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2022 | かがみの孤城 | ||||||||||
2019 | バースデー・ワンダーランド 監督 | ||||||||||
2018 | |||||||||||
2017 | |||||||||||
2016 | |||||||||||
2015 | 百日紅〜Miss HOKUSAI〜 監督 | ||||||||||
2014 | |||||||||||
2013 | はじまりのみち 監督・脚本 | ||||||||||
2012 | |||||||||||
2011 | |||||||||||
2010 | カラフル 監督 | ||||||||||
2009 | 川の光 演出協力 | ||||||||||
BALLAD 名もなき恋のうた 原案 | |||||||||||
2008 | |||||||||||
2007 | 河童のクゥと夏休み 監督 | ||||||||||
2006 | |||||||||||
2005 | クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ ブリブリ 3分ポッキリ大進撃 絵コンテ | ||||||||||
2004 | クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ 絵コンテ | ||||||||||
2003 | クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ栄光のヤキニクロード 絵コンテ・脚本 | ||||||||||
2002 | クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 監督・絵コンテ・脚本 | ||||||||||
2001 | クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 監督・脚本 | ||||||||||
2000 | クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル 監督・絵コンテ・脚本 | ||||||||||
1999 | クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦 監督・脚本 | ||||||||||
1998 | クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦 監督・絵コンテ・脚本 | ||||||||||
1997 | クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡 監督・脚本 | ||||||||||
1996 | クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険 演出・脚本 | ||||||||||
1995 | クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望 演出・脚色 | ||||||||||
1994 | クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝 演出・脚本 | ||||||||||
1993 | ドラミちゃん ハロー恐竜キッズ!! 監督 | ||||||||||
クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王 演出・脚本 | |||||||||||
1992 |
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1991 | ドラミちゃん アララ・少年山賊団 監督 | ||||||||||
21エモン<TV> 監督 | |||||||||||
1990 | |||||||||||
1989 | |||||||||||
1988 | エスパー魔美 星空のダンシングドール 監督 | ||||||||||
1987 |
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1986 | |||||||||||
1985 | |||||||||||
1984 | |||||||||||
1983 | |||||||||||
1982 | |||||||||||
1981 | |||||||||||
1980 | |||||||||||
1979 | |||||||||||
1978 | |||||||||||
1977 | |||||||||||
1976 | |||||||||||
1975 | |||||||||||
1974 | |||||||||||
1973 | |||||||||||
1972 | |||||||||||
1971 | |||||||||||
1970 | |||||||||||
1969 | |||||||||||
1968 | |||||||||||
1967 | |||||||||||
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1965 | |||||||||||
1964 | |||||||||||
1963 | |||||||||||
1962 | |||||||||||
1961 | |||||||||||
1960 | |||||||||||
1959 | 7'24 群馬県館林市で誕生 |
