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庵野秀明

庵野 秀明
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鑑賞本数 7 合計点 19.5 平均点 2.79
書籍
評論
庵野秀明 (KAWADE夢ムック)
庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン
庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン
エヴァンゲリオン完全解体全書再起動計画―新たなる謎を解く手掛かり
ヱヴァンゲリヲン新劇場版完全解体全書 (青春文庫)
エヴァ・宣長・日本的なるもの
監督不行届(コミック)
超機密 新世紀エヴァンゲリオン 最終報告書
宮崎駿と庵野秀明

著作
EVANGELION ORIGINAL〈1〉 〈2〉 〈3〉
THE END OF EVANGELION―僕という記号
庵野秀明のフタリシバイ―孤掌鳴難
シナリオ ラブ&ポップ
新世紀エヴァンゲリオン絵コンテ集
新世紀エヴァンゲリオン画集 : DIE STERNE
「特撮博物館」展示図録+別冊「巨神兵東京に現わる」パンフレット
マジック・ランチャー (making of ACTUAL‐MEDIA)

ムック
Re:キューティーハニー アニメーション原画集
新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集(上) Groundwork of EVANGELION The Movie 1
新世紀エヴァンゲリオン劇場版原画集(下) Groundwork of EVANGELION The Movie 2
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序―ENTRY FILE 1
ヱヴァンゲリヲン新劇場版 : 序 全記録全集
エヴァンゲリオン完全解体全書再起動計画―新たなる謎を解く手掛かり
新世紀エヴァンゲリオン完全補完文書
新世紀エヴァンゲリオン原画集(1) (2) (3)
トップをねらえ2! アニメーション原画集 上 
トップをねらえ2! 画コンテ集 上 
ふしぎの海のナディア アニメーション原画集―RETURN OF NADIA
ふしぎの海のナディア やったらこうなっちゃった ナディア

_(書籍)
2023 シン・仮面ライダー 監督・脚本
2022 シン・ウルトラマン 総監修・製作・脚本
2021
2020 シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 総監督・企画・製作総指揮・原作・脚本・
2019 ラストレター 出演
2018
2017 龍の歯医者 制作統括
2016 シン・ゴジラ 監督・脚本
機動警察パトレイバーREBOOT エグゼクティブプロデューサー・企画
2015 ザ・ウルトラマン エグゼクティブプロデューサー
evangelion: Another Impact (CONFIDENTIAL) 原作
おばけちゃん 特技監修
2014 安彦良和・板野一郎 原撮集 編集・構成
until You come to me. レイアウト・原作
2013 風立ちぬ 出演
安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~
<A> <楽> コンセプトデザイン
2012 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 総監督・製作・原作・脚本 
巨神兵東京に現わる 製作・脚本
宇宙戦艦ヤマト2199
<A> <楽> オープニングアニメーション・絵コンテ
2011 監督失格 製作
2010 デスカッパ 出演
MM9
<A> <楽> 出演
2009 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 総監督・原作・脚本
2007 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 総監督・原作・脚本
クワイエットルームにようこそ 出演
さくらん 出演
2006 トップをねらえ2!劇場版 企画監修
トップをねらえ!劇場版 オリジナル版監督
日本沈没 出演
トゥルーラブ 出演
2005 キャッチボール屋 出演
ローレライ 画コンテ協力
2004 ストリングス 愛と絆の旅路 日本語監督
恋の門 アニメーション演出・出演
ナイスの森 The First Contact 出演
Re:キューティーハニー
キューティーハニー(3rd)
<A> <楽> 総監督
トップをねらえ2! 企画監修
2003 CUTIE HONEY キューティーハニー 監督・脚本
茶の味 出演
サブマリン707R オープニング演出
2002 流星課長 監督・脚本
ぷちぷり*ユーシィ
<A> <楽> 監修
2000 式日-SHIKI-JITSU- 監督・脚本
1999 GAMERA1999 総監督
アニメ愛のあわあわアワー
<A> <楽> 企画
愛の若草山物語
<A> <楽> 企画
おるちゅばんエビちゅ
<A> <楽> 企画
小梅ちゃんが行く!!
<A> <楽> 企画
1998 ラブ&ポップ 監督
あぶない刑事フォーエヴァー THE MOVIE 出演
彼氏彼女の事情
<A> <楽> 監督
トップをねらえ! 監督・絵コンテ・設定
1997 THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に 総監督・演出・監修・原作・脚本・作画監督 
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生 総監督・原作・脚色・作画監督
1995
新世紀エヴァンゲリオン
<A> <楽> 監督
1990
ふしぎの海のナディア
<A> <楽> 総監督
1989 トップをねらえ! 監督・脚本・絵コンテ・設定
1988 アップルシード スーパーバイザー
1987 王立宇宙軍 オネアミスの翼 作画監督
メタルスキンパニック MADOX-01 原画
1983 帰ってきたウルトラマン 総監督
1960 5'22 山口県宇部市で誕生

