは」と心の中で乾いた笑いが出た。こりゃ駄目だ。 実際物語自体がオチまで含めてほとんど『2001年宇宙の旅』をベースにして『エイリアン』(1979)と『アルマゲドン』(1998)くっつけただけ。あんまりにもそのまんまで、溜息しか出ず。どーしようもないわ。この監督。 キャスティングも折角の多国籍を活かすことができず、何の意味もなく喧嘩して、一人一人死んでいく。キャラも何考えてるのか分からない奴らばかりで感情移入一切出来ず。期待していた真田広之も苦手な英語を喋るだけで手一杯と言った感じ。ミシェル=ヨーも全然活躍出来ず。そもそもアクション俳優を配しておいてアクションも全くなし。何のためにこの人起用したんだ? 話も、かなり哲学的にしたつもりなのだろうが、単に分かりづらいだけでしかなし。キューブリックの真似しても無駄だよ。はっきり言って物語自体が古すぎ。 大体なんで太陽行くのに「イカロス」などという不吉な名前を使うんだ?「昔ギリシアのイカロスは〜」って「みんなの歌」でやってたね。 ただ強いて良い所を言うなら、演出は独特で、アングルはともかく(『エイリアン』とか『13日の金曜日』(1980)とか観てる気分)、ぐにゃりと映像が歪んだり、無関係の映像を突然挿入したりと、なかなか面白い演出ではある。それが面白いと言えば面白い所。 しかし、一つ本作で分かったことがあった。 ボイル監督は誰かに媚びることだけはしない。自分の作りたいものを作りたいように作ることができる珍しい監督だと言うこと。 確かにこれまでの作品を改めて考えてみると、ボイル監督が作ってきた作品というのは時代や流行りとは全く無関係に作られている。「分かる奴だけ付いてこい」という突き放しと強引さがあるので、合う人間にはとても合うのだろう。『トレインスポッティング』(1996)はそれが上手く機能し、時代の方が映画に付いてきたと言った感じがする。ある意味この姿勢はイギリス監督の最も重要な要素を示している。この人が今の時代のイギリス監督の代表格と言っても良いだろう。だから合う人にはとことん合うと思うよ。私には全然合わないけど。 |
イカロス1号 | → | |||
【いかろす-いち-ごう】 | ||||
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イカロス計画 | → | |||
【いかろす-けいかく】 | ||||
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イカロス2号 | → | |||
【いかろす-に-ごう】 | ||||
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カネダ | → | |||
【かねだ】 | ||||
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キャシー | → | |||
【きゃしー】 | ||||
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キャパ | → | |||
【きゃぱ】 | ||||
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コラゾン | → | |||
【こらぞん】 | ||||
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サール | → | |||
【さーる】 | ||||
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ダークマター爆弾 | → | |||
【だーく-またー-ばくだん】 | ||||
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トレイ | → | |||
【とれい】 | ||||
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ハーヴィ | → | |||
【はーう゛ぃ】 | ||||
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メイス | → | |||
【めいす】 | ||||
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2008年 マット・リーヴス(監) |