かがみの孤城 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中学校に入ってから、いじめに遭って学校に居場所をなくしてしまったこころ(當真あみ)は、不登校状態に陥っていた。不登校児のための学童にも足が遠のいて日々自室に閉じこもるようになってしまうのだが、ある日部屋の鏡が光りだし、それに触れたこころは、見知らぬ城の中にいた。そこには他に七人の同世代の子ども達がおり、その中で狼の仮面を付けた女の子通称“オオカミさま”から、「城に隠された鍵を見つければ、どんな願いでも1つ叶えてやる」と告げられる。九ヶ月の時間を使って鍵を探すことになった七人は、やがて自分たちが選ばれた理由を突き止めるべく、お互いの事情を話し合うようになる。 寡作ではあるが質の高い作品を世に送り出す原恵一監督だが、何故か前作『バースデー・ワンダーランド』は大きく外してしまった。私としても期待して観てあの出来では到底評価も出来なかった。 そんな原監督の次回作。どうなんだろうな?とか思いながら、それでも観に行ってしまったが、前作とは全く異なった。これは大変面白い作品になった。 どっちかというとこれは映像化するよりも小説の方で読みたくなるかなり複雑な物語なのだが、その複雑さをしっかり映像に映し出し、しかも説得力を持たせられてる。大変素晴らしいバランス感覚を持った作品と言える。 これは元々の辻村深月の原作が面白いということだが、その原作をちゃんと面白いまま映像化できたところが流石である。 良い原作というのはつまり、文字に最適化した作品だということなのだが、それは映像とは別物ということである。原作がとても優れたものであったとしても、それを映像化した時に失敗する事はよくある。 それは小説とアニメーションでは文脈が違うということ。小説ならではの表現とアニメーションの表現は違う。勿論実写もその通りだが、実写と違うのは、実写よりアニメの方が本の台詞をそのまま表現するのが求められるという点で、ごまかしが利かない分、本とのニュアンスの違いが際立ってしまう。 その微妙なバランスを取るのに、一番上手いのは原恵一だろう。正直『カラフル』観た時は、原作小説よりも面白いものを作ってしまったもんだが、本作もその辺大変上手く作られてる。 作品の上手さはいくつもあるけど、まず物語の構成がしっかりしているところが挙げられる。本作の、特に孤城についての描写は思いの外複雑で、かなり難しい描写を強いられるが、大変バランス良く仕上げられた。特に複数存在する謎をタイミング良く開示するテンポが良かった。孤城に集められた子ども達の世代の話、鍵の在処の話、そしてオオカミさまの正体など、順々に分かるようになっていて、そのタイミングの取り方が上手い。小説なら問題なく出来る描写だが、それを映像にしてちゃんと理解出来るように作っているのが上手いところだ。 そしていじめに対しての描写の上手さだろう。いじめとは理不尽なものだが、リアルに描くと観ていてきついだけのものになってしまいがちなものをきちんと抑制をつけて、どこか救いのある描写と、だからといって責任がどこにあるのかしっかりと追求している作り。これはおそらく原作由来だろうが、作り手の方も逃げてないというのが良かった。正面からいじめ問題にぶつかりつつ、それをエンターテインメントに昇華できているバランスの良さがある。これまでいくつもいじめ問題にぶつかっていったアニメを観てきたが、その中では最もバランスの良い描写だったと思う。 その上で少年少女のビルドゥングスロマンとしてしっかり仕上がっていること。半年という時間を経てこころは自分を取り巻く人々によって救われていることを実感し、そして自ら一歩進んで人を助けようとしていた。それはこの孤城に集められたメンバーそれぞれが同じで、形は違えど、それぞれが自分の課題を乗り越えている。 これら一つ一つが見事なタイミングで展開されるため、全体的な質が大変上がっている。これだけバランス取るのは相当に苦労しただろうが、それが出来るのが原恵一という監督の実力だろう。 |
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バースデー・ワンダーランド 2019 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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学校でいじめの現場を目撃し、嫌な気分になって学校に行きたくなくなってしまったアカネ(松岡茉優)は小学校をずる休み。お母さんはそんなアカネに叔母のチイ(杏)の店にお使いに行くよう言われる。だが店に行ったところ、地下室から突然男が現れ、アカネを救世主と呼び、自分の世界を救って欲しいと願う。渋るアカネと、好奇心旺盛で冒険を求めているチイはアカネを引っ張って地下室の先にある世界に飛び込んでしまう。 「クレヨンしんちゃん」シリーズで頭角を現し、初期の映画シリーズでは名作を連発。シリーズから離れても質の高い作品を作っている原恵一監督の最新作となる本作。 しばらく大人向けの作品を作っていた監督が再びこども向けの作品を作るというので、どんなものが出るのかと結構期待していた。 しかし、蓋を開けてみると、なんか残念なものになってしまった。 作品そのもので言うなら、実に普通のファンタジー作品である。突然現れた案内人によって異世界に連れて行かれ、そこで世界を救うというパターンは「不思議の国のアリス」をはじめとしてファンタジーの基本とも言える。 ただ、基本に忠実すぎてとても無難なものになってしまって、観たらすぐに忘れてしまいかねないものになってしまった。 一番の問題として、原恵一が何でこんな作品を作らないといけないのだ?という部分。この脚本のどこに惚れ込んで作ったのかは分からないけど、こんな無個性な作品を作ろうとした理由が分からない。 あと、いくつもの伏線無視もいただけない。 例を挙げると600年前に来た救世主が何故アカネと同じ手型をしてるのかとか、アカネの小学校でのモヤモヤが、貝殻を持って帰っただけであっけなく解消してしまうとか、伏線が伏線になってないのばかり。 出てくるキャラがみんな余計な台詞は喋りまくるくせに肝心のことについてはまるで喋らないというのは作品としてどうかと思う。カタルシスも弱く、お陰ですっかり欲求不満。 何度でも言うが、なんでこの程度の脚本の作品を原恵一が作らないといけなかったんだろう? |
