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1975 | 9'24 死去 | |||||||||
1974 | 狼よ落日を斬れ 風雲篇・激情篇・怒濤篇 監督 | |||||||||
座頭市物語<TV> 監督 | ||||||||||
おしどり右京捕物車<TV> 監督 | ||||||||||
1973 | 子連れ狼 冥府魔道 監督 | |||||||||
桜の代紋 監督 | ||||||||||
必殺仕置人<TV> 監督 | ||||||||||
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1972 | 御用牙 監督 | |||||||||
子連れ狼 死に風に向う乳母車 監督 | ||||||||||
子連れ狼 三途の川の乳母車 監督 | ||||||||||
子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる 監督 | ||||||||||
必殺仕掛人<TV> 監督 | ||||||||||
木枯し紋次郎(1st、2nd)<TV> 監督 | ||||||||||
1971 | 新女賭博師 壺ぐれ肌 監督 | |||||||||
狐のくれた赤ん坊 監督 | ||||||||||
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一心太助<TV> 演出 | ||||||||||
1970 | 兇状流れドス 監督 | |||||||||
座頭市あばれ火祭り 監督 | ||||||||||
1969 | 鬼の棲む館 監督 | |||||||||
尻啖え孫市 監督 | ||||||||||
1968 | 座頭市喧嘩太鼓 監督 | |||||||||
とむらい師たち 監督 | ||||||||||
二匹の用心棒 監督 | ||||||||||
1967 | 古都憂愁 姉いもうと 監督 | |||||||||
座頭市血煙り街道 監督 | ||||||||||
なみだ川 監督 | ||||||||||
雪の喪章 監督 | ||||||||||
1966 | 酔いどれ博士 監督 | |||||||||
眠狂四郎 無頼剣 監督 | ||||||||||
処女が見た 監督 | ||||||||||
大魔神怒る 監督 | ||||||||||
1965 | 座頭市地獄旅 監督 | |||||||||
剣鬼 監督 | ||||||||||
無法松の一生 監督 | ||||||||||
鼠小僧次郎吉 監督 | ||||||||||
眠狂四郎 炎情剣 監督 | ||||||||||
1964 | 座頭市血笑旅 監督 | |||||||||
無宿者 監督 | ||||||||||
剣 監督 | ||||||||||
眠狂四郎 勝負 監督 | ||||||||||
1963 | 舞妓と暗殺者 監督 | |||||||||
女系家族 監督 | ||||||||||
新選組始末記 監督 | ||||||||||
1962 | 青葉城の鬼 監督 | |||||||||
斬る 監督 | ||||||||||
座頭市物語 監督 | ||||||||||
婦系図 監督 | ||||||||||
1961 | 銭形平次捕物控 美人鮫 監督 | |||||||||
釈迦 監督 | ||||||||||
1960 | 白子屋駒子 監督 | |||||||||
銭形平次捕物控 美人蜘蛛 監督 | ||||||||||
千姫御殿 監督 | ||||||||||
女妖 監督 | ||||||||||
大菩薩峠 竜神の巻 監督 | ||||||||||
大菩薩峠 監督 | ||||||||||
1959 | 町奉行日記 鉄火牡丹 監督 | |||||||||
千羽鶴秘帖 監督 | ||||||||||
四谷怪談 監督 | ||||||||||
1958 | ふり袖纏 監督 | |||||||||
水戸黄門漫遊記 監督 | ||||||||||
執念の蛇 監督 | ||||||||||
怪猫呪いの壁 監督 | ||||||||||
1957 | 三日月秘文 監督 | |||||||||
桃太郎侍 監督 | ||||||||||
1956 | 編笠権八 監督 | |||||||||
花の兄弟 監督 | ||||||||||
浅太郎鴉 監督 | ||||||||||
不知火奉行 監督 | ||||||||||
新・平家物語 義仲をめぐる三人の女 助監督 | ||||||||||
1955 | かんかん虫は唄う 監督 | |||||||||
七つの顔の銀次 監督 | ||||||||||
月を斬る影法師 監督 | ||||||||||
1954 | 丹下左膳 こけ猿の壺 監督 | |||||||||
1953 | 地獄門 助監督 | |||||||||
1952 | 大佛開眼 助監督 | |||||||||
1951 | 源氏物語 助監督 | |||||||||
1921 | 3'2 京都市で誕生 |