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シン・仮面ライダー
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紀伊宗之
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庵野秀明(脚)
池松壮亮
浜辺美波
柄本佑
西野七瀬
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松尾スズキ
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安田顕
市川実日子
竹野内豊
斎藤工
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大森南朋
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 気がつくと何者かから追われる身になってしまった本郷猛(池松壮亮)は、共に逃亡者となった女性緑川ルリ子(浜辺美波)の父緑川博士(塚本晋也)から、自分がバッタ型の改造人間にされたことを告げられる。ショッカーという組織の科学者だった緑川は、人を守るために正義漢の強い本郷を選んだという。戸惑うばかりの本郷だったが、緑川の裏切りを知られたショッカーからの敵が次々と現れ襲われる。ルリ子を守りつつそれを撃退するために自らも変身して戦っていく。

 庵野秀明監督による、これまでの特撮やアニメーションのリブート作品、いわゆるシンシリーズもこれまでのゴジラ、エヴァ、ウルトラマンを経て四作目を迎えた。それぞれ特徴があるが、『シン・ゴジラ』および『シン・ウルトラマン』の二作品に関しては、明らかに原点回帰を目しておおり、様々に受け取られる「シン」とは「真」の意味が強い感じだった。
 ただ「仮面ライダー」についてはおそらくこの二作品とは違ったアプローチが取られるだろう事は推測されていた。理由は、ゴジラであれウルトラマンであれ、巨大な生物が出てくるために日本全体を巻き込んだ巨大なものになるから。それに対して仮面ライダーは等身大ということもあって、そんなに大きくはならないことは推測できた。
 事前で推測されたのは、同じ特撮でも『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』とは異なる話になることくらい。先の二作品は人知を超える偉大な存在をモティーフにするが、仮面ライダーの場合は人間によって作られたものであり、人類のコントロール出来る範囲のものである事、そして等身大の戦いがメインとなるので、これまでとは異なり、アクションは生々しくなること。そして、仮面ライダーの原点回帰という事は、かなりの怪奇路線に走ることくらい。
 あと、ネットでの評価は極端に分かれているといこと。概ね映画好きな人たちは酷評し、特撮好きな人たちは大絶賛してる。
 その程度の事前知識だけで、後はネタバレ回避しつつ劇場へと向かう。映画好きで特撮好きな私はどういう評価になるのやら。ワクワクしながらどこか怖い気もしながら拝見。

 しかしこれは思った以上に難物の作品だった。
 はっきり言ってしまえば、この作品全く面白くない。物語に一貫性がないし、場当たり的な展開と、CGの使い方も良くない。そもそもこんなの出して恥ずかしくないのか?という思いがある。
 頭ではそれ分かっているし、実際面白くないと思いつつ観ていたのだが、ところが頭の中では歓喜の声を上げていた。間違いなくこれは初期の「仮面ライダー」をリアルタイムで観ているか、あるいは昭和特撮の世界にはまった人間なら分かる。間違いなくその魂を受け継いだものだと分かるから。
 昭和特撮と言うより、その舞台となった1970年代の空気感を感じさせてくれるものだ。