百日紅〜Miss HOKUSAI〜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015日本アカデミーアニメーション作品賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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江戸時代の浮世絵師として著名な葛飾北斎にはお栄という一人の娘がおり、父の仕事を手伝い、時には父の代わりに浮世絵を描いていた。そんなお栄が、目の不自由な妹や、父の周囲にいる人々と共に移ろう江戸の四季を歩む様子を描く。 江戸風俗研究家であり、文筆家としても漫画家としても知られる 杉浦日向子の漫画「百日紅」を原監督とProductionI.G.が作り上げた作品。 原監督とProductionI.G.という組み合わせは確かこれが初めてとなるはずだが、とても手慣れた作りで、まるでこれまで散々一緒に作ってきたかのような不思議な感触がある。 これはこの二者の持つ方向性がたまたま一致したことが理由に挙げられるだろう。「クレヨンしんちゃん」で名をなした原監督は、元からアニメーションで不条理的なものを描くのに長けており、2007年には妖怪そのものを描く『河童のクゥと夏休み』を作っている。一方ProductionI.G.は妖怪が好きらしく、他の制作会社と較べても明らかに多数の妖怪をモティーフにした作品を多数手がけている。そんな両者が合体して作られたのが本作。だから本作は原監督作品であると共に、ProductionI.G.が作った作品であるとも言える。 本作は基本ミニストーリーの連続で、連続短編を長編で作ったと言った具合。一つ一つの物語で起承転結はあるものの、大きな意味での物語の流れはあまりなく、その辺が映画として作るには弱い感じ。ややマニアック方面なテレビアニメで作った方が映えたかもしれない。ただ、その描写の力の入れ方は流石映画サイズ。3Dと2Dのどちらも駆使して見事な画作りをしてくれた。デジタルを用いて生の質感を描く。I.G.の狙いはまさしくそこにあるんだろうから、映画で良かったのだろう(稚児のシークェンスはテレビじゃ無理だし)。 それも含め、本作は原監督らしさとI.G.らしさがかなりせめぎ合ったようなものとなっていた感じ。原監督としては、江戸という時代の中で、窮屈な環境であっても、出来るだけ自由に生きる女性の姿を描こうとし、I.G.側としては、人間と妖怪が折り合いを付けて生活している、いわば魔都としての江戸を描こうとした。 その二つの方向性が融合したのが本作と言えるのだが、そこは上手くいっているところもあり、いってないところもあり。というところか。 闇の中の中世という意味ではかなり上手く行ってるとは思う。一つ一つのエピソードに必ず神秘的というか、妖怪を絡めて、そこに力を入れていく手法は、演出の巧さと相まって見応えあり。 一方、その中でお栄が何を考え、どう生活し、どう自らの往くべき道を定めていくのか、その辺の深め方が浅い感じ。お栄の心は強いが、人を好きになったり恨んだり、身内の死に直面して、ある部分はますます強く、ある部分は弱くと、時間を追っていくに連れ心境の変化を描くべき所がちょっと足りてなかった感じ。 そうだな。この雰囲気で映画を観るのはとても楽しかったので、出来る事ならあと一時間ほど欲しかったかな?あるいは2、3作のシリーズにしてもらっても良かったな。又こんなのを劇場で観てみたいよ。 |
はじまりのみち 2013 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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カラフル 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010日本アカデミーアニメーション作品賞 2010日本映画プロフェッショナル大賞第10位 2011毎日映画コンクールアニメーション映画賞 |
