書籍 |
GODZILLA ゴジラ アート・オブ・デストラクション |
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1999年に日本で原発事故が起こった。現場監督であり、その事故で技術者である妻を失ったジョー・ブロディ(クランストン)は、これが単なる地震や事故ではないと確信し、日本に残り独自の調査をしていた。そして15年後、ジョーの息子でアメリカ海軍の爆弾処理部隊員となったフォード(テイラー=ジョンソン)は、日本で警察に捕まった父ジョーを引き取るため、日本にやってくる。だが、父の熱意にほだされ、真相を確かめるべくフォードとジョーは立ち入り禁止区域へと向う。そこはジョーの言った通り一切放射能は検知されず、更に巨大な胎動のような振動があることが分かる。そして何者かによって逮捕されてしまった二人は、廃墟の中にある研究施設に収監されてしまうのだが… この作品では、それこそ色々と言いたいところが山ほどある。それは(いつものような)文句ではなく私自身の思い入れが強すぎるということ。こればかりは怪獣映画好きとしての性のようなものだ。 『ゴジラ』(1954)がハリウッドリメイクされる。そう聞いて嫌な予感を持たなかった特撮ファンはいないだろう。なんせ過去悪しき前例がある。かつてエメリッヒが作り上げた『GODZILLA ゴジラ』(1998)は、ゴジラではなくでっかいトカゲが暴れるだけの作品になってしまったから。そういうものだったと考えて観れば、それなりに観られる作品ではあったが、ゴジラに対する思い入れが一切ないあの作りでは、ストレスがたまるだけだ。 だが、徐々に明らかになっていく続報で、この監督、ちゃんとゴジラのこと分かってるということも分かって、だいぶ期待度も上がったし、先行して公開されたアメリカでの評判も上々。とあれば、期待度満点で拝見。 さて、それでこの作品の出来はどうだっただろう? 確かに、普通の(?)怪獣映画として観る分には、細かいところで色々言いたくもなる。 まず、復帰第一作目だから、ゴジラを単独で出してほしかったというのがどうしてもある。 そして本作でのゴジラは破壊神ではない。 予告では散々ゴジラを破壊王とか煽っていたし、冒頭の演出もゴジラは危険な怪獣であることを散々煽っておいて、すごく期待させておいて、最初に出てきたのが別な怪獣だった時の驚きというか、がっかり感がどうにも。物語上、ミスリードを誘うやり方はテクニックとしては良いんだが、「いよいよゴジラが出るぞ!」と思った瞬間に節足が見えてしまった時のコレジャナイ感は半端ない。 そして現れたムートーを倒すべく現れたゴジラに、胸は熱くなるのだが、「これって怪獣プロレスになるの?」と思ってしまうとテンションは下がっていく。人類を蹴散らすゴジラを観たかったのに、これでは人類を守るゴジラになってしまう。そしてその通りの展開が待っていた。 結果として金門海峡でのM1戦車による砲撃以外で人類とゴジラは戦うことはなく(と言っても、あれは一方的にアメリカ陸軍が砲撃を仕掛け、それで全くダメージはなかった訳だし、このシーンはゴジラの強さを示すためには無くてはならないシーンには違いないが)、あとはムートーとの戦いに終始することになる。 この展開、例えば二作目以降にやってくれた方が良かったんじゃないかな?一作目はやっぱりゴジラの強さを示すだけにして…というモヤモヤ感は確かにある。 それに主人公のフォードがいるところに何故かムートーが必ずやってくることも、なんだか変。後付でも良いから、その理由が欲しかった(父の敵討ち以外にもう一つムートーに立ち向かう理由付けがあったら説得力は増すんじゃないか?)。渡辺謙演じる芹沢博士が一体何をしようとしていたのかもよく分からないとか、ハワイ部分での描写がお座なりになってるとか、細かいところは本当に色々ツッコミ入れたい。 と、怪獣映画として観る分には、ちょっと疑問点も多いし、決して手放しで褒められる作品ではない。 だがしかし。本作はゴジラ映画としては、これ以上ない良作でもある。 怪獣、特にゴジラのファンとして言えることは、自分たちが「これがゴジラだ」と思えるものを出してくれた時点で、本作は既に成功していると言うこと。 これは間違いなくゴジラ映画だ。これだけきちんとゴジラのことをわかった上でこんな作品が出来たことは喜ぶべきなんだろう。実際観ている間はとても楽しめたし、観終えて改めて考えるに、内容的にも十分納得がいく。日本で作られたものではないにせよ、ゴジラを観たい!と言う気持ちを満足させてくれたというその一点に於いて、本作はれっきとしたゴジラ映画として認められる。 物語を俯瞰してみると、本作はゴジラでなければならない必然性はそんなに高くない。仮にガメラであってもモスラであってもあるいは新怪獣を出したとしても本作の物語は成り立つ。だが、ゴジラという存在を出すだけで説得力が全く違ってくるのだ。本作はタイトル通り、ゴジラを中心にしてくれたからこそ、この出来に満足出来たし、ファンとして嬉しい思いをさせてくれたのだ。 では、ファンが認めるゴジラとは何だろうか? 唯一の答えは、ゴジラとは絶対的存在というところ。どうしようもできない圧倒的存在感が地上をのっしのっしと闊歩する光景が見たいのだ。他の怪獣ではそれは不可能。なんせこれまで蓄積されてきた歴史と、それを求めるファンの思いがあまりに大きすぎる。ゴジラという名前だけでそのような姿を思い浮かべるのだから。単に大きなだけの怪獣で、人類がなんとかしたら死ぬような存在ではなく、まさしく圧倒的な存在であること。まさしく"GOD"ZILLAでなければならない。 実はそこでゴジラの全ては終わってる。その前提条件がしっかりしてさえいれば、ファンは基本それをゴジラとして認めるし、そこからどんな物語が展開しても受け入れることが出来る。 かつてのエメリッヒ版ゴジラの大きな間違いは、この前提条件を完全に無視したところにあった。ゴジラを単なる大きな怪物にしてしまい、その存在を卑小化して、人間が太刀打ちできる存在に落とした。