 ここで私が言えるのは、この作品が、庵野秀明という監督の想いを徹底的に受けて作られた作品だと言うこと
 庵野秀明というと、仮面ライダーではなくウルトラマンの方に思い入れが強いかと思ったのだが、仮面ライダーに対しても相当な想いがあったことが窺える。本作はその思いをダイレクトに表現した作品だったと言える。
 庵野監督が表現したかったこと、そしてその狙いとは、「仮面ライダー」そのものをもう一度作ろうとしたことだった。既にシリーズも長く、テレビシリーズだけで40作にも上ろうという膨大な数の作品があるが、そのどれでもなく、一作目だけに焦点を絞り、その再構築を考えた。これはかつて原点回帰を目指した『仮面ライダー THE FIRST』(2005)で既に一度挑戦しているが、それとは違ったアプローチで考えている。
 具体的に『FIRST』と本作の違いは、『FIRST』が現代に合わせてデザインしていたのに対し、本作は舞台そのものを1972年の雰囲気に持って行ってしまったことだった。同じ原点回帰を目しても、『FIRST』がリファインだったのに対して、本作はリメイクの意味合いが強い。
 まさしくこの作品、本当に1972年っぽさがある。なんせほとんど作品が田舎の自然の中とアジトの建物の中ばかりで一切の生活臭を抜かしてる。ひたすら会話して戦うだけの作品である。一切バランストか考えてない。ストイックなまでに会話と戦いに純化したものになってる。
 しかもその会話というのが大部分「戦う意味」についてのみで、ショッカーが何をしたいのかとか、彼らの活動の結果、日本はどうなったのかも描かれない。ただひたすら本郷猛が戦う理由についてのみ語るだけである。
 なんでここまで変な作品にした?
 しかし、その変なことが、逆にストイックなものに感じられてしまう。

 そもそも「仮面ライダー」は東映のはみ出しプロデューサーがスト破りのために作った作品という背景がある。当時東映に限らず映画界は学生闘争の煽りを受けて激動していた。特に東映は組合の力が強く、上層部に意見を通すためにストライキが行われ、スタジオに籠もって撮影できないようにしていたが、それを逆にチャンスとして、普通では出来ない企画を無理矢理通して倉庫みたいな所を無理矢理スタジオに変えて、更に組合にも入らないはみ出し組をスタッフに組み込んで(東映だけでは足りず、大映のスタッフまで取り込んだそうだ)作った作品である。
 そのため徹底的にコストを掛けないように作られたし、場合によってはスタントも役者本人が行ったりした。ストーリーもごくごく単純なものを繰り返すだけで、可能な限り楽な作り方をしているのが特徴だった。「ウルトラマン」とはアプローチが全く異なるのだ。
 庵野秀明はリアルタイムで「仮面ライダー」を観ていたが、おそらく卓越したその目は、当時からこの金のつかわなさといい加減さを見抜いていたのだろう。
 しかしそのいい加減さをプラスに捉え、誰もやろうと考えない、その部分を再現しようとしたのが本作となる。
 だから作り方も70年代っぽくなっていて、長くダラダラ何度も何度もアクションをやらせ、その中で思いもかけないようなショットをつなげ、それをリアリティとして見せる。役者を追い込んで本気での怒りを引き出すと言った方法で、本当に70年代の東映の映画やテレビでやってた手法を用いていたようだ。

 その結果、大変生々しい作品が出来上がった。近年のスタイリッシュとは真逆の泥臭さと、偶然に撮影できたものをつなげて、変な演出になってしまうものを放り出した。
 これこそ庵野秀明の狙いで、70年代の魂を50年後の今再現しようと考えた結果、このようなものが出来てしまったという事だろう。
 このタイトルに付けられた「シン」は「芯」と当て字を入れて良いかもしれない。

 それに、うがち過ぎかも知れないが、もう一つ重要な点がある。
 本作は庵野監督が思い描く映画作り環境というものを体現した作品なのかも知れない。
 映画作りの現場は今は大変スマートになってる。できるだけ金を掛けないように、役者の負担を掛けないようにした結果、最小限度の苦労でそこそこの画作りが出来るようにシステム化されているのだが、そんな現場では、これまで見たような画しか作れない。
 映画作りってのはそう言うもんじゃないだろう。もっと産みの苦しみを感じ、限界まで役者を酷使し、無駄な演出に力を込めろ。監督が思い描く画作り以上のものを偶然に生み出せ。
 無茶苦茶だが、その無茶苦茶さあってこその映画作りだと考えていたのでは?
 はっきり言って本作は無駄が多くショットもゴツゴツしすぎ。しかしそれが映画の原体験を刺激するからこそ、本作は心に刺さる。