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死んだ“ぼく”は輪廻の扉へと向かう途中、プラプラという天使から、再挑戦のチャンスが与えられたと聞かされる。そして、“ぼく”は自殺したばかりの中学生“小林真”の体を借りて、自分の犯した罪を思い出すため下界で修行することに。ところが、ここでの真を取り巻く環境は、父は偽善者で、母は不倫中、そして自分をバカにする兄とは絶縁状態という最悪の家庭環境。おまけに学校でも、友だちがひとりもいない上に、秘かに想いを寄せる後輩ひろかが援助交際をしていた事実を知ってしまうなど、まるで救いのない日々だった… 原恵一監督による『河童のクゥと夏休み』以来3年ぶりのアニメ作品。一連の劇場版『クレヨンしんちゃん』シリーズを大人の鑑賞にたえるものに押し上げた原監督だが、こう言う姿勢で良質アニメを作って欲しいと願っている。 あらかじめ“良質”と断言してしまったが、本作の場合、観る前から既に良作であることが私の中では決定事項となっていたし、そして作品自体も実際に思っていた以上にきちんと良い作品に仕上がっていた。 さて、それでは原監督作品アニメの面白いところとはなんだろうか?と本作鑑賞後に考えてみた。そうすると、ファミリー映画で最も基本的な部分をきちんと押さえている。と言う所にあるのではないかと考えられる。 それではファミリー映画で基本的というと、言うまでもなく“家族”であろう。特に映画作品だと監督作品はとにかく顕著にそれが表れている。実質的な劇場デビュー作となった『ドラミちゃん』作品であっても、この人が作る作品の場合、家族の描写にとても大きなウェイトがかかっているのが分かる。いやむしろ監督の場合、家族を描くことこそがその中心だと言っても良い。 その姿勢は本当に一貫してこれまで貫き通されており、そして今回もやっぱり家族が話の中心になっていた。設定だけを見る限り、本作は一度死んだ人間が、現世で修行し直すと言う内容なのだが、ここまで真っ正面から家族を描いて見せたのは、監督の本気度の表れとも見える。 そしてこれは私の趣味だが、“家族を作る”というテーマの作品は、見事なほどに私のツボであり、その意味でこれほどズドンとストレートに来てくれただけでも充分評価すべき。 そしてここでの家族の描き方は一風変わっている。 まず主人公の小林真は家族の一員であると共に、全くの他人でもある。これが面白い効果をもたらしてもいる。 通常“家族を作る”事をテーマにした作品には二つの形がある。 一つは崩壊しかかった元々の家族を再生していくというパターン。 一つは赤の他人が共同生活をしていくことによって、幾多の衝突を繰り返しながら、やがてかけがえのない家族へと成長していくというパターン。 本作の面白いところは、主人公が小林真であって小林真でない。と言う微妙な位置に置かれているため、そのどちらの設定も織り込んでいると言う事だろう。ラストで設定は収斂されるとは言え、主人公は、あくまで他人という目で、お互いに仮面をかぶり続けている家族を観ている側面と、小林真という個人として家族とぶつかっていかねばならない立場にある側面の両方を併せ持っている。「他人なのだから、この家がどうなっても関係ない」。主人公の真が度々口にするセリフ。ところが実際は家族を見ているだけで苛々するし、合わせることも出来ずに家族を傷つけるセリフや行動をつい取ってしまう苛つき。 この部分が本作をユニークなものにしていく。このファンタジックな設定の中に、誰もが持つ思春期特有の苛つきと反発が巧く織り込まされ、今生きている自分というものを問い直させる。これはつまり、観ている側の立場が劇中の小林真の立場と巧く噛み合っている事から来るものと言える。 観ている側は当然劇中の家族に対しては完全な他人としてしか観てない(土台これはアニメだから、実際に“人”ですらない)。しかし、心の中にあった負のノスタルジックを刺激され、もの凄く心の痛みを覚えてしまう。特に劇場で本作を観たならば、のめり込めばのめり込むほど、自分の中の痛さを感じていくことになる。 これは結局物語でありつつ、これを観ている同年代のこども達、あるいはかつて思春期を乗り越えた大人(あるいは今も尚その場に立ち止まっているオトナ)達を対象とし、その心に直接問いかける物語となっているのだ。 原監督が新作を作るに当たってこの作品を選んだ理由はそこにあったんじゃないかな?(うがった考えかも知れないけど)どんなに少なくとも、私にとってはそうとしか思えないし、だからこそ、本作の巧さというものを思わせてくれる。 それと、本作がアニメで作られてるってのは意味があるんじゃないかな?一流の監督が作るアニメは画面一つ一つに手作り感が溢れていて、その分一コマ一コマにも心がこもっているように見える。だからどんなつまらない、あるいは観るのが辛いシーンであっても、正面から観ずにはいられない気持ちにさせてくれる。 仮に本作が実写で行われていたとしたら、ダレ場や辛いシーンは目を向けずに通り過ぎてたかも知れないし、そもそもそんな感情さえ持たずにするっと観るだけになるかもしれない。それを許さないのが演出の力であり、それを最大限引き出せるのがアニメと言う素材なのだから。 その辛さを直視しているからこそ、それを乗り切ったところでカタルシスを感じ取れるのだから。 作り手としてアニメーションを本当によく理解しているからこそ出来たのが本作であり、だからこそ、原監督ははっきり一流のアニメ監督だと言う事が出来る。 |
河童のクゥと夏休み 2007 | |||||||||||||||||||||||||||
2007日本アカデミーアニメーション作品賞 2007キネマ旬報日本映画第5位 2007毎日映画コンクールアニメーション映画賞 2007ヨコハマ映画祭第5位 |