マンハッタンの下町の住民ロブ(スタール・デヴィッド)は副社長として日本への栄転が決まり、弟のジェイソン(ヴォーゲル)の企画でサプライズパーティが開かれた。ハッド(ミラー)はその様子をハンディカメラで映していたのだが、その時突然爆音が響き渡った。そして外に出た彼らの前には突然千切られた自由の女神の頭部が落下。更に破壊音を圧倒する何者かの叫び声が聞こえてくる… 日本を敬愛し、よく日本のホビーショップに出現すると公言するリーヴス監督による新感覚の怪獣映画。 少なくとも、監督の日本好きは嘘ではないことは本作を観れば明らか。見事に日本が生み出した『ゴジラ』を始めとする怪獣映画を研究していることが分かるし、怪獣の描写については「こうして欲しい」と思っていたことを見事に再現。正直金子修司がリメイクした『ガメラ』の時に感じた衝撃が再び来た感じを受けた。 かつてエメリッヒ監督により、ハリウッドでリメイクされた『GODZILLA』。だがこの作品は(私も含めて)悪評紛々。ゴジラに“God”の文字を付けたくせに弱い。ゴジラの重量が足りない。走ってはいけない。人間の通常兵器が通じるような相手ではない。子ゴジラなど、それこそ文句を言うならいくらでも出てきてしまうのだが、この作品の失敗は、少なくとも本作が作られたモチベーションになったと考えるなら、あの失敗もようやく果たされたと感じられる。『GODZILLA』での不満は見事に本作で解消されている。おそらくこれはリーヴス監督自身が最も手本にした作品が『GODZILLA』だったに他ならないから。本作は数々のパートで『GODZILLA』を思わせる設定や演出を多用しつつ、しかも「そうはならないよ」と小憎らしく失敗部分を回避しつつ物語を展開させている。それが分かるからこそ、観てる側はニヤニヤしながら観ることが出来た。しかも決してリーヴスはエメリッヒを馬鹿にしているのではなく、エメリッヒの良い部分はしっかり受け継いでるし、エメリッヒの得意としているディザスター作品にはかなり多大なオマージュを献げているようにも見受けられる。 そう。本作は怪獣映画の体を取っているが、本質的にはディザスター(災害)映画なのだ。大自然の驚異は、たかが人間などあっという間に吹き飛ばしてしまう。しかし生き残った人間は、生き延びるために大自然に立ち向かわねばならない。理不尽な暴力に抗い続け、生き続けることこそが物語の目的となる。本作で登場する怪物には名前が無いが、名前がないからこそ、本物の自然災害となんら変わることのない圧倒的な力を持って、情け容赦なく人間を襲う事が許される。そう。まさにオリジナルのゴジラのように。 そもそも『ゴジラ』とは前年の1953年に行われた水爆実験を、人間の作り出した災害と考え、その水爆そのもののメタファーとして登場した。ゴジラとは本質的に災害そのものなのだ。それこそオリジナルのゴジラこそが「人間の生み出してしまった“God”」と考えられている。その部分を本当によく分かってくれている。それだけでも本気で惚れ込みそうだ。上からの視点を一切排し、怪獣の足下で逃げるしかない人間をひたすらに作るとは、本当によく分かってらっしゃる。 だが、特撮ファンの業が深いとも思えるのは、その「分かっていらっしゃる」と思えるところが最大のネックでもあるということ。つまり、怪獣ファンが「こうあって欲しい」という思いはよく再現されているのだが、明らかにこれは「元ネタあり」を前面に掲げていることであり、オリジナルを越えることは出来ない。本作の場合新解釈と言えるところがほとんど無く(小さな怪獣の分身も含め)、実は特撮ファンにとっては新味はまるでなかったりする。つまり、本作は本当の良作ではあるが、それ以上にはなれないことを宿命づけられてしまっているのだ。だからこそ「良い作品」と言うのは吝かではないが、それ以上の評価を与えられないのが怪獣ファンの宿命とも言える。 本作はだからむしろ怪獣ファン以外の人に観てもらいたい。そしてこれに感心することで、どっぷりと怪獣映画の奥深さに足を踏み入れてくれることを望む。 それで本作の魅力の大部分を演出したと言えるのが、あたかもハンディカメラで映したとおぼしき映像が展開していく点。これは臨場感を与えるために多大な貢献をしており、あたかも自分の本当の目を通して怪獣を観ているような思いにさせられる。この手法は低予算作品で時折使われる方法で、臨場感を演出する手軽な方法。今までも『食人族』を始めとして『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、2004年にも『セプテンバー・テープ』なる、同じ手法を使った作品が登場してる。しかしこの手法を怪獣映画で使う試みは初めてであり(あ、一部ではあったが『DOOM』があったか)、CG丸出しの仮想生物を、あたかも本当に存在するかのように見せるという離れ業を一見成功させていた…ただ、この点については功績を認めると共に、苦言もあり。実はちょっと離れて観ると、ハンディカメラと、本物のカメラをちゃんと使って撮っている部分が丸わかりになってしまうのだ。わざと後の処理でハンディカメラっぽく荒らしてはあっても、CGが出てきてしまうと、どう見てもハンディカメラの映像ではなくなってしまう。