 本作は一般受けはしない。しかし刺さる人には必ず刺さる。その意味で明らかなカルト作品の誕生となった。
製作年 2023
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原作
仮面ライダー <A> <楽>
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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
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山口由里子
石田彰
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清川元夢
関智一
岩永哲哉
岩男潤子
長沢美樹
子安武人
優希比呂
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沢城みゆき
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伊瀬茉莉也
勝杏里
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興津和幸
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さとうあい
滝沢ロコ
堀越真己
八百屋杏
斎藤千和
小野塚貴志
儀武ゆう子
手塚ヒロミチ
塙真奈美
大南悠
中務貴幸
丹羽正人
広瀬さや
中村源太
武蔵真之介
新祐樹
前田玲奈
村田知沙
虎島貴明
井関花芽
神木隆之介
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 父ゲンドウの言うままエヴァ13号機を用いて地球を破滅に導きかけたシンジは、自らの責任の重さに耐えかねて激しく落ち込んでしまった。式波アスカは、そんなシンジとレイのクローン体を無理矢理生き残った人類の村へと連れて行く。そこで死んだと思っていたかつての旧友と再会し、三人は自給自足の生活をしている村でそこでしばし逗留することとなる。一方、ミサト率いるヴィレは、最終段階にある人類補完計画のフォースインパクトを阻止すべく最後の戦いに挑もうとしていた。

 1995年に放映され、以降の世界のアニメーションどころか日本の文化まで変えてしまった「新世紀エヴァンゲリオン」は既にTV版と旧劇場版の二つの完結を迎えている。だがそのどちらも視聴者側としては大変不満の残る出来であり、真のラストが待たれていた。
 監督の庵野秀明もそれは同じだったのだろう。劇場版でリブートして、今度こそ本当に終わらせると宣言した。その言葉通り完全リブート版の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)が作られた。TV版をベースとしつつ、随分わかりやすい物語として作られているのが特徴で、シンジの性格が大きく変わっていて、種々の交流を経てコミュニケーションもしっかり取れるようになり、何より『破』のラストはヒーローそのものの姿だった。
 基本ストーリーは変わらなくてもここまで明るく出来るものだと感心できる出来で、一般的な評価も概ね好意的に捉えられていた。ただ、コアなファンには不評なところもあったようだ
 私自身で言わせてもらえれば、ほぼ世間の評判と同じで、このままの盛り上がりで続いてラストまで行ってほしいというのが正直な感想だった。理由は、早くエヴァの呪縛から逃げたかったという単純なものだが、テレビ放映当時に心持って行かれ、今もオタクを続けている人の多くは同じ思いを持っているのではなかろうか?
 だが、その思いは、三年後に公開された続編の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)で打ち砕かれた。一作目と二作目を好意的に描いた理由はここで徹底的に落とすためにあったのか?とさえ思うほどに完璧な落とし方だった。よくもまあここまでやったもんだ。変な意味で感心もしたが、同時に庵野秀明という監督はずっと変わらないのか?だとしたらもう見捨てるべきか?とまで考えもした。
 それでも結論は次回作に持ち越そうと思っていたが、それでまさか9年も経過してしまった(その間に『シン・ゴジラ』という傑作を作ってしまったため、期待がムクムク起きてきたのも事実だ)。更に新型コロナウイルスもあって公開が延びてやきもきさせられた。

 それでようやく公開。
 ついに、本当に終わりが訪れた。しかも予想もしてなかったこれ以上無いすっきりした終わり方で
 私の感想は新版一作目二作目と同じ。三作目であそこまで落としておいて、よくここまですっきりと終わらせてくれたと感心した。まずはその点を評価したい。ネットではなんか普通の作品っぽくなったという評も散見されるが、逆に三部のあの終わり方からここまで持って行けただけ凄い。