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 2002 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ある夜、しんのすけはきれいなお姉さんの夢を見た。その翌日、シロが家の裏庭を掘っていて、それを見ていたら、そこから不思議な箱が出てきた。それを開けたところ…突然、天正2年にタイムスリップしてしまった。これを遊びと勘違いしたしんのすけは、丁度そこで狙撃されていた又兵衛という侍の命を救うことに。実はこの又兵衛、青空侍と呼ばれており、春日康綱に仕える有能な家臣だった。又兵衛は春日の姫廉姫にあこがれを抱いていたが、当の廉姫は大蔵井高虎という大名と政略結婚させられることになっており、又兵衛は、自分の心を隠しつつも、輿入れの用意をしていた。実は先の刺客も春日の力を弱めようとする大蔵井の差し金だった…いつ殺されるか分からない戦国の時代に咲いた二人の恋心を結びつかせようとしんのすけ、そしてしんのすけを追いかけやはりタイムスリップしてきた野原家の面々だったが… アニメにもピンからキリまである。私自身が本当に映画の楽しみというのを教えてくれたの自体がアニメ映画だったため、結構思い入れはある方だが、そのほとんどは碌でもないものばかり。実写と較べて遙かに制約が多いのと、アニメは子供のものとしていた偏見が手伝って、良い作品が出来にくかった訳だが、それでも捨てることが出来ずに、長いことアニメ作品を養護し、その中で良いものを探そうとしていたものだ。しかし、ある時期、を境に疲れを感じ、アニメを捨ててむしろもっと興味の持てる普通の映画の方に移っていったわけだが、そんな時期に風の噂で「映画の『クレヨンしんちゃん』は面白い」と言っているのを聞いた。 別段興味なかったし、親から「見せたくないアニメ」の筆頭と言うくらいだから、どうしようもないんだろう。とかその時は笑い飛ばしていたのだが、それがちょっと心に引っかかっていたのだろう。テレビで『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』をやるというので、録画しておき、大分時間が経過してから拝見。 はっきり言ってあの作品は衝撃だった。アニメ止めたなんて馬鹿なこと自慢して言ってた自分が痛切に恥ずかしくなってしまったほど。今の日本にここまでの作品を作る事が出来たのか?何でもっと早くこれに気づかなかったんだ? そして更に大きな問題は、監督原恵一の次回作、つまり本作は、私が『オトナ帝国』観た時には既に公開が終わっていたという大きな事実。これほど痛切に「失敗した!」と思ったのは久方ぶりのことだ。 結局一年ほど経過してからレンタルで拝見することになったのだが… 『オトナ帝国』の時も驚かされたのだが、本作の驚きはそれを凌駕していた。 確かに設定的に言うなら『オトナ帝国』の方が遙かに面白いし、家族の絆を描くのも、こちらの方が上だったと思う。そう言う意味で言うなら本作の視点はありきたりだし、設定もアラが多い(土台なぜ野原家が戦国時代に行ってしまうのか、説明がまるでないわけだし)。 しかしである。完成度の点で言うのなら、本作の出来は遙かに上行ってる。いや、日本アニメにおいても、これほどの完成度を見せた作品はほとんどないと断言できる。 物語そのものの素晴らしさというよりはそれは演出の素晴らしさであり、どういう風に作れば面白くなり、どの程度まで脱線させられるか。と言う確信犯的な手法が用いられた結果だ。 これまでも原恵一が演出した作品は物語の本筋を無視して脱線しまくり、しかもその脱線があるべき所に収まっていくという、一種職人芸的なコントロール技術を誇っていたが、本作のそれはこれまで較べても遙かに洗練されており、全くそう思わせないまま、あるべき所に落ち着くように出来ている。 そして最後のあっと驚く終わり方。子供用のギャグ作品でこれやっちゃうのか?これは本当に悲しい物語だった。実はそこに至る伏線までもしっかりしていたのだが、そこには全く気づかせない作りに仕上げられていて、私はむしろ悲しみを覚えるよりも唖然とさせられた。ここにこれを持ってくるか普通?…実は号泣してたけど(笑) このオチで完全に参ってしまった。しかもなんとも巧みな伏線の張り方。あれだけしんのすけが無茶苦茶かき回しているというのに、きちんとそれが伏線として機能していたのには脱帽ものである。 それに、本作は敢えて年代を特定したのが面白い。ギャグ作品、殊にアニメ作品だったらとりあえず「戦国時代は戦国時代でそれっぽく作れば良いじゃないか」となるのが普通だが、本作は敢えて天正二年(1574年)という年号をしっかりと打ち出してる。この制約を与えることによって、劇中に登場する調度品から風習まで、そのぴったり同じ時代で作らなければならなくなった。しかもそれ、手を全く抜いてない。人物の造形を省略できるだけ省略していながら、時代考証は驚くほど精緻に、しかもその使い方までしっかりと考え抜かれて使われてる。それをギャップと感じさせない演出。本当にこれには唖然とさせられる。 確かに穴は多い作品だろう。しかし、その穴を逆手にとって演出上のスパイスにしてしまう技術がここにはある。驚くべき作品である。 オールタイムでアニメのマイベスト5に確実に入る作品。 |
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 2001 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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春我部市郊外の田園地帯に、突如巨大テーマパーク「20世紀博」が出現した!1970年の万国博覧会を模したテーマパーク、アトラクションに夢中になっているのは何故か大人ばかり。しんちゃんの父ちゃんヒロシと母ちゃんミサエも週末毎にここにやってくるようになった。春日部中の大人達が20世紀博に集い、町中には古い車が走り出すようになる。さらにはお茶の間を流れるテレビ番組も昔の番組を流すように…そしてついにテレビからの怪電波を受けた大人達はこども達を放り出し、こぞって20世紀博へと向かっていった。翌日町に残るこども達に「子供狩り」の手が伸びる。その中には何とヒロシとミサエの姿も… この作品は傑作だ!