そこがファンには全く受け入れられなかったのだ。つまり、ゴジラがゴジラとして存在する最も重要な部分を無視されてしまったがために怒りを覚えたと言うことだ。 対してこのゴジラは、その最も大切な部分を決してないがしろにはしない。ゴジラの強さと存在感を描写することに演出の多くを割いてくれた。それだけで充分満足。結果としてゴジラという存在感を見せつけてくれたことにファンは喝采したのだ。物語や設定に色々文句があっても、一番観たかったゴジラの姿が観られただけで全てを許すことが出来る。 ゴジラの存在感という点に関しては、日本で作られたものについても色々と問題があった。 最初のゴジラの姿は圧倒的だったが、シリーズ化され、話が次々作られるに至り、どんどん人間の方へと媚びるようになっていった。原子力と同じで、使い方によっては危険だが、頼もしい味方になるとか人間側に言わせたり、シェーをさせてみたり、日本を蹂躙せんとする怪獣を倒すためだけに現れたり…どれもがゴジラを人間にとって親しみやすい存在へとシフトさせようとしていった。 その後、いわゆる平成ゴジラの時代になると、ゴジラは町を踏みつぶす存在ではなく都会の巨大ビルに埋もれるような小ささになっていき、更に人類の作り出した兵器がそれなりにゴジラに通用するようになっていった。平成シリーズは徹底してゴジラを悪役として描いたところは評価出来るのだが、圧倒的な存在感をどんどん薄れさせ、ゴジラを小さくさせてしまう。だからエメリッヒ版を馬鹿に出来る立場でもない。 それはとりもなおさずゴジラという存在は、核兵器の恐ろしさを示す象徴が、人類の手によってコントロールされる“原子力”という名前に押し込められてしまった過程でもある。 本作の特出すべき点はここから二点挙げられる。 まず一点として、ゴジラ(及びムートーもそうだが)の巨大感にこだわったこと。確かに現代はゴジラを超える大きさの建物も多いが、建物よりも怪獣と人間との対比にこだわったため、その巨大感、圧倒的存在感は全く減じられていない。下手に建物との対比を増やしてしまうと、単なる大きなだけの生物になってしまうが、それを可能な限り抑え、人間と怪獣、怪獣同士の対比にこだわることで巨大感を演出することに成功した。怪獣映画の醍醐味は巨大感にこそある。改めてその事を示してくれた。 本作の褒めるべきもう一点は、原子力の呪縛からゴジラを解放したところにもある。冒頭部から、やはりその設定を引きずっていると思わせておいて、原子力を必要としていたのはムートーの方であり、ゴジラはそんなムートーと対立することで地球の代弁者となった。こうなってしまうと人類によるコントロールは不可能な領域となる。これによって、ゴジラを特別な存在として描写することが出来たのだ。この部分が逆にガメラやモスラに似てしまったという問題が出てしまったものの、本当の意味で新生ゴジラの姿が観られたのは素晴らしい。ゴジラは確かに人類にとってアンタッチャブルな存在になれたのだから。 これは私自身の妄想の域ではあるが、本作におけるムートーとは、これまで描かれたゴジラそのものを示すアレゴリーであり、それを倒す(乗り越える)ことによって、ゴジラが新生したと考えることも出来よう。 仮に本作がシリーズ化されていくならば(というか決まってるんだが)、この部分を損なうことなく、続編が作られることを期待したい。 そして声を大にして言えることだが、まごうことなく、これはゴジラ映画である。この事実だけで充分な作品だ。 |
ヴィヴィアン | → | |||
【う゛ぃう゛ぃあん】 | ||||
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名称 | → | |||
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ゴジラとムートーの戦いから五年が経過した。地球には巨大生物が存在することが明らかとなり、それまで極秘で活動していたモナークはおおっぴらに怪獣調査が出来るようになっていた。それまでの調査から、地球各地に休眠中の怪獣を発見し、それぞれ見守っていたのだが、怪獣不要論に傾く政府や世論は休眠中の怪獣を抹殺するように命じられていた。そんな中、中国でモスラと呼ばれる怪獣を保護していたモナークのエマ・ラッセル博士(ファーミガ)は怪獣と交信を可能とする“オルカ”の開発を行っていた。モスラの幼虫と交信が可能になりかけた時、環境テロリストがモナーク基地に押し入り、オルカを強奪。エマと娘のマディソンを拉致してしまう。自体を重く見たモナークはエマの元夫の科学者マーク・ラッセルチャンドラー)に協力を要請する。 東宝の誇るゴジラ。今や日本だけでなくレジェンダリーでもシリーズ化された。既にギャレス・エドワーズによる『GODZILLA ゴジラ』(2014)が作られ、今回は完全にその続編として作られた。これまでに作られた『キングコング:髑髏島の巨神』(2017)と合わせ、モンスターバース・シリーズの一本として作られた。 前作『GODZILLA ゴジラ』はミスリードによって、ゴジラは凶悪な怪獣ではなく、むしろ世界を維持するための存在というオチが付いたが、これはこのレジェンダリーシリーズの方向性を形作った。 これまでゴジラのシリーズでは、基本的にゴジラは人類の敵であり、地球を破壊する存在だった。そのためこのモンスターバースはこれまでのゴジラシリーズとは全く逆な存在となった。 そのため物語上明確な悪役が必要となる。前作『GODZILLA ゴジラ』ではムートーがそれに当たるが、本作ではライバルキャラとして最も人気のあるキングギドラを登場させた。基本設定では怪獣は地球の環境維持をするワクチン的な存在だが、キングギドラだけは宇宙から飛来したもので、地球産のものではないし、これまでのシリーズでゴジラとキングギドラは一切手を組むことなく、一貫してライバルキャラなので、ゴジラの相手をするのはぴったりな存在だ。 