 これは実は最初に『Q』が思ったほど悪くなかったという事実が提示されたからだった。あれだけ酷いことをしたと思っていたが、実はあの作品、これまでの庵野監督作品の中で最も人が死んでない作品でもあるのだ。確かにオープニング時点で人類はほぼ絶滅しているのだが、劇中では実は誰一人死んでない。あの作品で起こったサードインパクト『破』の際に起こったのは不完全なサードインパクトだったため、ゲンドウは本物のサードインパクトを起こそうとしたらしい)が起こる際は、地球上のほとんどの人は消えてしまっていたため、誰も死んでない。唯一肉体を破壊されたカヲルも、すぐさま月にある新しい肉体に精神が転移されているため実質的には死んでいないという事実も明らかにされた。だからシンジは自覚的な意味では誰も殺してない。恐らくこれは脚本の張った罠で、『Q』でとんでもなく非道なことを行ったという刷り込みを行った上で、それを否定した上でこの物語が始まる。更にこの第三村には『Q』で死んだ事が暗示されていたトウジとケンスケが逞しく生きていることが示される。
 あれだけ暗い終わり方をした作品の後でこれか?
 この時点でこの作品ですっきり終わらせようとしている匂いが感じられた。

 その後の第三村での時間が面白い効果を生んでいる。『Q』では全く説明されなかった部分をここで丁寧に語りつつ、シンジの心を時間かけて再生していく。心を再生するのは孤独であるという構図は80年代のアニメでよく使われていた手法だが、最近のアニメではほとんど使われてないために逆に新鮮な感じになった。他にもこの時間を利用してミサトが何故ヴィレを作ったのか、シンジを甦らせたくなかった理由などもいくつかのキーワードなども語られる。

 一見動きのない前半部でも飽きさせない工夫はふんだんに用いられているし、それにこれがあったからこそ、後半の展開が映える。
 たった二人しか残っていないネルフと、巨大艦船を擁するヴィレ。この力関係が『Q』ではあまり示されなかったが、ここでその力関係がはっきりする。実はネルフの方が圧倒的な差があって、人類補完計画完遂まであとほんの僅かしかないという状況である。それをギリギリで回避しようとして必死にあがいているのがヴィレであることが分かる。パーツもないためにつぎはぎだらけのエヴァ二体をなんとか動かしてるような状況。
 そんな絶望的な状況の中でシンジがここにいなければならなかった理由が出てくる。
 この部分が実は結構重要。シンジの存在意義とは、ゲンドウにとってはサードインパクトを起こすトリガーでしかなかっため、今はもう用済み。ヴィレにとってはニアサーを起こして全人類を死に追いやった張本人。ミサトにとっては贖罪の対象だからいて欲しくない。いずれにせよ誰からも必要とされてない存在だった。
 そんなシンジが自分の意思で現場に向かった。そして最後にエヴァ初号機に搭乗することで急展開を見せる。
 これまで誰かの言うとおり動くだけで、一度だけ自分の意思で動いたらニアサーを起こしてしまったというシンジだからこそ、ここで自分の意思で戦いを選択したことに意味が出てくる。葛藤を経て、本物のヒーローになったのだ。
 更にここに、今まで庵野監督作品には観られなかったモティーフが現れる。それは初めて父親を超える描写があったと言うことである。古今東西ヒーローとは比喩的に父を殺すことによってヒーローたり得るものとなっていた。だがこれまでの庵野作品では父親を描きつつ、敢えてそれを避ける形に持っていく事がほとんどだった。定式からずれるため、ヒーローっぽくならないのだが、それが安野作品の個性になっていたのだ。
 そのスタイルを捨て、父親との直接対決、そして父の孤独を理解した上で超えていくという図式を初めて作った。
 ここには驚かされた。
 監督がそれを自覚的に行っていたのか、それとも空白期間の中で出した彼なりの一つの答えなのか、それは分からないが、少なくとも原点回帰という意味でシンジを本物のヒーローとして描いたことは大変大きな特徴と言える点だろう。