と言う意見が多く聞かれ、先日放映したTVでも録り忘れてしまった。そう言うことで半ば意地になってレンタルしてきて鑑賞。実は私にとってはシリーズ初めての鑑賞作。 いやはや素晴らしい出来だった。この年宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(2001)があって目立ちはしなかったけど、別な意味でこれはアニメと言う素材のおもしろさを最大限引き出すことが出来た作品。21世紀最初の傑作アニメだろう。 冒頭からいきなり万博のシーンで、そこで展開されるヒロシサンの活躍は「よく分かってらっしゃる」と言う出来で、あのアングル、股間のモッコリまで再現したあの雄志!それにトヨタ2000GTやレトロカー(冷房効かせると酔いそうな異臭を発するんだよな)、あの夕焼けの街角。あの敵役の名前。全て本当に良く練り込まれた描写だった。 ストーリーも良く(どことなく『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)に似て無くもないが、それは良いとして)、実に楽しく仕上がっていた。子供だけでなく、大人にこそ楽しめる内容で、「クレヨンしんちゃん」の質の高さを感じさせてくれる。劇中でも語られていたが、まさしく「匂い」を感じられる作りだった。 ただ、この作品を観進めていく内に、違和感を感じるようになった。前半のノスタルジックな雰囲気に浸り、中盤にさしかかった辺りでどことなく何か釈然としないもの、もやもやしたものが心にわだかまり、終盤の家族活劇になってはっきりとその違和感を理解できた。 元々「クレヨンしんちゃん」は小生意気な園児シンノスケの醒めた言動が受けた理由ではなかったか?私は逆にシンノスケの「すれば〜」と言う言葉が、何か未来の暗さを暗示しているようで、それがたまらなく嫌いだった。 そして放映開始から10年以上が過ぎ、本当にそう言う世の中になってしまった。社会には様々な規制が入り、未来のヴィジョンが見えにくい社会。その中で生きるための術は醒めきった目で世の中を見つめること。もし今「未来は?」と問えば、「停滞」と答えてしえる世の中になってしまった。だからこそ、このノスタルジックな70年代を思わせる街角の描写に惹かれるのかもしれない。 未来に希望を無くし、停滞した過去の町並みに真実を見出そうとするケンとチャコ。それに対し、未来を信じ、文字通り血を流しながら駆け抜けるシンノスケ。それがここでは描かれる。だが、これはしかし本来全くの逆の立場ではないのか? あの夕焼けの街角。一見停滞しているかのような人々の生活の裏には間違いなく高度成長時代でがむしゃらに働いている人がいたのであり、それが明るい未来を夢見せていた。それを代表するはずのケンとチャコは内面に閉じこもっており、一方、彼の存在そのものが表していたはずの、醒めきった未来を代表するシンノスケが熱血状態。この作品で現代から見た21世紀の未来を暗示していたのは、実はケンとチャコの方であり、むしろ過去の20世紀的価値観によって動いていたのがシンノスケだった。 そう考えると、この作品はとても皮肉に思えてくる。制作者の意図するところは全く違っていたのかも知れないが、まさに展望のない未来を見るより、熱気溢れる過去をこそ見ようとしたのがこの作品の意図のように思えてしまう。 大人が子供化して、それを容認する社会。そう、オトナ帝国とはまさにこの21世紀の日本そのものなのかもしれないのだから。(そして私も又、オトナ帝国の一員なのかも知れない) だから、一応おきまりの家族愛でこの物語を締めてはいるが、この作品は実は結論が出ていない。一体私たちはこの社会の中で子供たちにどのような未来のヴィジョンを見せることが出来るのか。結局その答えを出すのは、これを観ているオトナの私たちなのだ。 …と、まあ、柄にもなく(?)そんなことを思ってしまったのだが、実際このアニメは質が高い。食わず嫌いだったが、過去の作品も観てみたいね。それにしても股間(又はお尻)に執着するはこの作品の持つ特性かね? |
クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル 2000 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アクション仮面最新作の試写会ツアー、「南海ミレニアムツアーズ」という豪華客船ツアーに参加した野原一家。しかし、試写会が始まるや謎の猿軍団が出現し、ひろし、みさえ、アクション仮面の役者さん達大人全員がさらわれてしまい、船にはこども達だけが残されてしまった。しんのすけたちは何があったのかを探るべく、大人達がさらわれた島へと上陸するのだが… 先日『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観たお陰で偏見無しに観る事が出来た。これはその前作に当たるのだが、質はやっぱり高い。冒険活劇としての質が意外に(失礼)高い上に、ちゃんと笑いを取るのも忘れておらず、正直圧倒されてしまった。 アニメというのは現実離れしたストーリーにどう説得力を持たせるかにかかるが、それを放棄しているようで、しっかり現実を踏まえている部分があるのがこのシリーズのバランスの良さだと思っている。いきなり何の前触れも無しにやってくる猿の群、猿を従えるジャングルキングの存在と、それに従って人間っぽい行動を取る猿たち。それに使役される大人達。空中での戦いなど。どう考えても変なのだが、その非常識を「非常識」として捉えている無力な大人がいる。そして彼らの目の前でそれをあっさり受けいれてしまって、その辺を全て超えて行動する適応力の高いこども達。常識と非常識のバランスが本当にしっかりしている。 