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十二世紀のアニメーション―国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの(書籍) 評論 高畑勲の世界(書籍)小谷野 敦 _(書籍) |
2018 | 4'5 死去 | ||||||||
2017 | |||||||||
2016 | |||||||||
2015 | |||||||||
2014 | |||||||||
2013 | かぐや姫の物語 監督・原案・脚本 | ||||||||
夢と狂気の王国 出演 | |||||||||
2012 | いわさきちひろ 〜27歳の旅立ち〜 出演 | ||||||||
2011 | |||||||||
2010 | 赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道 監督・脚本 | ||||||||
2009 | |||||||||
2008 | |||||||||
2007 | |||||||||
2006 | アズールとアスマール 日本語版監修 | ||||||||
2005 | |||||||||
2004 | |||||||||
2003 | 冬の日 アニメーション制作 | ||||||||
2002 | |||||||||
2001 | |||||||||
2000 | |||||||||
1999 | ホーホケキョ となりの山田くん 監督・脚本 | ||||||||
1998 | キリクと魔女 日本版演出 | ||||||||
1997 | |||||||||
1996 | アルプスの少女ハイジ アルムの山編 演出 | ||||||||
アルプスの少女ハイジ ハイジとクララ編 演出 | |||||||||
1995 | |||||||||
1994 | 平成狸合戦ぽんぽこ 監督・原作・脚本 | ||||||||
1993 | |||||||||
1992 | |||||||||
1991 | おもひでぽろぽろ 監督・脚本 | ||||||||
1990 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | 火垂るの墓 監督・脚本 | ||||||||
1987 | 柳川堀割物語 監督・脚本 | ||||||||
1986 | 天空の城ラピュタ プロデューサー | ||||||||
1985 | |||||||||
1984 | 風の谷のナウシカ プロデューサー | ||||||||
1983 | |||||||||
1982 | セロ彈きのゴーシュ 監督・脚本 | ||||||||
1981 | じゃりン子チエ 監督・脚本 | ||||||||
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1980 | 母をたずねて三千里 監修・演出 | ||||||||
1979 | アルプスの少女ハイジ 演出 | ||||||||
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1978 |
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1977 | アルプスの音楽少女 ネッティのふしぎな物語〜チロルの音楽一家エンジェル・ファミリー 演出 | ||||||||
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1976 | 母をたずねて三千里 演出 | ||||||||
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1975 | アルプスの少女ハイジ 演出 | ||||||||
1974 | アルプスの少女ハイジ 演出 | ||||||||
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1973 | パンダ・コパンダ 雨ふりサーカスの巻 演出 | ||||||||
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1972 | パンダ・コパンダ 演出 | ||||||||
1971 |
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1970 | |||||||||
1969 |
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1968 | 太陽の王子 ホルスの大冒険 演出 | ||||||||
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1967 | |||||||||
1966 | |||||||||