実際に揺れているシーンとわざと揺らすように演出している部分のつなぎがあんまりにも下手だ(画面にのめり込んでしまえば全く気にならないのだろうが、私の場合は劇場で観た時ものの10分くらいで酔いそうになってしまい、以降は画面全体を見るように意識を持って行ってしまったため、その辺のアラまでついでに見えてしまった)。 ついでにもう一つ本作の魅力。本作には数多くの映画のオマージュおよびパロディが入っている。それこそエメリッヒ版『GODZILLA』から取ったとおぼしきシーンは数多いが、他にもオリジナルの『ゴジラ』、金子版『ガメラ2』、『ガメラ3』、『食人族』、『水爆と深海の怪物』、『原始怪獣現る』、『キングコング』等々。一見でこれだけ分かるくらいだから、細かく検証したら凄く楽しそうではある。そしてそれに関連することだが、本作の字幕は戸田女史。この人、本当に映画について思い入れってものが無いんだろうなあ。と思われたのが、怪物が現れた瞬間「It's Alive!」(言うまでもないが元ネタは『フランケンシュタイン』でAFIの台詞ベストにも入ってる)と叫んだ時の字幕が「あれは生物だ」という、無味乾燥な台詞にされてしまったこと。もうちょっと先達の映画に敬意持って欲しいもんだ。 |
クローバーフィールド | → | |||
【くろーばー-ふぃーるど】 | ||||
|
ジェイソン | → | |||
【じぇいそん】 | ||||
|
ハッド | → | |||
【はっど】 | ||||
|
ベス | → | |||
【べす】 | ||||
|
マレーナ | → | |||
【まれーな】 | ||||
|
リリー | → | |||
【りりー】 | ||||
|
ロブ | → | |||
【ろぶ】 | ||||
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2009 ジェームズ・キャメロン(監督) |
戦争のため下半身不随となり、車いす生活を余儀なくされてしまった元海兵隊員のジェイク(ワーシントン)。脚を治すためには莫大な金が必要だった。そんな時、彼は遠く離れた衛星パンドラで行われている“アバター・プロジェクト”にスカウトされる。地中には貴重な鉱物資源が存在するが、その大気は人間にとっては有害なパンドラの環境で活動できるよう、先住民ナヴィの肉体と特定の人間のDNAを用いて作られた“アバター”が作られていた。ジェイクの使命はアバターに意識をリンクさせ、遠隔操縦によりパンドラで生活し、ナヴィ族との交流を図ることだった。偶然アバターを介し、ジェイクはナヴィ族のネイティリと知り合うことになるのだが… かつてキャメロンはSF映画ファンにとってはリスペクトの対象であり、この人の作る作品は外れがない。とも言われていた。何せ監督作品を列挙しても、「ターミネーター」、「エイリアン2」、「ターミネーター2」、「アビス」、「タイタニック」…これらは単独の映画としてだけではなく、数多くの亜流の映像が作られてきたかと思うだけでも、どれだけの影響をメディア界に与えてきたかは知れようというもの。キャメロンの作る映画こそがSF映画のフォーマットとなっていたのだ。 だが、「タイタニック」でついにオスカーを取ってしまってからは映画作りのモチベーションが下がってしまったのか、以降は時折海洋もののドキュメンタリーを作るくらいで、後は製作ばかり。物語の世界から退いてしまっていた。そんなキャメロンが以来十数年の時を経て帰ってきた!これだけでも視聴する価値はあろうというものだ。しかも最新の3D技術をふんだんに使って。ということで。なんだかんだいっても期待度満点(観るんだったら絶対IMAX3Dで!と思っていたため、多少出遅れてしまったが)。 しかし、待っていただけはあった。アクション作品としては、存分に楽しめる。というより、映画の中にここまで心地よく浸り込める映画はそうは多くない。良いものを観させてもらった。 物語そのものはとても単純。80年代に盛んになっていた自然回帰を素直に描き、ストーリー展開も極めて単純。その代わり、盛り上げるべき部分には徹底して盛り上げるべくサービス心たっぷり。これこそSF映画の正しい作り方だ。そもそもアクションSFを観るのに期待しているのは、作り手の徹底したサービス心なのだから。 そしてそのサービスを裏打ちする演出の凄さ!3D作品は別段好きって訳じゃないけど、この作品に関しては3Dだからこそ楽しめる部分が多数用いられていて、「ここまで来たか」という感慨を新たにさせてくれる。 それと、随所に見せるキャメロンのこだわりも楽しい。かつて「エイリアン2」に出て、以降SF映画の定番となっていったパワーローダーは、ますます自然に、人間を怪物化させるアイテムとして登場。その凶悪ぶりをきっちり見せてくれるし(「エイリアン2」の時とは使われ方が逆ってのもおもしろい話だが)、「エイリアン2」、「ターミネーター2」に共通する妙にマッチョで気っぷのいい女性もきっちり登場。