狼よ落日を斬れ 風雲篇・激情篇・怒濤篇 1974 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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子連れ狼 冥府魔道 1973 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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手合わせた刺客から出された条件を受け取るようにと言う奇妙な刺客依頼を受けた拝一刀(若山富三郎)は、次々と刺客を打ち破っていく。そして明らかになったのは、黒田藩の跡継ぎを巡る藩をあげての抗争だった。否応なく巻き込まれてしまう一刀と一子大五郎だが… 大好評のシリーズも既に5作。再び三隅研次がメガフォンを取ることになった。 三隅研次という監督は、当時の職業監督の中にあってかなり異彩を放つ監督だと思っている。 本来職業監督というのは、淡々と脚本に従った物語を作りつつ、いかにその中でメリハリを付けるかというのを考える。だからシリーズが進むに従って演出が練れてくるのが普通。具体的にはシリーズの演出の方向性が定まると、その演出を中心に持って行くように他のパートがあるようになっていく訳だ。しかし三隅監督はそれだけでは気が済まないらしく、シリーズが進んでも何かしら新しい要素を付け加えようとする傾向がある。 それが上手くいくと、新しい方向性を作り上げることが出来るが、それが上手くいかないと、本当の駄作になってしまう。特にこのシリーズにおいて、1~3作の次々に出てくる新機軸は呆れるほど面白く、このシリーズが邦画でもかなり特異な位置を保つようになった理由。少なくともこの三作に関しては三隅監督に全部任せたのは大正解だった。 ただ、それが上手くいかなかったら…というのが本作となってしまうのだろう。ちょっと演出的に外れのような感じである。 本作で導入した新機軸は、これまで保護の対象でしか無かった大五郎を一人の男として描こうとしたことになるのだろう。しかし幼児にドラマを強いるのは無茶で、結果としてやってることは幼児虐待以外の何物でも無くなってしまった。特にポリティカル・コレクトネスが進んだ現代ではこれは抹殺対象になりかねない描写で、ヤバイ一歩に踏み込んでしまったのでは?と思わせてしまう。 更に物語がちょっと無理ある。元々が荒唐無稽と言われればそれまでだが、刺客一人一人がメッセージ抱えて自爆してくるって、一体命をどう考えてるんだ?他に命の捨てようもあるだろうに、なんでむざむざ返り討ちに遭うこと前提で特攻する必要はまったくない…多分これ原作が漫画だからというのが理由だろう。刺客一人分で一話使えるから、話を延ばすには丁度良いからという単純な理由だと見える。 演出は相変わらずキレが良い為にそれなりに観る事が出来るのだが、いろんなところで問題がある作品だから、差し引き0と言ったところだろうか? |
御用牙 1972 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1972年邦画興行成績7位 |
子連れ狼 死に風に向う乳母車 1972 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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一子大五郎を連れ、金500両で刺客請負をしている拝一刀(若山富三郎)が、ある宿場に宿泊している時、一人の女性が一刀の部屋に転がり込んできた。お松と名乗るその女は、騙されて女郎屋に売られそうになり、勢いで女衒を殺してしまったという。おかしなことに巻き込まれてしまった一刀だったが、お松を救ってやろうと忘八の元締め酉蔵に直談判に向かう… これまで矢継ぎ早に2作作られてきた人気シリーズの第3作目。本作は合計6作作られているが、本作こそがその頂点。邦画に新しい価値観を加えた伝説の作品でもある。 これまでもこのシリーズの演出は群を抜いた面白さを誇っていた。たとえば一作目では両足が立ったまま体だけが斬られて落ちてみたり、二作目のジェットストリームアタックとか。チャンバラより特撮に近い描写を次々と投入して楽しませてくれていたものだ(この二作はかのロジャー・コーマンに買われてアメリカでもかなりヒットを記録。元祖スプラッター・ムービーなる海外評もあるほど)。 しかし、それらも本作の圧倒的なラストシーンの演出の前には霞む。それだけ馬鹿馬鹿しいほど派手で、そして圧倒的な格好良さを見せつけてくれた作品と言うことだ。三隅研次という監督の本当の力量を示した作品が本作と言うことになるのかもしれない。 大映の監督を長く務めた三隅は、職業監督の中では抜群の演出力を持った監督と言われていた。『眠り狂四郎』と言い『座頭市』と言い、この人の抜群の演出力によって見栄えのする画面づくりがなされていたものだ。 三隅演出の大きな特徴は、これが大映作品の特徴でもあるのだが、一枚の画面の中にぴたっとアングルを決めた画面づくりができることだった。まるで一枚のスチール写真のように溜めの画面を作った上で、動き出したら激しいアクションに転換する。この切り替えが抜群に上手い監督なのだ。静から動の画面転換で、そのどちらにも特徴を作ることができるのは三隅監督の最大の特徴とも言えるだろう。 そんな監督だから、動的な画面づくりは派手になればなるほど映えていくことになる。だが、大映にいた当時はそこまで極端な画面づくりができなかった。大映は基本すべてがセット撮影だったために爆発は演出しにくく、横に広がった撮影もできない。なにより予算的に厳しい。 もし三隅演出を最大限活かす機会があるとしたら、大映ではなく東宝で、しかも慣れ親しんだ大映スタッフがいてくれて…ということを考えたら出来すぎなのだが、そんな奇跡的なコラボレーションが実現してくれたのがあった。それが本シリーズ、『子連れ狼』だった訳だ(ついでに言うなら主演が東映スターの若山富三郎ということで、三社の奇跡的コラボとなった)。 三隅監督にとっては、これまで同様慣れ親しんだスタッフに囲まれ、潤沢な資金とロケまで許され、少々無理が利くアクション俳優を主演に据え、多量火薬使用可能とあっては、もうやりたい放題できる環境が揃ってるということ。 それでも一作目、二作目に関してはまだ多少堅さが残るというか、資金の使い方がこなれていなかったが、かなりのヒットを記録した三作目。