1965 | 狼少年ケン 誇りたかきゴリラ 演出 | ||||||||
1964 | 狼少年ケン おばけ嫌い ジャングル最大の作戦 演出 | ||||||||
1963 | 暗黒街最大の決斗 助監督 | ||||||||
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1962 | |||||||||
1961 | |||||||||
1960 | |||||||||
1959 | |||||||||
1958 | |||||||||
1957 | |||||||||
1956 | |||||||||
1955 | |||||||||
1954 | |||||||||
1953 | |||||||||
1952 | |||||||||
1951 | |||||||||
1950 | |||||||||
1949 | |||||||||
1948 | |||||||||
1947 | |||||||||
1946 | |||||||||
1945 | |||||||||
1944 | |||||||||
1943 | |||||||||
1942 | |||||||||
1941 | |||||||||
1940 | |||||||||
1939 | |||||||||
1938 | |||||||||
1937 | |||||||||
1936 | |||||||||
1935 | 10'29 三重県で誕生 |
かぐや姫の物語 2013 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
2013日本アカデミーアニメーション作品賞、音楽賞 2013日本映画批評家協会アニメーション作品賞、アニメーション監督賞 2013毎日映画コンクールアニメーション映画賞 2014米アカデミー長編アニメ賞 2014LA批評家協会アニメーション賞 2014ボストン映画批評家協会アニメ賞 |
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時は平安の世。都近くの山村で竹細工を生業にしている翁と媼がいた。いつものように竹を切りに山に入った翁は、そこで不思議に光る竹を目にする。その竹を切ったところ、中から可愛い女の子が現れるのだった… 日本においては誰も知らない人はいない民話「竹取物語」。日本人のアイデンティティの一部とさえなっているとも言えるこの物語を高畑監督が五年以上の時間をかけての渾身の映画化。 この作品を観た人の反応は真っ二つに分かれるんじゃないかと思われる。 一つは「もっと大胆に作ってほしかった」というのと、「ここまで大胆に作ったのか」という、多分全く正反対の評価が与えられるかと思う。 そのどちらも間違ってない。 実際この作品、「竹取物語」のフォーマットを一切崩してない。誰もが知る「竹取物語」をそのまま丁寧に映像化したような構造でもある。オリジナル要素としては、捨丸という青年を配して折に触れてかぐや姫の人生に現れるということくらい。この部分に不満を持つ人もいるんじゃないかと思う。もっとオリジナル要素を増やして、それこそ“今まで観たこともない”「竹取物語」を見せてほしかったというもの。予告ではまるで全く新しい物語が作られるように煽られていたのだから、そんな不満が出るのも分かる。 だが一方、それとは全く真逆に、「ここまで大胆解釈するか」という驚嘆の声も上がるんじゃないかとも思える。 この両極端な評価が出るのは、物語そのものに焦点を据えるのか、それとも一人の女性の生き方というものに焦点を据えるのかによって変化するのだろう。 つまり、物語だけを見る限りは、完全にフォーマットに則った作品だが、かぐや姫という一人の女性を見るならば、本作は際だった特徴を持つ物語になるのだ。 高畑監督は、本作を語る上で、かぐや姫を現代の女性像として捉えると語っていた。では現代の女性像とはなんだろうか? 簡単に言えば、それは「自立できる」という事になるだろうか。自分で判断し、判断したことを実践できる女性となる。 一方において日本(と言う言い方は悪いか。どんな場所であっても)は長らく封建社会にあって、女性は親の言うとおりに生き、親の考える結婚こそが全ての幸せと強いられることになる。 そんな社会の中に放り込まれた、自立心の強い女性はどのような反応をするだろうか? 本作におけるかぐや姫は、子どもの頃より自分の好きなことを楽しむタイプだが、それ以上に自分を育ててくれた翁と媼の期待にも応えなければならないという思いもあり、しかもどんなことをやっても人並み以上にうまくいく上、器量よし。完璧な女性であった。どうしてもそこに引きずられてしまう。 だから時に暴走してしまうこともあって、何度か反抗もするのだが、結果として個性を閉じ込めて翁と媼の期待通りに生きてしまう。 この部分、高畑監督がこれまでアニメーションで描き続けてきた人間というものを端的に表している。 人間は個性的な生きものであるが、同時に社会的な生きものでもある。