「アビス」を思わせるファーストコンタクトシーン。これらは散々他の映画にも使われてきたが、本家がフェティッシュなこだわりを持って作れば、これほど楽しくなるのか!というくらいに楽しい。「ああ、キャメロンだなあ」という思いを持って観ることが出来ることも、なんか幸せな気分にさせてくれる。 物語は単純にいきすぎる嫌いはあるものの、随所にちりばめられた伏線がきっちり回収されているあたり、映画として相当練度が高いことも思わせてくれるし、敢えて単純化することでサービスが詰まってる(とりあえず「もののけ姫」とか「天空の城ラピュタ」の相似は見なければの話だが)。いくつか謎も残っているものの(エイワと一体化されたと説明されたグレイスはどうなっているのかとか、そもそもパンドラで産出されるレアメタルはどのような意味を持っているのかとか)、これはおそらく最初から続編を想定しての作りだろうから、これはこれで良し。 そして本作で一番の売りである演出に関しては、「見事」の一言。最初から3Dにこだわりを持って作られているだけあって、3Dとの相性は最高で、臨場感も、美しい景色もすべて自然に映画の中できっちり機能してる。最近はCGの質も上がってきたが、それを発揮するのは映画よりもゲームの方で、今は映画よりもゲームの位置シーンの方が綺麗だ。なんてこともざらにあるものだが、少なくともこの作品レベルにまで達したものは今のところ存在しないし、ストーリーの一環としてビジュアルがあることをはっきり示しているので、これだけのブランクがありながら、ここまできっちり映画が作れるとは思ってなかった。 キャラについても上手い配役だった。『ターミネーター4』でハイブリッドを演じたワーシントンは、見た目はごつく、目が優しいという、本作の主人公にはぴったりの役柄。下手に自己主張が強くないのも良い。まさに適材適所。グレイス演じたウィーヴァーは『エイリアン2』での盟友だが、これまた見事な配役…存在そのものよりも、この人はあんまりにも背が高いので、ブレイクするまでに時間がかかったと言う過去を持つのだが(何せ身長180センチを超えてる)、それがお姫様だっこされるシーンがあるなんて、まるでウィーヴァー本人に対するサービスみたいだ。でも、本作で特筆すべきはガチガチの軍人“大佐”を演じたラングの存在感だろう。今や時代遅れの完があるマッチョ感丸出しのキャラは、ネタよりも素直に格好良く見えてしまうこう言う好敵手がいてこそ、戦いは面白くなるのだ(何でもラングは『エイリアン2』では選考に落とされたが、キャメロンがそれを覚えていての起用だったのだとか)。 …大佐で考えたのだが、もしこの視点を変えて、地球から観たら、なかなか面白くなりそう。地球人側からすれば、ジェイクは異星人と結託して地球に必要な物質を独り占めにし、更に武力で地球人を圧倒して追い払ってしまった訳だから。この視点でもこの作品は作り得るな。視点の変化が面白い。 |
RDA | → | |||
【あーる-でぃー-えい】 | ||||
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アバター | → | |||
【あばたー】 | ||||
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アバター・プロジェクト | → | |||
【あばたー-ぷろじぇくと】 | ||||
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アンオブタニウム | → | |||
【あんおぶたにうむ】 | ||||
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AMP | → | |||
【えい-えむ-ぴー】 | ||||
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エイチュカン | → | |||
【えいちゅかん】 | ||||
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エイワ | → | |||
【えいわ】 | ||||
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オマティカヤ族 | → | |||
【おまてぃかや-ぞく】 | ||||
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グレイス | → | |||
【ぐれいす】 | ||||
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ジェイク | → |