これ以上無い理想的なシチュエーションが揃ったことになる。 そこで作られた本作は、もはや較べられるものがない。リアルタイムでこれを劇場で観られた人がいたら、心底それを羨ましく思えるほどの素晴らしい出来だった。 これはもう一種邦画アクションの頂点と言って良いほどであり、以降、たとえばこれ以上に派手なものが作られたとしても、それは本作の模倣に過ぎないと思える(事実4作目以降の本シリーズは同じことをやってるだけになってしまった)。 それだけラストシーンの演出は際立ってる。一刀対有象無象の戦いは、もはや殺陣のレベルでなく、殺し合いというか、一方的な虐殺というか…ある意味このまんまの演出で『ターミネーター』新作作っても良いくらい。若山富三郎が跳び、刀や槍を振り回し、そのたびにばったばったと人間が倒れていく。なんというか、このシーンは多幸感すら感じてしまう。それでも徐々に傷つき、ぼろぼろになって、これ以上はもう戦えない。後はもう終わりか?そのように思った瞬間にあの乳母車が… ここまでやったら大笑いしてしまうが、それ以上に「なんて格好良いんだ」と思える作りがすごい。 邦画のアクション作品の頂点は『七人の侍』(1954)になるのかもしれないが、全く芸術とはほど遠い場所に立って、もう一つの頂点に到達できた作品として語り継がれていくべき作品だろう。もっと人の目に触れてほしいと思える作品の一つだ。 |
子連れ狼 三途の川の乳母車 1972 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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一子大五郎を連れ、金500両で殺し屋の請負を続ける拝一刀(若山富三郎)は阿波の国にいた。そんな一刀を亡きものにしようとする裏柳生の柳生烈堂の命を受けた黒鍬小角は、明石柳生の女指南役柳生鞘香に一刀暗殺を依頼する。一方一刀は阿波藩の内紛に巻き込まれていく… 大好評の子連れ狼の第2作で1972年邦画興行成績9位と好成績を残した。 ただ、出来としては一作目がかなり受け良かったため、そのまま続編作ってみましたといった感じ(実際一作目と本作をまとめたものが「Shogun Assassin」の名でコーマンによってアメリカ上映されている)。 一作目との大きな違いといえば、一気に殺陣が派手になったことだろう。この時代邦画にはワイヤーアクションは導入されていないが、それに近いアクションがあり、ほとんど曲芸のように敵がポンポンジャンプしながら戦うというアクロバティックな動きが特徴で、普通の殺陣という点から観るなら、もっとも斬新な作品だろう。動きもそうだが、一々その対決に笑える要素もふんだんに取り入れていた。元々『座頭市』作ってたスタッフが多数この中に入っていたし、その『座頭市』も回を追って派手になっていったもので、その延長線上で作られたと考えるなら納得いく。 一作目同様ジェットコースタームービー的に戦いの連続だが、慣れが出たか、更にアクロバティックに、更に面白おかしく作られている。最後の一対三の戦いは映画史上屈指の殺陣だろう。まさしくこれ「機動戦士ガンダム」のジェットストリームアタックで、あれここから取ったんだろ?というツッコミ入るくらいに素晴らしい出来になってる。 スタッフも慣れてきたようで、アクションに入るタメの構図が一々ちゃんと決まってるので、その意味でも見所たっぷりほとんど全編アクションだらけなので、なにも言わずすっきりしたいという人にはとにかくおすすめできる作品だ。 また本作ではくノ一の存在がクローズアップされていて、その意味でも見所が多い。特に本作は雰囲気が殺伐としているので、そんな見所があるだけで随分華があるように思えるところが良い。 …しかし、本作の真骨頂はこれでは終わらない。次作こそが真の『子連れ狼』の名を冠するにふさわしい作品となる。 |
子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる 1972 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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幕府お抱えの公儀介錯人拝一刀(若山富三郎)は、かつてこの職を巡って争い敗北した柳生新陰流の頭領柳生烈堂の恨みを買ってしまう。そして烈堂の幕府への働きかけによって、謀反人とされてしまった。追われる身となった一刀は、一子大五郎を連れ、放浪の旅に出る。金500両で刺客請負をするのだが、それはすべて柳生の刺客をおびき寄せるため。「冥府魔道」の道を行く親子の旅が始まった。 小池一夫原作による人気マンガ「子連れ狼」の映画化作(他にテレビ版もあり、こちらも「しとしとぴっちゃん」の歌で大人気を取った)。 このマンガが書かれたのは70年代で、同じく時代劇漫画である白土三平の「カムイ伝」もあった。この二作は実際まさしく時代を反映した内容になっている。 その二作に通じるのは、徹底した権威に対する反抗である。 「忠臣蔵」に観られるように、武士道は忠義の道であり、上からの命令は「耐え難きを耐え。忍び難きを忍び」従うのが忠義の道とされていた。 一方70年代はパラダイム・シフトの時代であり、既存の権威を否定することから始まった。その風潮を受け、元幕府の忠臣が幕府に裏切られ、復讐鬼と化して修羅道を進んでいくというもの。武士にとって最上位にあたる幕府への反抗という内容を含むものであり、完全にそれまでの「武士道」を破壊する内容を含んだものだった。 つまり、「子連れ狼」という漫画を映像化する際、この部分をどうするか?というのが大きな問題になる。 