個性を生かして生きていきたいと思う一方で、社会的な制約を受けつつ(それは制度であったり、人間関係であったり)、その中で、「自由になりたい」と願う。 大体70年代のATG流行りの日本映画界においてはこれは物語のメインテーマであり、当時の映画には、どんな作品にもこの“制度と自由”のアンビバレンツが描かれていたものだ。だんだんそれは時代の流れと共に後退していったが、高畑監督はその視点を持ち続け、それをアニメーションという形で世に問い続けてきた。そこが非常にユニークな部分だ。 例えば『平成狸合戦』では、狸の生態と自然破壊をメインテーマとしつつ、自由に生きている生きものが制度によって潰されていく様子を、『おもひでぽろぽろ』では、周囲の期待に合わせて生きていくことの心詰まりを、『となりの山田くん』では、家族という制度を。結局監督はその視点を常に作品に投影し続けていたわけだ。 そして本作においてかぐや姫は、自分を捨てることで周囲に合わせる生き方を選択し、それは上手く行っていた。だが、それは最終的に別離という形で全てが御破算とされてしまう。 月の住民であるかぐや姫は、地上を夢見たという罪を負ってこの世界へとやってきた存在だった(劇中ではそれが“罪”とされているのだが、実際はかぐや姫が望んだ通りになってるので、その部分はちょっと疑問でもあるのだが)。それは限られた時間の中で、どのように彼女が生きるか?という試練が与えられたのだが、翁はそれを制度の中で生きる事が最も彼女にとって幸せだと思っていたし、月から与えられた指令もそれであると思いこんだ。だが、それは彼女にとっては、ほんの僅かな時間を自由に生きるために与えられた時間だった。それが出来ないまま月へと帰らされるということは、彼女にとっては悲劇に他ならない。 最終的に彼女は地上の全ての記憶を奪われ、月の住民として帰還することになるが、これはそのまま一人の女性の死を描くこととなる。与えられた時間を有効に使うことなく、後悔のまま死を迎える。これ又大きな悲劇である。 これをテーマとして、監督は、社会の中で、いかに自分が自分として生きるのか?と言う問いを投げかけているかのよう。黒澤明監督がかつて作り上げた『生きる』(1952)で歌われていた「ゴンドラの唄」のワンフレーズ「命短し恋せよ乙女」の通り。この作品自体が問題提起となっているようだ。 そう言う意味で、本当にこの人は変わらない。そしてその変わらなさが、とても頼もしい人でもある。 |
赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ホーホケキョ となりの山田くん 1999 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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お婆ちゃん、お父さん、お母さん、息子と娘という5人家族の山田一家。平々凡々たる彼らの生活を描くアニメーション。 朝日新聞に連載したいしいひさいし原作の同名漫画の映画化作。丁度その頃ようやく私もネット生活に入っていった頃で、本作の情報は最初にネットのニュースで見たのだが、なんでこれが?というのが正直な感想。 昔「おじゃまんが山田くん」というTVアニメがあった。これはいしいひさいし流の諧謔主義と貧乏生活描写に溢れた好作で、私も結構好きなアニメ作品だったので、てっきりこれの再来か?とも思ったものだが、できばえは随分違う。 本作はむしろシニカルさよりはペーソスとか家族愛の方に重点が置かれているのが特徴。しかしそれは明らかに間違った作り方。つまり本作には全く毒気が感じられない。 新聞の四コマ漫画は風刺がその中心となるのだが、肝心の中心抜きにして作られては意味がまるで感じられなくなってしまう。 デジタルでは難しい淡い色遣いを多用し、手間とか技術とかは最高水準なのだが、観ていて眠くなるドラマが延々と展開することに、アニメーションを使う必然性はどこにあるんだろう? |
平成狸合戦ぽんぽこ 1994 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1994日本アカデミー特別賞 1994キネマ旬報日本映画第8位 1994毎日映画コンクールアニメーション映画賞 |
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多摩丘陵でそれまでのんびりひそかに暮らしていたタヌキたちを脅かす出来事が起こる。人間による宅地造成が始まったのだ。タヌキたちは開発阻止を目論み先祖伝来の″化け学″を復興させることとなった… 狸は化けることが出来る。と言うことを前提に、人間と狸の関わり方を歴史絵巻風に温かい目で描いた作品。 架空の歴史を作り上げ、それに沿った物語が展開すると言う、映画ではかなり珍しいタイプの作品で、高畑勲監督の野心作。 こういう歴史絵巻物はかなり好き。