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【じぇいく】 | ||||||
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スカイ・ピープル | → | |||
【すかい-ぴーぷる】 | ||||
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ツーティ | → | |||
【つーてぃ】 | ||||
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トゥルーディ | → | |||
【とぅるーでぃ】 | ||||
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ドリームウォーカー | → | |||
【どりーむ-うぉーかー】 | ||||
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ナヴィ | → |
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【なう゛ぃ】 | ||||||
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ネイティリ | → |
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【ねいてぃり】 | ||||||
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ノーム | → | |||
【のーむ】 | ||||
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パンドラ | → |
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【ぱんどら】 | ||||||
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マイルズ | → | |||
【まいるず】 | ||||
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モアト | → | |||
【もあと】 | ||||
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2009 スパイク・ジョーンズ |
マックス(レコーズ)はシングルマザーの母と姉との3人暮らしだったが、最近、姉も母もかまってくれなくなってしまっていた。振り向いてもらおうと度々イタズラを繰り返すのだが、ついに母を激怒させてしまう。自分の気持ちを分かってくれない悔しさから、マックスはそのまま家を飛び出してしまう。無我夢中のままボートに乗り込み、大海原へとこぎ出していくのだが、やがてどこかの島へとたどり着く。なんとそこには、大きな体をした不思議なかいじゅうたちがいっぱいいた。そして、ひょんな成り行きから王様として迎えられたマックスだったが… モーリス・センダック原作絵本の映画化。元の絵本は世界各国に訳されたロングランのベストセラーの一冊。かく言う私も子供の頃に一冊持っていた(母が買ってきたのだと思うのだが、なぜかそれは英語版だった)。しかし、童話と違い、これは内容的には非常に短い。これをそのまま映画にするのは難しいんじゃなかろうか?しかも監督が、訳の分からないものを作るスパイク・ジョーンズ(褒め言葉です。一応)。なんか不安要素いっぱいの作品だった(ジョーンズを指名したのは著者のセンダック本人だとか)。 一見して、あの原作をこうまとめたか!と、素直に感心はした。原作でやったのは、かいじゅう島に行って、かいじゅうたちの王様になり、一緒に遊んだ。と言うことしか描かれていない。遊びの種類はたくさん描かれていたものの、それ以外がほとんど描かれておらず、その”原作に描かれなかった”部分を描くことに映画は特化されている。 では、原作に描かれず、映画で描かれた部分とは何か。 原作のプロットは、いたずら好きの主人公マックスが母によって部屋に閉じこめられたところ、部屋の中が突然森になり、そして往復2年の旅とかいじゅうたちとの遊びを経て家に帰ってきたら、それはほんの数分の間の出来事だった、と言うなんか荘子の「胡蝶の夢」みたいな話だったのだが、これをジョーンズ監督は、かいじゅうの描き方を工夫して一種のメタフィクションとして仕上げてみせた。 原作も映画版も「これはマックスの夢」という可能性を持ってきているが、絵本版にプラスして映画の方は、かいじゅうたちをマックスの心の葛藤の姿として描いて見せたのだ。 改めて考えてみよう。