基本的には本作は「ゴジラ対キングギドラ」と言って良いくらいに二体の怪獣の激突に特化した作品となる。その分人間ドラマが割り食ってしまって、すごく単純になってしまったものの(単純以前の問題という話でもある)、怪獣プロレス好きにとっては、これほど高揚するものはない。 それに、昨年公開された『GODZILLA 星を喰う者』(2018)ではせっかくキングギドラ出したのに、全然活躍させられずにストレスが溜まってた身としては、ゴジラとキングギドラの激突が観られただけでもう充分。 正直な話を言えば、これでレビュー終わってもいい。だって本当にそれだけしか見所ないんだから。 だがそれではレビューとしてどうかとも思うので、もう少々、これまでのゴジラシリーズの兼ね合いで本作を語ってみたい。 ゴジラという怪獣映画は長く作られてきたため、ゴジラの存在についても様々。もちろん最初に登場した『ゴジラ』(1954)は完全に人類の敵だった。その存在感故に名作ともなったのだが、続編を作る際にはこのままだと作りにくくなってしまったため、人類を気にもせず、他の怪獣戦う事を目的とする乱暴キャラ、そして一応人類を守る側に入っていく。昭和の後期作品はゴジラはヒーローのアイコンになってしまった。 その後、平成シリーズとも呼ばれる『ゴジラ』(1984)によって仕切り直しとなり、このシリーズではほぼ一貫してゴジラは人類の敵という姿勢を崩さなくなった。VSシリーズでは、タイトルの「VS」の後に続く怪獣の方が人類の味方をしているパターンが多くなっていく。 更に仕切り直しのミレニアムシリーズと呼ばれる『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999)以降の作品は、一本ごとに仕切り直しでゴジラを基本的に敵として描くようになっていった。 その後完全仕切り直しで『シン・ゴジラ』(2016)があって、これで日本で作られたゴジラは現時点で最後になってる。 そのため本作は昭和シリーズとだいぶ似通っている。ゴジラとラドンとキングギドラが出ることから、基本は『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964)となるが、多数の怪獣が登場して戦い続けるという『怪獣総進撃』(1968)にも近い内容になる。 更に『怪獣総進撃』はお祭り感が高い作品だったが、その後の北村龍平監督の暴走作品『ゴジラ FINAL WARS』(2004)があって、むしろ本作はそっちの方に近い感じである。 そもそも『FINAL WARS』自体が『怪獣総進撃』を多分に意識してる感じがあって、その意味では本作は順当な進化の過程とも言える。『FINAL WARS』の場合、最後に「おお!キングギドラが出た!」と思ったらちょっと違ったカイザーギドラで、がっつんがっつん殴り合うだけの戦いになってしまったためにやや不満があったが、本作は最強の敵として完全にキングギドラなので、その意味でもありがたい。 強いて言うなら、キングギドラは制空権を取って終始ゴジラを見下ろして戦おうとし、それを引きずり下ろすための努力というのを観たかったところもあるんだが、それは個人的な趣味の領域だろう。 あと、本作では全く語られることがないのが人間ドラマ。それなりに盛り上げようと考えているようなのだが、怪獣をあまりに中心におきすぎたお陰で何もかもすっかり色あせてしまったのがちょっと残念。 芹沢に関してはまあともかくとして、人類を裏切ったエマに関してはその説明もモチベーションも描かれないため、なんでこんなことをした?という疑問に一切答えてない。その辺不必要と割り切るのかどうかで本作の評価は変わるだろう。 その辺の問題はあるものの、私に関して言わせてもらえれば、本作はとても面白い作品だといおう。 |
アイリーン | → | |||
【あいりーん】 | ||||
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アラン | → | |||
【あらん】 | ||||
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アルゴ | → | |||
【あるご】 | ||||
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アンドリュー | → | |||
【あんどりゅー】 | ||||
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ヴィヴィアン | → | |||
【う゛ぃう゛ぃあん】 | ||||
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エマ | → | |||
【えま】 | ||||
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オキシジェン・デストロイヤー | → |
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【おきしじぇん-ですとろいやー】 | ||||||
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オルカ | → | |||
【おるか】 | ||||
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怪獣の女王 | → | |||
【かいじゅう-の-じょおう】 | ||||
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キングギドラ | → |
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【きんぐ-ぎどら】 | ||||||
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キングコング | → |