ただ、映画の場合はこう言った歴史絵巻を作るのは結構難しく、通常ドラマを補完する形で用いられるものだが、流石アニメーションの可能性を模索し続けている高畑監督だけに、歴史の方をメインにして、それを裏付ける形でドラマ部分を作っているところが本作の最大特徴であり、その結果歴史を作ろうとするだけでなく、歴史に押しつぶされた狸たちの描写までしっかり描かれている。良いところだけでなく、その失敗から実際に起こったことも含めて描かれているのが大変興味深い作品だ。 ただし、この形式で作られた作品というのは、私の知る限りアニメでは本作だけ。 理由は簡単で、本作が失敗に終わったから。労力の割に報われることが少なく、評価もそこそこといったところ(私も劇場で観なかったし)画期的な作品というのは一方では当然失敗と言うことも多くあり得るわけで、幾多の失敗の上に今のアニメーションが存在する。そう考えると、本作は一種の踏み絵的作品だと言っても良いだろう。 確かに興味深い設定を用いて作られた作品には違いないが、この形式では避けようがない説明の部分にあまりにもウェイトがかかりすぎた。それが売りであると同時に、物語を著しく阻害してしまい、結果として大変バランスの悪い作品となってしまった。 設定の面白さをもう少し演出の方に回してくれたら、相当に面白くなった作品だと思うので、この作品が結局失敗に終わり、この流れが終わってしまったのが大変残念。これからこういうチャレンジャブルなアニメがこれからも登場してくれることを願わずにはいられない。 |
おもひでぽろぽろ 1991 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991日本アカデミー話題賞 1991キネマ旬報日本映画第9位 |
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1982年夏、東京から山形の義理の兄の元へ向かうOLの岡島タエ子。山形へ向かう列車の中で、小学生の頃の思い出を振り返る。兄の元で農業に情熱を燃やす青年・トシオとともに農業に勤しむ中で、過去の思い出に再び心を巡らせるタエ子。そして休暇も終わり、タエ子が東京へ帰る日がやってきたが・・・ 高畑勲監督の映画はどうも説教臭いところがあってあまり好きではないが(それを言ったら宮崎駿監督も一緒か…)、これは珍しく比較的素直に観ることが出来た。今思うに、それは丁度この時期に私はフリーターやってた時だったので、その時の精神状態も大きな理由だろう。 この作品は二部構成となっており、現実世界に生きる自分自身と子供の頃の想い出が交差する形で物語が形成されている。それで想い出のはずの子供時代が現在の自分のあり方に干渉すると言う面白い構成が用いられており、それは上手く作られていたと思う(出てくるのが何故か“小学5年生の私”しかいないというのはちょっとおかしいとは言え)。過去の再検証と、現在の、そして未来への自分自身を見つめていくというのは、ある意味カウンセリングマインドに則ったやり方でもある。 ただ、何か乗り切れない部分を感じてしまう自分がそこにはいた。不思議な違和感と言うべきか。それが何か、とコメントを書きながら今考えてみて、ようやく多少理解できた気がする。 彼女、ただ逃げてるだけじゃないのか?今の仕事から逃げ、逃げている自分を自己正当化するために、姉と父、学校で抑圧された自分自身を引き合いに出すことでそれを正当化しているような部分があるし、逃げたはずの田舎で、やはり結婚と言う文字が出ただけで逃げる。そして最後は帰らねばならないはずの自分から逃げる。結局全編に渡って“今”から逃げる方法を模索しているばかりじゃないか?それで最後は本当に逃げてしまって終わるのだが、それを正当化しようとしている姑息な部分。結局それが辺に腹の立つ部分となっていた気がする。 仕事をしていると、不意に「この仕事は私には向いていないんじゃないかな?」と思える時がある。この主人公も丁度そう言う精神状態だったらしく、田舎に向かう汽車の中で不意にこどもの頃の記憶が蘇り、それに引きずられ続ける。それで結局田舎で生きることを彼女は決心するわけだが、多分その辺が身につまされたため、随分それに共感したのだろう。実際、その後、今の仕事を始めてからもう一度テレビで見てみたが、さほど共感を覚えると言うほどではなくなっていたっけ。結局逃げようと考えている時は、この作品に共感でき、逃げないことを決心した時には違和感を感じ出す。これはそう言う作品だ。 本作の場合技術面においては大変重要な点もある。日本のアニメーションは省略化と、デフォルメ化で作られてきた。これは具体的に言えば“今の日本人”というものを描こうとしてなかった。という事に他ならない。漫画的技法を駆使すると、結果的に顔に対する目の割合が高くなり、それがいわゆる“萌え”という形に括られる。しかし実際の人間の表情はそんなものではない。高畑監督はそれを真っ向からぶつけてみた感じはある。本作で描かれる人間はきちんとモデルと同じ顔をしていて、表情を変える時もきちんと奥で筋肉が動いているのも感じられる。技術的に言えば今の日本ではこのくらいのことは出来ることをしっかり示そうとしたのだろう。時代に逆行していたのは事実にせよ。 尚、高畑監督は本作にロマンスを入れるつもりは最初は全くなかったらしいが、やはり映画はそれがないと。というプロデューサーの意向で物語を変更したのだとか。その結果、農家の嫁になれ!という、妙な主張が出来てしまった訳だが。 |