かいじゅう島に住む住民たちはそれぞれ個性的だが、いくつか共通する部分がある。例えば、それぞれが全く違う姿をしている。性別ははっきりしているのに性的描写が一切ない。それぞれの性格が極端にはっきりしている。度々「食べる」ことに言及しているくせに、一切ものを食べている描写がない。などなど。 特に性格描写については見事に全員際だっているのが分かる。一人一人挙げると、キャロルはいつも誰かに愛されることを求めていながら、それを与えられないと暴力衝動に突き動かされる。サイの顔をしたジュディスはとても意地悪で、自分よりも弱い存在に対しては容赦なく精神的に追いつめる。そのパートナーであるアイラは気が弱く、いつも流されているがとにかく仲間に対しては優しい。山羊の顔をするアレクサンダーは臆病でいつも隠れようとする。鳥の顔をしたダグラスは理性的。牡牛の顔をしたブルは頑固。雪男(?)のようなKWは優しいが理知的。 かいじゅうたち一体一体はまるで異なっている。ただし、それらは実は全部一人の人間の中にある感情そのもの。彼らの性格の違いは、実はマックスの心の中にある葛藤そのものだとも言える。 母親と姉の愛が欲しいマックスは、二人にプレゼントを贈ったり、一緒にいることで自分を見てもらおうと一生懸命だが、心が繊細なので、ちょっと無視されたり、自分以外の人に心が向くと、途端に暴れはじめてしまう。かいじゅう島のキャロルが暴れているのは、まさにマックスの心の中が荒れているから。ひたすら暴れ、それで自分がよけいに傷つくことになる。そんなキャロルを見守り、時にいたわり、時に離れるKWもやはりマックスの中にある理性的な感情だし、他のそれぞれのかいじゅうも、やはりマックスの中にある感情を担当していると考えられよう。 そう考えると、ブルの立ち位置は結構おもしろい。彼はゴーイングマイウェイの性格で、他のかいじゅう達と行動が一致していても、それは単に他のかいじゅうに合わせてやっているだけ。劇中全くマックスに話しかけることがなかったが、最後のマックスの船出の時だけ一言声をかけている。彼の担当するのは「落ち着き」で、母に対する怒りがようやく収まった時、彼が感情の中で支配的になってきたことを表しているのだろう。 そして心が落ち着いたところで、マックスは家に帰り、母に見つめられながら食事をいただく。 ラストはやや中途半端な印象も受けるが、かいじゅう達はやっぱりマックスの中に住んでいる。だけど、少しずつかいじゅう達も折り合いがついていく。という解釈で良いのだろう。 そう見ると、本作は、子供の心象風景を物語仕立てにして描いた新しい切り口の物語として観ることができる。子供が本作を観た場合と、大人が観た場合とでは印象が全く変わるだろう。 心理描写にこだわるジョーンズ監督ならではで、絵本そのものではない、完全なジョーンズ監督作品として本作は観た方が楽しめる。 |
アイラ | → | |||
【あいら】 | ||||
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アレクサンダー | → | |||
【あれくさんだー】 | ||||
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かいじゅうおどり | → | |||
【かいじゅう-おどり】 | ||||
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かいじゅう島 | → | |||
【かいじゅう-じま】 | ||||
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キャロル | → | |||
【きゃろる】 | ||||
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KW | → | |||
【けい-だぶりゅー】 | ||||
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ジュディス | → | |||
【じゅでぃす】 | ||||
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ダグラス | → | |||
【だぐらす】 | ||||
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ブル | → | |||
【ぶる】 | ||||
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マックス | → | |||
【まっくす】 | ||||
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2009年 ニール・ブロンカンプ(監) |