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【きんぐ-こんぐ】 | ||||||
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ゴジラ | → |
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【ごじら】 | ||||||
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サム | → | |||
【さむ】 | ||||
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スキュラ | → |
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【すきゅら】 | ||||||
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芹沢猪四郎 | → | |||
【せりざわ-いしろう】 | ||||
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ダイアン | → | |||
【だいあん】 | ||||
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タイタン | → | |||
【たいたん】 | ||||
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ベヒモス | → |
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【べひもす】 | ||||||
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マーク | → | |||
【まーく】 | ||||
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マディソン | → | |||
【までぃそん】 | ||||
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ムートー | → |
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【むーとー】 | ||||||
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メーサータレット | → | |||
【めさー-たれっと】 | ||||
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メトシェラ | → | |||
【めとしぇら】 | ||||
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モスラ | → |
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【もすら】 | ||||||
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モナーク | → | |||
【もなーく】 | ||||
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ラドン | → |
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【らどん】 | ||||||
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リック | → | |||
【りっく】 | ||||
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リン | → | |||
【りん】 | ||||
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名称 | → | |||
【】 | ||||
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2024年。古文書を分析した研究機関モナークは地球の内部に地下空洞があることと、コングとゴジラは戦う宿命にある事を発見した。そこで髑髏島に基地を設置してコングをその中に閉じ込めてゴジラと接触を防ごうとするが、コングが暴れたために収容失敗。そこで地下空洞にコングを連れていくことを決定する。一方、鳴りを潜めていたゴジラは突如アメリカに上陸。エイベックス・サイバネティック社を襲った後、太平洋を移送中のコングの存在を察知してコングの元へと向かう。 レジェンダリーによるモンスターバースシリーズでも肝となるのはキングコングとゴジラの二大怪獣の絡みである。それぞれ独自にシリーズ化しているが、やがてはこの二大怪獣を戦わせることは最初からの予定に組み込まれていた。 そしていよいよ2021年になって、二大怪獣のぶつかり合いがついに映画化された。 怪獣好きにとっては夢の対決である。 尤もこれは実に50年前に本田猪四郎監督によって『キングコング対ゴジラ』(1962)として映画化しており、更にこの作品の完成度も高いため、「今更やらんでも」という消極的な気持ちもないではないのだが、やっぱり公開されると気持ちが高ぶる。 新型コロナウイルス蔓延のために公開も遅れてしまったが、幸いなことにSNSでネタバレもなく、ほぼまっさらな気持ちで観ることが出来たのはありがたい(それでもいくつか漏れ聞こえてはいたが)。 この作品を一言で言えば、「サービス過剰」だった。