火垂るの墓 1988 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1988ブルーリボン特別賞 1988キネマ旬報第6位 1988ヨコハマ映画祭第10位 |
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太平洋戦争末期。父を戦争に奪われ、母を病気でなくした兄妹。叔母の家に引き取られた二人だが、そこでの折り合いが悪く、二人だけで生きようと家を出る。だが、幼い兄妹だけで生きるには、時代はあまりにも厳しかった… 原作者の野坂昭如が自身の戦争体験を色濃く反映させた同名小説を高畑勲が映像化した長編アニメ。 戦争の悲惨さと苦しみを通して兄妹愛を貫いた感動の名作…だそうだ。 問題は、私はまるでこれに感動できなかったと言うこと。いや、むしろ、この映画のあまりの馬鹿馬鹿しさに開いた口がふさがらなかった。と言うべき。 映画の冒頭で、死んだ母の着物を売った金で買った米を半分に分ける叔母。それに対し、非常に不満をくすぶらせるシーン。何故不満なのか?こんな時代に引き取られたなら、身ぐるみ剥がされても文句の言えない状況。兄妹に部屋をあてがい、不自由しているはずの叔母の家の状況は完全に無視される。 軍事教練に出席せず、ただ妹と遊ぶだけの兄。これを「自由」と言えるのは価値観なるものがぶっ壊れている現代だけ。確かに軍事教練は馬鹿馬鹿しいかも知れない。だけど、無視することは更にとんでもない。これが主義主張がそれなりにあれば、理由付けはされるが、それもなし。社会性が全くない訳か。 叔母の家から兄妹だけで逃げ出す。最早何も言えない。結果は目に見えてる。 妹が病気になったときに何も出来ない。当たり前。自業自得。 火事場泥棒。いいのか?これを感動的な物語と言っていいのか? 結論。妹を殺したのはお前だろ?自分が死んだから、それで良いのか? 百歩引いて、こういう物語が作られること自体は構わないのだが、これを「感動的」と言う人間が怖い。 分かった。この物語はきっと「あんまり勝手なことをやってると、こんな悲惨な死に方をしますよ」というたとえ話なんだ。そうに違いない。 尚、本作は後のジブリ関係では珍しく新潮社が製作元になっているが、これは徳間が『となりのトトロ』(1988)の出資を渋ったため、かなり無茶な真似をして新潮社を引き込んでこの二本を同時公開に持って行ったからだとか。 |
じゃりン子チエ 1981 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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博打と喧嘩が何より好きで、全く生活力が無いダメオヤジである鉄(西川のりお)に代わり、ホルモン焼き屋を切り盛りしている小学五年生のチエ((中山千夏)。学校と店で忙しい中、唯一おかあさんのヨシ江と会う事を楽しみに、それでも明るく過ごすチエだが… はるき悦巳原作の「じゃりン子チエ」の映画化作。 本作はアニメ映画としては大きな進展を果たした作品である。 何よりまず監督主体のアニメ映画を確立したこと。 当時のアニメ映画は実写畑の監督の名義を借りる事がほとんどだが(アニメ監督のネームバリューが低すぎた事が原因らしい)、高畑勲はようやく自分の名義で単独公開にこぎ着けたし、当初脚本は藤本義一を起用したが、高畑監督の気に入らず、結局自分でストーリーボードを書き直すこととなったとか。結果として高畑監督はいろんな雑音をはねのけ、自分の作りたいように作ることができた。 実際本作がプロの脚本家が書いていない事は、通して観ると分かる。 なんせ本作にはストーリー的な一貫性がない。ミニストーリーを貼り合わせて一本の映画にした感じであり、クライマックスに向けて盛り上げるという手法を敢えて採っていない。一本の映画と言うよりは連作短編に近い感じである。 だけどそれこそが高畑監督の本当にやりたい事だったのだろう。庶民を描く作品なのだから、物語にそんなに起伏は必要ではない。何気ない風景の連続で充分映画になるという主張だろう。 この考えは基本的に高畑監督の一貫した思いらしく、『パンダ・コパンダ』から『ホーホケキョ となりの山田くん』まで。庶民的なドメスティックな視点から何気ない日常を描こうとしていたから。 そしてそれが許せるのが本作であり、その意味でちゃんと作りたいように作れた好作と言えるだろう。 だが、それは理解しているが、ちょっと評価点数は上がりきらない。 映画単体として、確かに出来は良かった。だけどこの素材はテレビ向きなんだよ。事実この直後にテレビ版が作られることになって、そこでのエピソードがとても落ち着いているというか、あるべきところにあるという感じで、映画的なよそ行き感なしでちゃんと楽しめる作りになっていたから。 事実私は本作はテレビ版の方を先に観てしまっていたので、劇場版の本作を観た際はテレビ版との違和感ばかり目が行き、素直に楽しめなかった。 |