1982年。正体不明の巨大宇宙船が突然南アフリカ共和国に飛来。ヨハネスブルクの上空に停止したまま何の反応も見せない宇宙船に、国連が調査団を派遣したところ、それに乗船していたのは栄養失調に陥った不気味なエイリアン達だった。彼らを難民として認定した南アフリカは宇宙船の真下にキャンプ地を敷設。第9地区の仮設住宅に住まわせることになった。それから28年の月日が流れ、2010年の今、野蛮で不衛生な彼らが住みついたそこはスラムと化していった。そこで市内の第9地区から郊外の第10地区に彼らを移送することになり、MNU
(MULTI-NATIONAL UNITED)の社員ヴィカス(コプリー)が現場責任者に指名された。淡々と任務を果たしていったヴィカスだが、偶然手にしたカプセルの中に入っていた液体を浴びてしまい…
ニュージーランド人のピーター・ジャクソンが製作し、南アフリカ出身の監督が作ったという外国産のハリウッド映画。 2009年は年末に公開された『アバター』に席巻された感のあるハリウッド映画界だが、それもあって『アバター』は貫禄のアカデミーノミネートを果たした。そんな中、こっそりと本作もノミネートされていた。オスカー候補に2作のSF作品がノミネートされたというだけでも凄いが、どう見てもB級にしか見えない本作がノミネートされたということは、それだけで快挙ではあろう。 ただ、この「アバター」と本作にはもう一つ特徴がある。実はこの2作は内容的にも共通する設定が多いのだ。 前提条件として異性人と人間のコンタクトというものがあるため、自ずと似ている部分もあるのだが、それだけでなくいろいろと類似するものも多い。それらを以下に徒然に挙げてみよう。 最初に主人公は人間側に立って、差別的な目で異性人の住民を眺めているのだが、いつしか彼らの目で人類を見るようになっていく。 又主人公は最初あくまで自分の都合だけで異性人を見ているが、やがて彼らにシンパシーを持つようになっていく。 そして一旦キレてしまうと、立ちふさがる人類に対して情け容赦なくぶち殺す。 その結果、主人公こそが最終的に人類ではなく異性人を勝利に導く役割を担う。 細かいところだと、やたらタフな軍人が登場したり、パワードスーツが出てくるとか不思議な一致が多い。 こう言う訳で目で見える形での類似点は結構あるが、むしろ本質的には人間が持つ差別的感情や功利主義の否定。より原初的な意味での人間性(?)の回復。と言った意味にあってはほぼ一致していると言っても良い。 この二つの作品に共通するのは、明らかに批判精神。そもそもSFとは、直接的に語る事に困難を憶える事柄に対してストレートにぶつけられる場所なのだから、むしろここまでやってくれたことにSFファンとしても溜飲を下げさせていただいた。 ただ、本作が『アバター』と大きく異なるのがエイリアンの生態であろう。“エビ”と称される彼らははっきり言ってグロテスク。表現は悪いが、これはエビと言うより脱皮中のゴキブリみたいな姿をしている。それにその生態というのも、生ゴミを漁ったり、ドロドロのキャットフードをぐっちゃぐっちゃに頬張ったりと、モロに生理的嫌悪感を引き起こす姿だった。実際「ぬめっとした昆虫が嫌い」という人だったら、その姿自体がホラーになってしまうだろう。 だが、ここではそう言う姿にする必然性があった。このような嫌悪感をもたらすデザインだからこそ、物語の最初から人間に徹底的に嫌われていると言う設定が素直に入ってくるし、そしてそう言う生理的な嫌悪感を越えて行く過程がきちんと描かれていくのだから。観ている内に自分自身の感覚が変化していくのを感じる事ができるので、この辺デザインを含め、確かに巧みな作りになってる。実際演出の教科書のようだ。 これらの演出を可能にさせているのは、二人の主人公の描写が丁寧に描かれているから。一応本作では主人公はヴィカスと言う事になってるはずだが、それと同様に重要な人物(?)としてクリストファーがしっかりと描写されている。 最初の主人公であるヴィカスだが、最初に彼は様々なインタビューによってMNU (MULTI-NATIONAL UNITED) 職員として登場する。そのインタビューが面白く、それだけでこの人物の人となり、彼が何かとんでもない事をやらかしたのだと言う事を伝えてくれる。そこだけでも彼は基本的に気が小さいながら人に合わせるお調子者の部分があり、任されたものはきちんと自分の責任を取ろうとする責任感も持ち合わせていること。MNUの高官である義父に頭が上がらない人物であることなどが詰め込まれている。そしてその後、実際の任務の光景により、彼がMNU職員として結構有能であることも分かってくる。この場合「有能」というのは、要するにエイリアン達を「人格と権利を持つ物体」と位置づけている事から。下手な感情移入も、殊更憎むこともない比較的中立的立場を保持できると言う事だ。エビがこれ以上増えてしまうと困るので、卵を焼き払うが(この時点では権利を持たないらしい)、そこに良心の呵責を覚えている訳でもない。