 ここまですっきりした本物のヒーロー作品になるとは思ってなかったため、逆に肩透かしを食ったような気分にもなったのだが、でも四半世紀という時間を経てようやくあるべき場所に着地出来たという思いにもさせられる。
 少なくとも私はこれを諸手を挙げて賛同する。

 これを「こんなのエヴァじゃない」という人もいるだろう。そう言う人を否定するつもりもないが、少なくとも私にとっては、やっと肩の荷が下りた気がするのでこれで良い。本音を言えば「これ以上この作品に心のリソース取られたくない」。これでさっぱり思い切りが付いた。


 ただ一点だけ解釈が分からないところがあるのはある。
 ラストシーンなのだが、シンジがレイでもアスカでもなくマリを選んだのは良い。世界を再構築するのも分かる。だけど、なんでその結果が現代と同じ世界なのか。確か先に死んだ人間が帰らないという前提で再構築するようなことを言っていたが、この世界ってこれまで死んだ人間が構築してきた世界そのものなのではないか?そう思ってしまうと矛盾が生じてしまう。あのラストは蛇足か、あるいは第三村で新たな生き方を見せているシンジとマリが出てきほしかったかとは思える。更に細かく言うならば、『序』オープニングに出てきた綾波の伏線改修もして欲しかったところか。

 …書く事を思いつかないままつらつら書き始めたら思いのほか長めになってしまった。ここまで書いてしまうと、まだまだ個々のキャラなどネタは思い浮かべられるが、とりあえずシンジのことだけ書いてみた。
製作年 2020
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シン・ゴジラ 2016
2016日本アカデミー作品賞、監督賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞、主演男優賞(長谷川博己)、助演女優賞(石原さとみ、市川実日子)、音楽賞
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樋口真嗣
石田雄介
摩砂雪
轟木一騎(共)
市川南
山内章弘
佐藤善宏
澁澤匡哉
和田倉和利
森徹
森賢正(製)
庵野秀明(脚)
長谷川博己
竹野内豊
石原さとみ
高良健吾
松尾諭
市川実日子
余貴美子
國村隼
平泉成
柄本明
大杉漣
逢笠恵祐
赤山健太
ANI
阿部翔平
粟根まこと
石垣佑磨
石原善暢
石本径代
磯谷哲史
市オオミヤ
伊藤慎介
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伊藤竜也
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伊藤明賢
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伊藤祐輝
犬童一心
猪又太一
岩井堂聖子
岩橋道子
岩本淳
植木祥平
遠藤かおる
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大賀太郎
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大塚ヒロタ
大槻修治
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大林丈史
緒方明
小川紘司
小倉星羅
小野孝弘
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加藤厚成
加藤貴宏
金井良信
神尾佑
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川井つと
川口丈文
川嶋秀明
川瀬陽太
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木田毅祐
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小林隆
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谷口翔太
谷本峰
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水野駿太朗
水野直
水野智則
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三輪江一
村上隆文
村上航
村本明久
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森廉
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山中良弘
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吉家章人
由川信幸
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米村莉子
米元信太郎
ラブ守永
若本勇人
和田慎太郎
渡辺哲
渡部遼介
野村萬斎
★★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
シリーズ
 東京湾に無人のヨットが発見された。ヨットの中にあったのは表紙に「呉爾羅」と書かれた封筒と鶴の折り紙。それが発見された直後、東京湾に突如異変が起こった。当初海底地震かと思われたのだが、やがてそれは巨大生物によるものと発覚する。しかもその生物は東京へと上陸していき…
 日本を代表する怪獣映画
『ゴジラ』。概ねほとんどの人は、「怪獣=ゴジラ」の構図が成り立つほどにメジャーな存在である。日本ではシリーズ作として現在までに28作が作られ、確かにメジャーな怪獣映画シリーズとなっている。だが『ゴジラ FINAL WARS』(2004)が上映されてから早くも12年。最早日本では作られないものかとさえ思われたシリーズがついに復活。しかもまさかのメジャーな映画としての特撮初挑戦となる庵野秀明監督によって。
 そしてまさかの異例の大ヒット。既にこれまでの歴代ゴジラシリーズの中でもトップクラスに迫る興行収入を得ており、その勢いはまだまだ衰えない。見事な復帰作となっている。