ここで社会派の監督だったら、権力闘争を主題にしていっただろうし、そうでなくてもいかにしてこの部分を映像化すべきか考えるだろう(近年ようやく映画化された『カムイ外伝』(2009)はその考えの上で作られた作品でもある)。 しかし三隅研次という監督は、その問題を見事にぶった斬った。たぶん設定の持つ重さは受け取り側が感じればいいことであり、作り手は作品を面白くすることに全力投球すればいい。そのように考えたのでは無かろうかと思う。なんせ三隅は芸術や社会派とは一線を画す職業監督であり、自分自身の出来る技術を全開で作ってやろうと考えたに違いない。 折から70年代は東映活劇が「より派手に、より過激に」映画を盛り上げていた時代でもあり、大映もその煽りを食って、激しいアクションを中心に作るようになっていった(『座頭市』であれ『眠狂四郎』であれ、年代が進むとどんどん過激な描写が増えていく)。そうなると東宝としても上品なものばかり作ってられないので、その方向性は大歓迎。他の会社では出せない巨額な予算を組んで、好き放題やらせてみたのだ(実は本作のスタッフの大部分は三隅監督と長年組んでやってきた大映からの出向)。 三隅研次が見事にその期待を受けて作った結果、本作は大成功。派手さ過激さは他の時代劇の追従を許さず、日本国内はおろか世界中で(主に好事家によって)受け入れられた作品ができあがった。 一応基調には差別や階級制度破壊の雰囲気を持ちはしても、それについて語る人はほとんど誰もいない。リアリズムを排除し、より派手により残酷に、その部分だけで語られるような作品になった訳である。大映にあった固定カメラやショットの映えさえもすっとばしたため、水を得た魚のようだ。まさしく三隅監督が国際的な監督になったのは、本作によってである。 その第一本目となった本作だが、一言でいえば「大五郎がこども」というのに尽きるのではないか? 物語の過激な部分は父の拝一刀が全て引き受け、叙情的な部分は大五郎が一手に引き受けた。 大五郎はなにも知らない幼児であり、ただ父の意地に巻き込まれた可哀想な存在であることを強調するため、最初に母の乳房を求めるように、父の試しで命を長らえたように、不憫な存在として描かれていた。 この対比のおもしろさこそがこの第一作の最大の魅力であり、過激な戦いの生活の中にある幼い大五郎の受難の日々を思い、過激な世界の中で生きざるを得ない大五郎と、一刀の対比を観るのが本作の最大の見所と言えるだろう。実に興味深い。 |
狐のくれた赤ん坊 1972 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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兇状流れドス 1970 | |||||||||||||||||||||||||||
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座頭市 あばれ火祭り 1970 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鬼の棲む館 1969 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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尻啖え孫市 1969 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
1969毎日映画コンクール助演男優賞(中村賀津雄) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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座頭市喧嘩太鼓 1968 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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とむらい師たち 1968 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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座頭市 血煙り街道 1967 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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街道を進む座頭市(勝新太郎)はひょんなことから良太という子どもを預かり、それを父親の庄吉に連れて行くこととなった。旅の途中、幾多の幾たびかの小競り合いに遭遇するのだが、何故かその度に赤塚多十郎(近衛十四郎)という武家の男と遭遇していく。 前作山本薩夫監督による『座頭市牢破り』(1967)がかなりの異色作として作られたが、本作は脚本笠原良三監督三隅研次という安定したスタッフの下支えによって、とてもオーソドックスな作りになっていた。 特に三隅監督が作る座頭市は、単純な活劇の中に男同士の友情というか、剣で語り合うようなライバルが登場することが特徴。本作も近衛十四郎演じる赤塚多十郎というライバルキャラを配し、その殺陣をメインに持ってきた。 少なくともそのクライマックスの殺陣に関しては申し分なく、とても緊張感が溢れた作りになっている(ラストの勝新太郎と近衛十四郎の立ち回りは段取り無しで臨んだそうだが、とてもそうは見えない)。 ただ、流石にこのパターンもマンネリ気味だし、メインの物語もこれまで作ってきた中から良いところを抜き出して作ったようなものになってしまったため、とても印象の弱いものになってしまった。折角前作であれだけ冒険したのだから、その路線を進んで欲しかったような気はする。 演出が良い分、プログラムピクチャーとしては十分だが、それ以上を求めてはいけない作品でもある。 |