ゴジラ側の前作である『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)も相当なサービス過剰ぶりだったが、それに輪を掛けたサービスぶり。ただしちょっと方向性は違う。『KOM』のサービスは怪獣同士のぶつかり合いがたっぷり観られることがサービスだったが、こちらは設定的に盛りすぎ。 とりあえずメインのゴジラとコングの戦いを後回しにして、人間ドラマと設定の方をまずは考えてみよう。 この作品には人間側に三つのドラマが用意されている。 一つには髑髏島でコングの保護活動を行っているアイリーンと、手話を介してコングと意思疎通が出来る少女ジア、そして地図製作者のネイサン、エイベックス社のマイアからなる地下探検隊がある。 『キングコング:髑髏島の巨神』(2017)において地球空洞説が提唱され、そこから怪獣がやってくるとされ、ここの冒険がまずあるが、パターン的には『ロスト・ワールド』(1925)から連綿と続く一連の探検シリーズだが、モナークとエイベックス社の思惑が錯綜する陰謀とかもあって見応えはある。ぱっと思った感じは『緯度0大作戦』(1969)観てる気分。これが結構壮大な物語で、これだけで充分一本分の映画に出来るくらいの物語性がある。 二つ目に陰謀論者バーニーに引きずられるようにエイベックス社に証拠を掴みに行くミリーとジョシュの高校生コンビの物語。アメリカにある工場に入ったら、いつの間にか上海まで行ってしまってメカゴジラを目撃、そのままゴジラとコングの戦いに巻き込まれてしまう。これは純粋なジュブナイルもので、まさに王道の特撮物語。観ていて『ガメラ対大悪獣ギロン』(1969)思い出してしまった。ゴジラ対コングの戦いあってのことではあるが、これも一本分の映画として充分に観られる分量の物語がある。 そしてもう一つ。前作『KOM』でゴジラのために命を捧げた芹沢の関係者とおぼしき芹沢蓮の物語がある。ゴジラに観も心も捧げてしまった父を見て一体何を考えたのか。そして何故そのゴジラを滅ぼそうという考えに至ったのか。この物語を深めれば『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』(1999)にもなるし、『ゴジラ×メカゴジラ』(2002)にもなる強度を持った物語だった。 ゴジラとコングの戦いがあってという前提はあるが、これら三つの物語はどれも一本分の映画を作れるだけの内容を持っている。これをまんま映画にしてしまったらとっちらかってしまって中心がぶれる。だから本来相当細やかにペース配分しなければならない。怪獣の戦いというド派手なメインストーリーがあるのだから、できるだけ繊細に考えるべきものである。 しかし、この作品ではそれは全く配慮されてなかったようである。なんせ三つの物語がそれぞれ関係なく全開で作られてしまったから。正確に言えば三つ目の物語が脇に避けられて、残り二つの物語が好き放題に作られていた。 お陰で人間パートのストーリーが厚い割にとっちらかってしまった。三つの物語を一つにすればもう少しすっきりさせられたはずだった。それに三つ目の芹沢息子の話を端折ったため、ラストの伏線が弱かったのが残念だった。ここはもう少しだけ丁寧にやって欲しかった。 しかしそんなマイナス要素があっても、それ以上に良かったのがゴジラ対コングの戦いで、これはとても充実していた。 このタイプの作品で必要なのは、何故この二大怪獣が戦わなければならないのかという理由付けである。 これが実は結構面倒くさい。ゴジラは地球の守護神で、人類に対してもどっちかというと守る立場を取っている。一方コングは地下空洞と地上の通路を塞ぐためにいる。この立場から、どちらも戦う意味が薄い。更に二体とも知性が高い存在となっているため、ますます戦う意味がない。 ではこの二体が何故戦わなければならなかったのか。そこに画期的な言葉が出てきた。それは「宿命」である。ゴジラとコングは戦うべくして存在するのだから、戦うのは避けられないのである。 なんと頭の悪い設定だろう。しかし一方では、「宿命か。ならば仕方がないな」という妙な納得も出来てしまう不思議な言葉でもある。少なくてもたった一言「宿命」と言っただけで戦う意味が出来てしまった。ここまで単純化したのは意外だが、「こんなんでいいんだよな」と妙な納得感もあった。実際人間の感覚で理解出来ないものは理由もなくぶつかるでも充分成り立つのだ。 それにこれくらい単純だから二大怪獣のぶつかり合いも忖度なしに殺し合って良い。戦うのに複雑な理由があったらどうしても手加減が生じるが、殺し合う宿命なのだから、戦わざるを得ないのだから。 この二体の戦いも結構見栄えがある。巨大人型で身体能力も極端に高いが、哺乳動物特有の弱点も持つコングに対し、呼吸を必要とせず、あらゆる場所に現れ、更に放射熱線まで吐くゴジラ。明らかに基本スペックに差があって、単なるぶつかり合いだと絶対的にゴジラの方が有利。基本的にこの二体のぶつかり合いだと終始ゴジラの方が優勢になる。それを全く衒いもなしで描いた辺り、監督のきちんとした意思を感じる。 それで身体能力的には圧倒的に不利なコングがいかにしてゴジラと戦うのかと言うパートにかなり時間を使って、納得させるまでコングをパワーアップさせて第二戦。しかしそこでも良いところまでいっても、やはりコングが敗北。 実力差で決して対等でない二人の関係がちゃんと描かれてるのは好感度が高い。 結局第三勢力であるメカゴジラが入り込むことでゴジラとコングが協力することになってしまったのだが、そこは痛し痒し。気持ち的には盛り上がるのだが、折角の二体の戦いに水を差された気になってしまい、ちょっと中途半端かな。 ラストまでの展開は日本の戦隊もののVS作品っぽくなってしまった。監督もその辺心得ているのか、本当にそれっぽく作られているため、ちょっと安っぽくなってしまったか? そこがちょいマイナスだったが、ここで戦いが終わった訳でなく、続編がある事で、以降に期待かな? あと、ウィンガード監督には是非『パワーレンジャー』(2017)の続編かリブート作って欲しい。 |