まあ、単純に言えば、本当に普通の男に過ぎない。 そんなヴィカスが、一旦本物の危機に陥った時、彼は恐るべき戦士に変貌する。生き残るために彼が取った行動は、それまでの優しさや穏やかさは微塵もなく、目の前にある利用できるものはあらゆるものを利用し、立ちふさがるものはことごとく排除するようになる。内なる野性を呼び起こした狂戦士。そんな変化の描写が滅法格好良いし、この変化がとても楽しかった。 更に最後の、完全変態して静かに第10地区で佇む姿も哀愁たっぷり。静と動の切り替えを上手く作ったな。 そしてもう一人。クリストファーの描写も面白い。まずエビ達はかなり野蛮な存在として描かれてばかりいるのだが、このキャラ(と息子)だけはやや描写に違いがある。非常に理性的であり、しかも機械の操縦に習熟している。 このキャラは背景が全く分からないものの、色々不思議なところがある。端的に言えばその名前だ。クリストファーという名前はどう考えても地球人の名前。更に彼自身燃料液体を「20年前から集めてきた」と言っているとおり、落下後8年後から活動を開始していることからも、こいつは地球で生まれたと考えられるだろう。そんな彼が何故燃料液体のことや、ましてや宇宙船の操縦の仕方まで覚えているのか。そもそもそんなのが28年前に一人でもいたらこんな事態には陥らなかったはず。つまり、クリストファーは地球生まれの超天才児。おそらくはゴミ山の情報の断片から20年という歳月を掛けてここまで知識を積み上げてきたのだろうと思われる。膨大な時間を、自分の星に帰るために用いた、その蓄積が背景にある。そのために生涯をかけてきた男の姿がここにはある。ある意味とても人間くさく描いているがために、彼を通して、これまで嫌悪感しか持てなかったエビたちに近親感が持てるようになっていく。息子を出して「こんな天才がいるのか?」と思わせる事で、クリストファー自身の知能の高さを描写するのも上手い方法。 メッセージ性を高め、キャラを絞ってその内面を深めたことによって本作は一気に説得力を増す。作りはB級でも、これを丁寧にやっていれば、充分大作並みの見応えを持った作品に仕上げることが出来るのだ。本作はそれを端的に表してくれた。おそらくは後年に残るSF作品となっていくだろう。 |
ヴィカス | → | |||
【う゛ぃかす】 | ||||
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エビ | → | |||
【えび】 | ||||
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MNU | → | |||
【えむ-えぬ-ゆー】 | ||||
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オベサンディオ | → | |||
【おべさんでぃお】 | ||||
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クーバス | → | |||
【くーばす】 | ||||
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クリストファー | → | |||
【くりすとふぁー】 | ||||
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グレイ | → | |||
【ぐれい】 | ||||
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ダーク | → | |||
【だーく】 | ||||
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第9地区 | → | |||
【だい-きゅう-ちく】 | ||||
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第10地区 | → | |||
【だい-じゅう-ちく】 | ||||
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タニア | → | |||
【たにあ】 | ||||
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ピエット | → | |||
【ぴえっと】 | ||||
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フンディスワ | → | |||
【ふんでぃすわ】 | ||||
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