眠狂四郎 無頼剣 1966 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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武部仙十郎(永田靖)から大塩忠斎の残党の動きが活発化していると聞かされる眠狂四郎(市川雷蔵)。たまたま夜の散歩中、何者かに襲われていた女芸人勝美太夫(藤村志保)を助けたところ、彼女の口から、老中水野忠邦を殺害し、江戸を混乱に陥れようとする陰謀があることを聞かされる… |
大魔神怒る 1966 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千草の治める名越の里に隣国の御小柴が攻め入った。湖の神の島にある武神像は壊され、千草領主の十郎(本郷)は磔にされる。だが、共に磔にされた小百合(藤村)の命を捧げた祈りに、湖に沈んだはずの魔神が怒りの形相も激しく甦る。 1966年になんと3作作られた大魔神の2作目で、1作目の安田公義に続き、これまたアクションには定評のある三隅研次が作り上げた作品。 前作のヒットを受けて急遽作られたためか、フォーマットは全く同じで、殆ど前作と同じストーリーになってしまったのが残念。あまりにワンパターンだが、それはそれ。時代劇の黄金パターンだと思えば良い。 ここでの見せ場は何と言っても海を割って登場する大魔神の姿だろう。まるで『十戒』(1956)を彷彿とさせるように徐々に割れていく湖と、その向こうに現れる大魔神の姿。非常に力のこもった作りで、このシーンを観るためだけにこの作品を観る価値はある。 しかし、湖を割って出てくるのは良いけど、あんな登場の仕方をしたら近隣の村は全部水没してしまうだろうな。 |
座頭市地獄旅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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富士の初日の出を拝みに旅に出た座頭市(勝新太郎)は、度々賞金狙いの襲撃を受けるが、その度に得意の抜き打ちで退ける。だが船中で襲われた際、巡礼中の少女ミキ(藤山直子)に怪我を負わせてしまう。破傷風になってしまったミキのために特効薬を買おうと、やはり船中で知り合いとなった将棋好きの浪人十文字糺(成田三樹夫)と共にちょっとしたイカサマ賭博を繰り返していく。その間に十文字との友情を知る市だが… 長期化した座頭市シリーズは、そろそろマンネリの声が聞こえ始め(事実11作目である『座頭市逆手斬り』(1965)は完全にプログラムピクチャー化してしまった)、それでも尚シリーズとして続けようとする大映は、完全巻き返しで新しい風を入れることとなる。そのため、脚本にこれまでのシリーズを支えた犬塚稔から、様々な脚本家・監督にシリーズを作ってもらうこととなった。 いわばこれが新生座頭市の第一作と言うことになる。その新規巻き返しにあたり、脚本は初の伊藤大輔に、監督にシリーズ第1作の監督である三隅研次を配して作り上げられたのが本作。 それは大成功のようで、中期の座頭市の中では間違いなく良作に仕上がり、以降のシリーズ継続の足がかりとなった。 構造としては第一作の『座頭市物語』に結構似ていて、市の強さを存分に見せつけつつ、登場した浪人と奇妙な友情を育んでいくのだが、最後は互いの真剣勝負で魅せる。そのために特に後半に至っての緊張感は非常に高く、硬派な仕上がりを見せてくれた。正直物語を観始めたときは、「なんだいつも通りか」と思いこんでいたのだが、細かいストーリーがきちんきちんと畳まれ、クライマックスに収斂していく過程はかなり小気味良い。 一作目の天知茂に対応するのが本作の成田三樹夫となるが、天知のような強烈な自意識とは異なり、どこかミステリアスさを醸し出す成田の演技は見事に本作の十文字に映えていて、天知の平手とは異なる魅力を出している。 それに本作では久々に市が身障者であることを幾度も強調させる演出が入り、単に強いだけではなく、それに対しコンプレックスを持ち、それ故哀しさを持つ市という存在を際だたせるのも良い。これまでの化け物じみた市が、ようやく弱さを見せてくれたのも良し。 後、本作では意外なところに意外な人物が登場していたりして、その辺も結構楽しい。少女役で登場した藤山直子は藤山直美のことだし、船中で襲いかかってくるやくざものの中には藤岡弘の姿まで見える。 中期の名作として記憶に留めておくべき作品。一つだけ文句を言わせてもらえるなら、あと10分は長くするべきだった。ミニストーリーの消化がちょっと足りなすぎ。 |
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剣鬼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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眠狂四郎 炎情剣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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武家の妻を名乗る檜垣ぬい(中村玉緒)の頼みで夫の敵討ちに手を貸す眠狂四郎(市川雷蔵)。狂四郎にとっては半分暇つぶしの所行だったのだが、これが元で幕府家老と海賊の財宝を巡る事件に足を踏み入れてしまう。ぬいとは一体何者なのか。そして正義とは… 人気シリーズとなった「眠狂四郎」は、私なりには第4作である「女妖剣」が頂点の作品だと思うのだが、これで針が振り切れてしまったか、続く5作目の本作も、もの凄いものに仕上がってる。 