常識が厳然として存在するが故に、その常識から逸脱したしんのすけの行動がより馬鹿っぽく楽しめる事になり、その子供っぽい行動に、むしろその馬鹿さ加減の故に喝采を叫べるようになる。『ドラえもん』を初めとする子供向きの映画と、完全に大人向きになってしまった他の多くのアニメと異なり、子供と大人の双方を楽しませる作品として存在できるのはこのバランスによるのだろう。この映画は確かに「野原一家」全体を見ておく必要がある。 そう言う意味で、本作品の劇場版は、決してしんのすけや、その仲間だけで語る事は出来ない。たとえ何も出来ず、捕らわれるばかりであったとしても、やはりひろしやみさえあってこそ、真の意味で映える作品なのだ。むしろ“常識”を持っている大人が観て、そのバランスの良さが分かるのかも知れない。 考えてみると、次作である『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』はそのベクトルが全く逆転していたけど(本来常識を持つはずのオトナの方が無茶苦茶やってる)、ちゃんと常識が踏まえられていた事にも気付かされる。 …あれ?ストーリーについて語れなくなってしまったな(笑) 今回はアクション仮面が大活躍で、本編が楽しいだけでなく、劇中劇である『アクション仮面』も楽しかった。某歌手の登場も良し(それだけかい!)。 |
クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦 1999 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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奥秩父に職員旅行に出かけたふたば幼稚園の先生達が巨大な怪獣を目撃したことによる取り調べを受け、翌日の幼稚園は休みになった。この知らせに喜んだしんのすけは、留守番をサボって散歩に出かけるが、途中、地面に倒れている丹波と名乗るおじさんを発見する。風呂に入りたいと言う彼を家に連れてきて、一緒に楽しい一時を過ごした。その翌日、野原一家は突然“全国の温泉を維持管理”しているという政府機関「温泉Gメン」の基地に連れさらわれてしまう。実は、地球全体を温泉にしてしまおうという地球温泉化計画を遂行しようとしているテロ組織「YUZAME」の手が日本に迫ってきており、その陰謀を阻止する為に必要な伝説の温泉“金の魂の湯”が野原家の地下に存在する事が分かったため、その掘削作業を行うために野原一家を連れ去ったというのだ。しかし、そのことはYUZAMEも知ることになり、温泉Gメンの基地は襲撃を受けてしまう… 本作は原恵一監督による三作目の作品で、不条理さはますます増しており、その代わり話は他のシリーズと較べても遙かにしっかりしている(逆にしっかりしすぎてちょっと物足りない気もするが)。不条理と言えば、自分が風呂嫌いだからと言うだけの、あまりにも馬鹿馬鹿しい理由で温泉好きの人間を溺死させるためだけに地球を温泉に沈めてしまおうとする敵とか、政府の諜報組織のはずなのに、やってることは温泉の管理だけという“温泉Gメン”なる組織とか(そういや、先日問題を起こした白骨温泉には温泉Gメンは入らなかったのか?)、もちろん“金の魂の湯”というネーミングとか、後半は超人家族対巨大ロボとの戦いに持って行くとか、不条理さは輪をかけてすさまじい。 設定が無茶苦茶な代わりか、この話では終始一貫して誰も突出することなく、野原一家の物語になってる。家族を単位とするのは原監督の特徴なんだが、今回は暴れるべきのしんのすけがすっかりおとなしくなってしまった分、展開が単調になってしまったのは残念なところ。最後の温泉パワーでの野原一家集結も、ちょっとありきたりかな? それでもYUZAMEの巨大ロボット登場シーンなんかは伊福部マーチが鳴り響き、戦車との対決シーンはそのまんま後期の昭和ゴジラ的演出がなされているのが嬉しいところ(いや構図は本当にそのまんまだから、よく勉強されてらっしゃる)。それで隊長の一言「自衛隊に入って良かっただろ?」の一言は、ゴジラ好きとしては、あれだけでも充分燃えるよ。 それはそうと一言言わせてもらうと、途中のアスレチックは完全に「幼児虐待」だよ。よく映倫OKしたな。 |
クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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幼稚園の遠足で屋形船で宴会中のしんのすけたちに突如闖入してきた特殊スーツの女性。秘密機関「SML」のエージェント「お色気」と名乗った彼女はそこら中の食べ物を食べまくるが、彼女が逃げ出してきた悪の結社「ブタのヒヅメ」の飛行船が屋形船を釣り上げてしまう。一方、同じSMLのエージェント「筋肉」は野原家を訪れ、ひろしとみさえにしんのすけがさらわれたことを告げる。そのニュースにショックを受けたひろしとみさえは「筋肉」を半ば強迫してブタのヒヅメのいると思われる香港へと向かう… 原恵一監督の二作目の監督作品。前作『暗黒タマタマ大追跡』で確立された演出は今回も全開。日本を飛び出し、ワールドワイドに話は展開する。本作では監督のテーマとも言える“家族の絆”がより強調されて演出されているのが特徴で、野原一家だけでなく、ここでは「筋肉」と「お色気」(とその子供)という離婚した家族も又、絆をしっかり持っている点が強調されていたようだ。「世界を守る」という大義名分はあるものの、結局最後は「家族の絆とは大切なものだ」という所に着地するし、それが何よりの強さを表してる。 又、本作の隠れた主役とも言えるブリブリザエモンも後半でしっかり個性出してた。『ヘンダーランドの大冒険』であれだけぶっ飛んだ性格してたのが、ここでは更に拡大して変な性格になってた。それにしても塩沢兼人の渋い声であれをやられるんだから、苦笑もの…で、最後はちゃんと感動させるあたり、塩沢氏の最後のはまり役だったか。 一方、話が拡大しすぎって感じを受けたし、その分、しんのすけの暴走ぶりも多少は抑えられてしまったかな?次の展開が分かりやすいからね。 |
クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡 1997 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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散歩中に挙動不審な男(?)が落とした光るタマをこっそりと持ち帰ったしんのすけ。実はそれは伝説の魔人ジャークを封じ込めた埴輪の鍵の一つであり、これを巡って新宿と銀座のバーの間で激しい攻防戦が繰り広げられていたのだ。その肝心のタマをひまわりが飲み込んでしまい、野原一家は暗黒魔人をめぐる争いに巻き込まれていく…。 これまでのシリーズで演出を務めていた原恵一がメガフォンを取った最初の作品。 長編アニメ作品だと本シリーズしか監督していない原恵一であるが、これほど際だった個性を見せる監督も珍しい。敢えて言わせてもらうと、日本アニメ界においては、最高の個性的な監督の一人と言ってしまって良い。 事実本シリーズも原監督に代わってから、明らかな路線変更がなされている。これまではあくまで主人公はしんのすけであり、それを取り巻くように他のキャラクタが登場していたのだが、この作品からしばらくの間、主人公はしんのすけではなく、野原一家へと移る。みさえやひろし、ひまわり(およびシロ)もきっちり主人公の一人として個性をしっかり出すようになっていった。 この路線変更は見事な視点の変更を及ぼしてくれた。 テレビシリーズでは小生意気なガキでしかないしんのすけも、劇場用長編作品となると、ヒーローとして活躍しなければならない宿命を持ってしまうため、その個性は抑え気味に演出されざるをえない。具体的に言えば、物語の核である以上、暴走をしてはいけないキャラになってしまうのだ。その結果、しんのすけは専ら受け身にならざるを得なくなり、目の前にある事象を一つ一つ乗り越えていくと言う課程が描かれることになる。それに対し、主人公が野原一家になると、理性部分はみさえとひろしの方に委ねることが出来る。その結果、しんのすけは極端な暴走が可能となった。本作が明確に打ち出していたのはその点であり、それが本シリーズを他のアニメシリーズと較べて特異なものにしていく事になる。端的にそれを表しているのがラストで、魔人が復活しなくて良かった。と喜び合う大人達を尻目に、たまたま手にタマを持っていた。と言うだけの理由で当のしんのすけがそれを復活させてしまうと言う、かなり無茶苦茶な事をやってのけている。幼稚園児としての無軌道ぶりを遺憾なく発揮してくれた。 そしてそれに合わせるかのように、場面場面が目まぐるしく変化していくのも原監督の特徴。一つの場面が終わってから、次にどこに行くのか、全く予測がつかない。地球の危機を目の前にして、突然健康センターで宴会して見せたり、東北に行ってからくり屋敷と忍者は出てきたと思ったら、クライマックスはぐるっと遠回りして、結局都内に逆戻りしてる。奇矯な行動を取る敵か味方か分からないキャラクタがわんさか出てきたと思ったら、それを上回る無軌道な行動をしんのすけが取る。危機を前に文学的且つノスタルジックな言葉が出てきたと思ったら(これは後の『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)で結実するが)、次の瞬間にメタギャグをかます…前の場面と次の場面の関連性が無いため、はっきり言って、全く次に起こることが分からない。 それなのに、ちゃんと後半になっていくと盛り上がっていくし、“家族”という着地点もはっきりしてる。よくもこんな混乱しきった物語をここまでまとめたものだと思える。 それでもう一つ重要なのは、本作では設定に全く手を抜いてないと言う点。東北にいる時の、そこでの方言はイントネーションまでちゃんと東北弁してるし、銀座と新宿のバーの違いまで解説するし(本当に子供用か?)ひろしの何気ない一言に谷川俊太郎のフレーズが入る。決して勢いだけではない。その勢いを持続させるためには綿密かつ正確な設定が重要だと言うことをこれほどよく著したアニメ作品も希有だろう。アニメはいくらでも嘘をつける。事実、しんのすけの行動なんて、どう考えてもおかしな事だらけ。しかしそれを成立させるために必要なものをはっきり監督が知っていたからに他ならない。 本作は原恵一監督の初長編監督作品にして、最もその個性を発揮した一作といえよう。 |
ドラミちゃん ハロー恐竜キッズ!! 1993 | |||||||||||||||||||||||||||
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ドラミちゃん アララ・少年山賊団 1991 | |||||||||||||||||||||||||||
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エスパー魔美 星空のダンシングドール 1988 | |||||||||||||||||||||||||||
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