パンダ・コパンダ 雨ふりサーカスの巻 1973 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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パンダ・コパンダ 1972 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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元々宮崎監督は『長靴下のピッピ』を作るはずだったが、原作者の許可が得られなかったため断念。その代わりの企画として来たのが本作 |
太陽の王子ホルスの大冒険 1968 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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北国で父と小熊のコロと共に暮らすホルスはある日岩の巨人モーグと出会い、モーグの肩のトゲを抜いてやった。そのトゲは、実は太陽の剣と呼ばれる素晴らしい剣だった。その夜、老いた父が亡くなり、父の遺言通りホルスはコロと共に旅立ち、鮭を捕って生活している小さな村にたどり着く。そこで湖の主で村人を苦しめている怪魚を倒したホルスは一躍村の英雄となるのだった。そして村から外れたところで少女ヒルダと知り合い、村へと連れてくる。だが、手下の怪魚を殺されたことでその村に襲い来る悪魔グルンワルド。実はヒルダこそがグルワンドの妹であり、ホルスを陥れるための罠だったのだ… 日本における青年向きアニメ第一作で、日本では珍しいライブアクションフィルム。日本のアニメの方向性を決定させたと言う意味でも日本アニメ史上にあって最重要の作品と言われている。ただ、それは今だから言える話であり、当時の興行成績は悪い…と言うより「記録的な不入り」とまで言われた作品だった。しかし、この作品が後の日本のアニメに与えた影響はとんでもないものがあった。ここまでキャラクタの心情に踏み込めることが出来ることを証明したのみならず、宮崎駿というアニメーターを作り上げたと言う点においても。 本来この作品はアイヌの民族叙情詩を元にした「チキサニの太陽」という舞台劇を観た高畑勲が、是非これを映画化したい。と、本来の企画であった「龍の子太郎」を外して強烈に推薦したために企画が通った。 本作の噂は昔から聞いており、興味はあったのだが、別段理由もないまま何となく敬遠し続けていた。結局本作を観たのは宮崎吾朗監督の『ゲド戦記』(2006)を観た後で、本作の製作から40年近くも経ってからと言うことになる。 マジで驚いた。はっきり言って40年という時間を超越したとんでもない作品である。 正直な話、あの原作無視も甚だしい『ゲド戦記』の後で観たからこそ、本作の意味合いもよく分かる。遙かにこっちの方が原作の「ゲド戦記」に沿ってる。しかもまだこの時代、「ゲド戦記」自体1巻が出たばかりなのに、2巻の要素までちゃんと取り込んでる。そもそも「ゲド戦記」は1巻で自分自身の中の闇を受け入れたゲドが2巻でテナーという少女を助け、(心理的な意味で)闇の中を共に歩んで光を見つける。という要素があるのだが、まさしく本作のホルスとヒルダの関係はそのままゲドとテナーの関係に当てはめることが出来る。ホルスは試練に際し、自分自身を見出しつつも、痛みを共有することでヒルダを救っていく。そこには爽快感は無いが、ぐぐぐっと心を締め付けるような、痛みを超えた快感があった。 それだけ本作では肉体的アクションより、心理的描写が実によく描かれていると言うこと。と言うか、一つ一つのホルスの行動が実は内面的な戦いである。と観ることが出来るのだ。 そしてホルス本人の問題だけではなく、村とグルンワルドとの関係とは、ヴェトナム戦争そのもの。小国が二大大国によって翻弄される過程を事細かく描いているのも特徴的。時代をも感じさせてくれる作品である。 様々な意味でアニメーションの可能性ってものを示した作品。 作家性が良く出ているとは言え、本当に良くここまで詰め込んだものだ。驚くべき内容である。しかもよく動くしね。本当に目が離せない作品だったよ。実はさほど評価してなかった高畑監督を一気に見直してしまった。 色々な意味で不幸を背負った本作。モスクワ映画祭で受賞したにもかかわらず、渡航費用を東映は出そうとせず、アニメーター組合でカンパして高畑監督を送り出したのだとか。 いっそ『ゲド戦記』も割り切って本作の続編という形にしてしまって、『闇の王子アレンの小冒険』って題にすりゃ良かったんだ。 その後、『王と鳥』(1980)を観て、本作の意味合いも少し私の中では変わってきたが、やっぱりこの当時のアニメというのは社会に対して挑戦を叩きつけてきたんだな。と改めて感心。 |