三隅研次監督作品は特にアメリカでは高い評価を受けているそうなのだが、その評価の場というのが、いわゆるグラインドハウス。ここでの評価というのが、飛び散る血しぶき、もげる四肢、そして情け容赦のない主人公の性格。という、元も子もない、要するにB級臭さと残酷性の高さが売りの評価。その意味では三隅監督なんかは、日本が誇る本当のB級監督と言ってしまって良いのだが、三隅監督作品の場合、それだけじゃなくてに義理人情という前提を出しつつ、主人公が薄ら笑いを浮かべながらたたき壊す。という凄い造りなので、それが逆に受けたんだろうと思われる。 そして本作は、その三隅作品のそんな部分を全て詰め込んだかのような出来になっている。ここでの狂四郎はほとんど鬼神。関わる全て、特に自分を利用しようとしたり、手向かう人間は、男だろうが女だろうが関係なく一切の躊躇無く叩き斬り、後には本当に何にも残らない。 しかもこれで凄いのは、人を斬り続ける狂四郎のモチベーションというのが、そもそもが暇つぶしから始まったという事実。こいつにとっては、人の生き死にまでが暇つぶしの延長か?と思うと、怖くなると同時に、その格好良さに痺れてしまう。一方では何の抵抗も出来ぬ弱い人間に対しては優しすぎるくらいに優しいし、何の得にもならないのに金まで使ってる。この辺のギャップも狂四郎の魅力だろう。 今回演技的に光るのはぬいを演じた中村玉緒だろう。最初は確かに利用するだけのつもりで狂四郎に近づいたのに、やがて自分自身も抑えられぬほど狂四郎に惚れ込んでしまう。し一度自分を裏切った人間に対し、一切の妥協無く斬る狂四郎の前に「お慕い申し上げます」とまで言わせた。悪女は悪女なんだが、斬った爽快感が一切無しなので、後味がとにかく悪い。 …後味というか、これは三隅監督作品の特徴として、物語性が極端に低いというのが本作の欠点ではある。話があっち行ったりこっち行ったりで、駆け回って、そこにいる人間を斬りまくってる内に話が終わってしまう。本作に物語性を求めちゃいけないんだけど、ちょっとぶれすぎてるのが難点だ。 自分から何かを行えば、ますます孤独になっていく。まさしくニヒルな剣士というのを確立したのが本作と言えようか。ここでの市川雷蔵の演技は神がかってるよ。 |
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眠狂四郎 勝負 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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人出でにぎわう愛宕神社の境内で眠狂四郎(市川雷蔵)は侍に襲われている老人、勘定奉行の朝比奈(加藤嘉)を救う。朝比奈に興味を持った狂四郎は赤事情を聞くが、それは将軍家斉の息女高姫(久保菜穂子)を巡る陰謀が進行中だというのだ。だが、その高姫自身の手のものが狂四郎を襲ってきた… 一作目公開後すぐに作られた続編。一作目の狂四郎の立場が微妙な所にあったのに対し、ここではむしろ正義感溢れる人物として描かれるのが特徴。映像も非常に凝っているし、台詞の数々が泣かせる。将軍息女の高姫に対し、「豚姫」と豪語するなど、凄い台詞がどんどん出てくる。又、風呂場で襲われるシーンや、雪の中の決闘など、なかなか見所も多い作品。 シリーズ中でも、一般評価だとトップクラスの人気を誇る作品だが、私が本当に好きなのはむしろニヒリスティックで、あらゆるものを斬って捨てるような狂四郎の姿だから、この描写はちょっとばかし不満があり。単に興味を持ったからと狂四郎自身は言ってるけど、ちょっと人情味が溢れすぎ。これは普通の時代劇っぽいかな? |
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座頭市血笑旅 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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甲州路を旅する座頭市(勝新太郎)は、行きずりの二人連れの女性が急病に苦しんでいるのを見かけ、自分の乗っている駕籠を譲るのだが、直後にその駕籠を市が乗っているものと思いこんだ殺し屋によって女性は殺されてしまう。幸い彼女の連れていた赤ん坊は助かったが、今度は市がその子を親元に送り届ける羽目に…。 このシリーズが長続きした最大の理由は、第一には勝新太郎が演じる市の魅力にあるが、同時にそれは市という人間の痛々しさの演出にあるとも言える。市は目が不自由だし、やくざものなので、女性に惚れても相手のことを思いやって一緒になることはないし、同じ意味で誰とも深い仲になることは出来ない。その哀しみというか、痛みが上手く出ているからこそのシリーズと言える。それで今回は新機軸。子供を使ってその痛々しさを演出しようとしたようだ。実際それは充分機能している。勿論ここでは子供だけじゃなく、旅の途中で出会った高千穂ひずる演じるお香との交流も含めてになるが、その交流ももの悲しい。特に今回は旅をしてる先々で登場する按摩の群れが、まるで市の行き先を暗示してるかのようで、その辺の演出も含め、なかなか見せてくれる。 今回は好敵手もおらず、戦いも今ひとつ盛り上がらないと思ってたのだが、最後の市対多数の戦いは見所充分だし、最後に命乞いをする金子信雄を睨め付ける市の表情の凄まじいこと。 これで新機軸を作り出したシリーズは続いていくことになる。 |