アイリーン | ||||
【あいりーん】 | ||||
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ウィルコックス | → | |||
【うぃるこっくす】 | ||||
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ウォルター | ||||
【うぉるたー】 | ||||
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エイペックス・サイバネティック社 | → | |||
【えいぺっくす-さいばねてぃっく-しゃ】 | ||||
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エマ | → | |||
【えま】 | ||||
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ギドラ | → | |||
【ぎどら】 | ||||
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ギラーミン | → | |||
【ぎらーみん】 | ||||
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キングコング | → |
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【きんぐ-こんぐ】 | ||||||
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ゴジラ | → |
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【ごじら】 | ||||||
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サイコ・バルチャー | → |
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【さいこ-ばるちゃー】 | ||||||
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ジア | → | |||
【じあ】 | ||||
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ジェイ | → | |||
【じぇい】 | ||||
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ジョシュ | → | |||
【じょしゅ】 | ||||
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スカル・クローラー | → |
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【すかる-くろーらー】 | ||||||
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芹沢蓮 | ||||
【せりざわ-れん】 | ||||
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髑髏島 | → | |||
【どくろ-じま】 | ||||
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ネイサン | ||||
【ねいさん】 | ||||
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バーニー | → | |||
【ばーにー】 | ||||
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ヘルホーク | → |
|
||||
【へる-ほーく】 | ||||||
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マーク | → | |||
【まーく】 | ||||
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マディソン | → | |||
【までぃそん】 | ||||
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メカゴジラ | → |
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||||
【めか-ごじら】 | ||||||
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モナーク | → | |||
【もなーく】 | ||||
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モンスター・ゼロ | → |
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【もんすたー-ぜろ】 | ||||||
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ワーバット | → |
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【わー-ばっと】 | ||||||
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名称 | ||||
【】 | ||||
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