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剣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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女系家族 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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新選組始末記 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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斬る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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座頭市物語 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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下総飯岡の親分助五郎の所へ草鞋を脱いだのは、人呼んで座頭市(勝新太郎)と呼ばれる盲目のやくざだった。目が見えないながら剣の業は神業で、その腕を見込んだ助五郎に目を付けられたからだった。折しも飯岡では助五郎と笹川親分との全面対決の機運が高まっていた。助五郎の側に付いた市と、笹川側の剣客平手造酒(天知茂)の対決が迫る… 1962年は、邦画の斜陽化を決定づけた年として記憶されることが多い(邦画では質の良い映画が多い年なんだけど)。テレビの普及率が一気に上がると共に、娯楽の対象は劇場から家庭に移っていった時代だった。 そしてテレビに対抗するため各映画会社は、人気俳優を使ったアイドル映画を作ってみたり、人気シリーズを連発したりと、何とか客離れを食い止めようとしていた。そんな中、偶然に生まれたのが本作。製作した側としても、半ばつなぎのような感覚で投入したらしいが、案に相違して予想外のヒットを飛ばし、1973年までに25本が製作される人気シリーズとなった。又、それまでさほどぱっとした役がなかった勝新太郎を一気にトップスターとしての地位を固めた作品でもある。勝自身もこのキャラクターには相当の思い入れがあるらしく、後に製作されたテレビシリーズでは総指揮も兼ねている。 元々本作は子母沢寛のエッセイにほんの数ページ書かれていた仕込み杖を使う盲目の男を主人公に映画化されたもので、元ネタがあると言っても、殆ど設定だけ。魅力的なキャラクターを作りたいように作ったのが功を奏したのかも知れない。 それで改めて本作を観てみると、本当に色々なものが詰められている。座頭市自身はまだ過去については語られておらず、むしろ彼を触媒として数々のドラマが展開されているのが面白いところで、労咳を患う鬼神の如き強さを発揮する平手造酒(天知茂)や、親分により市に付けられた蓼吉、揺れる女心を演出したおたね(続編で実際は市の元を離れたことが分かるが)等々。それを引き出したのは市のキャラクター性で、目が見えないと言うことをしっかり演出の中に取り入れた巧い作りとなっている。しっかり存在感を出してたし。 しかし何と言ってもキャラクターと言えば、平手造酒を演じた天知茂の名演に尽きるのではないか?彼は実在の人物で、多くの時代劇に登場するが、本作で余命幾ばくもないことを知り、その死に花を咲かせようとしたように、鬼神のような強さを見せている。喀血し、自分の血にまみれながら返り血を浴び続け、全身血だらけになりながらも戦うのを止めようとしない。これは無茶苦茶格好良い。 彼は生の最後、ほんの僅かであっても心を通わせることが出来た市に殺されることを望んだのだろう。勿論、自分の最高の剣術をもって彼と戦った上で…無茶苦茶格好良いじゃん。 どんな作品であれ、一作目の出来は良いものが多いけど、これはその中でも特筆ものだ。 |
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婦系図 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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釈迦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1961毎日映画コンクール録音賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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インド北方の国にあるカピラ城に生まれた皇太子シッダ(本郷功次郎。20歳になったとき、他に比類無き知性と武芸を得たが、あるとき市井を眺め、万人に幸福が訪れないという事実を知り、深く悩むようになる。その悩みを我慢できず、ついに妻ヤショダラーをも捨て、城を飛び出し修行生活へと入っていく。月日が経ち、悟りを得たシッダは人々に教えを伝え始める。だが、かつてヤショダラーを奪われたと思い込み、彼を恨む従兄のダイバ・ダッタ(勝新太郎)は、彼を破滅に陥れようと画策していた… 釈迦の誕生から涅槃までを描いた超大作。大映が満を持してはなった日本初の70ミリ大作で、当時映画製作としては破格の7億円を使って投入された。 『十戒』(1956)や『ベン・ハー』など、丁度当時ハリウッドでは宗教ものをスペクタクル大作として投入することが多かった。日本も丁度1950年代後半から60年代前半にかけては映画の最盛期に当たるため、自分たちもそれをやってみよう。という気になったか、いくつかの大作宗教ものが作られるようになった。ハリウッドは当然キリスト教をベースとして作るのだから。と言う事で、日本的なものを求めて作られたのが東宝の『日本誕生』と言うことになろうか。それで東宝にライバル意識を燃やしたか、あるいはそれにあやかろうとしてか、大映は更に金をかけて一本の超大作を作り上げた。ただ、日本神話は既に撮られてしまっているため、もう一つの日本の宗教を形作っている仏教はどうだ。と言う事で、舞台をインドにして。 本作の大作感はもの凄いが、それは登場人物と特撮部分に分けられる。 インド人に見せたら苦笑いされそうだが、役者をみんな半裸にひん剥いて、異国情緒を出しつつ、かすかにエロチックさを演出。同じ東洋人の目から観ても「エキゾチック」な雰囲気を作り出している。この半裸というのは結構重要な点。日本人の体格だと、アーリア系のインド人に対抗できる偉丈夫は滅多にいないが、肩幅が広く胸板が厚い本郷功次郎を起用することで、少なくとも主人公に関しては本当にぴったりの役を作り上げてくれた。マッチョな釈迦ってのもイメージ的にはなかなかよろしい。 それと、本作の場合、単なる偉人伝のようにはしなかったのは重要な部分だろう。この物語の中心は勿論シッダだが、むしろ視点は彼ではなく、シッダに対するダイバ・ダッタの目線で統一されている。このダイバ・ダッタというのが、本当に碌でもない人間で、そんな人間が聖なる存在に対しライバル心を燃やし続ける構図というのは、「これを単なる偉人伝にしてたまるか!」という意気込みを感じる。結構難しい役だったように思うけど、勝新太郎を起用したのは正解。殊更本郷功次郎と対立する構図を取らせることで、コンプレックスの固まりみたいな存在を作り上げた。人間の視点はシッダの方ではなく、こちらの方にある。という主張のよう。 勝新太郎演じるダイバ・ダッタのお陰で、あくまで本作は邦画であることを主張する重要な点になってる。 大作らしく、力の入った特撮も見所。 大映特撮は東宝、東映とも又違った味わいを見せるが、それは独特の構図の取り方にある。特徴を言えば、カメラを基本動かさず、固定だけで撮ること。そしてあくまで人間の目線であること。『大魔神』でもそうだが、人間に視点を固定化するのは、かなり表現的には狭められてしまうのだが、怪獣が出ない作品、若しくは怪獣の大きさを小型化することで充分に派手な作品を作り上げることが出来るし、練りに練った構図は名人芸さえも感じさせてくれる。その大映特撮が最も映えた作品こそが本作の見所ではあろう。基本ミニチュアを使わず、セットそのものを使うのは、賛否両論あるだろうが、その分スケール感の大きさは感じ取れる。 ただ、一つ残念なのがストーリーの弱さだろうか。釈迦の伝記を何でもかんでも放り込んで、それを順番に紹介していくような形のため、物語の展開がやや間延びした印象。もうちょっと物語を絞って、人間描写を更に深めてくれれば良かった。豪華配役陣も出てくるだけって感じで今ひとつ個性を活かし切れてなかったのが勿体ない。悟りを開いて後、シッダが登場しなくなると、ミニストーリーの連続になってしまうのだが、やっぱり主人公不在だと話が締まらない。全般的にストーリー部分が寂しすぎるね。 助監督・特技監督として黒田義之が参加している。 |
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銭形平次捕物控 美人蜘蛛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千姫御殿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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女妖 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大菩薩峠 竜神の巻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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大菩薩峠 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1960ブルーリボン助演女優賞(中村玉緒) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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桃太郎侍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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駿河の大名の家に生まれながら、家伝で不吉だとされていた双子だったため里子に出されていた若木新之介(市川雷蔵)。生まれつき強い正義感を持つ彼は、養母の死を契機に、世のため人のために働くことを決意し、自分を桃太郎と名乗るようになる。彼の男気に惚れた伊之介(堺俊二)と言う従者を得た新之助が最初に助けた女性??(浦路洋子)は、何と自分の生家に関わりを持つ家老の娘だった… 市川雷蔵って、本当に映画で映える美男子。物語の整合性や、無意味な強さ、そんなことはどうでも良し。ただ市川雷蔵と言う人物を映えさせる為だけに存在する。 そしてそれが許されるのも、彼が市川雷蔵だから。それだけで充分に理由に出来てしまう。 ところで私は「桃太郎」と言うと、どうしてもあの般若の面で“鬼退治”するのを思い出してしまうのだが…どうやら相当にテレビ惚けしてるらしいな。 |
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