 本作の素晴らしさはいくらでも理由を挙げることが出来るが、
一番重要なのは、この作品が庵野秀明というクリエイターによって作られているという一事に尽きるだろう
 確かに庵野秀明は世間的にはアニメーション監督として知られている。
 その名前が話題に上ったのは、『風の谷のナウシカ』(1984)であったりテレビ版「超時空要塞マクロス」であったり、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)であったりする。これらに「こんな表現が出来るアニメーターがいたのか!」と言われていたし、その後監督としても「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」で有名になった。
 ただ、庵野秀明の活動はアニメだけに留まるものではなかった。デビュー前から数多くのマニア受けする作品を作ってきており、既に好事家にはその名前はよく知られていた。中でも庵野秀明の名前を有名にしたのは
「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」という自主製作フィルムによってである。ここで主人公ハヤカワ・ケン隊員が黒縁眼鏡を着用することによって変身したウルトラマンこそが庵野秀明本人だった。あの特徴的なもじゃもじゃ髪と黒縁眼鏡のそのままの顔。体はウインドブレーカーに模様をペイントしたという安普請な格好だが、非常に練り込まれた特撮シーンと、「ウルトラマン」シリーズ諸作品に対する深いリスペクトもあり、特撮ファンのみならずプロにも親しまれた。
 その総監督と主演を務めたと言うだけあって、この人の特撮に対する愛情は半端無く、後のアニメーション制作についても、その構図や動きなど、過去の特撮作品からのオマージュをたっぷりぶち込んでいるのが特徴だった。
 そして同じくDAICONFILM時代に知り合った樋口真嗣(*10)と共同で、二〇一二年に「館長 庵野秀明 特撮博物館」を開催。失われたと思われた様々な「本物」を展示し、その追跡の執念にも舌を巻くこととなった(*11)。

 その庵野秀明と樋口真嗣という二人で新しい『ゴジラ』を作る。ある意味面白くなって当然だし、期待して然りとも言える。
 …の、かも、しれないが、正直な話を言わせてもらうと事前にはたいして期待してなかった私がいる。これは事前に「あんまり期待すまい」と心に決めていたということから。
 なんせこの両監督の前作品が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(2015)である。なんというか暗雲立ちこめる状態での『ゴジラ』であった訳だから。
 だが、そんな私の心配は全くの杞憂に終わった。どれほど安堵したことか。

 これだけ特撮に愛情を持つ二人の監督によって作られた作品。その中には、「怪獣愛」というのがとにかく溢れていた。
 その愛情を、他の関連作品との関係において語ってみよう。

 本作は「ゴジラ」という素材を用いるに当たり、オリジナル版となる五四年版のリブート(再始動)となっている。これについては異論あるまい。
 庵野秀明監督本人の言によれば、『シン・ゴジラ』の世界観は円谷英二という人物が生まれてこなかったパラレルワールドの日本であるとのこと。言うまでもないが、円谷英二はゴジラとウルトラマンの生みの親であり、この人のお陰で日本のメディアは特撮ヒーローという世界に冠する一大コンテンツを作り上げたのだから。日本の映画界に於いても特別な位置づけに叙されている。そして円谷英二と本多猪四郎が組んで作られたゴジラこそがここまでの日本映画の一つの牽引役と言っても良い。そんな人物がいなかったら、日本はどうなっていたか?
 …概ねほとんどは変わってなかっただろう。
 だが、少し変わったところがあるとすれば「もし巨大生物が現れたらどうする?」という架空の前提を国民の誰も持っていない世界ということになる。戦後日本の歩んだ道に、そのような前提がなかったとしたらどうなるか?それがゴジラのリブートの意味である。時代を変えて五四年版の世界の状況を形作ってみたのが本作の背景となる。完全に新しい巨大生物としてのゴジラを描いてみせた。
 もし本当に巨大な静物が現れたら、どうやったら撃退できるだろう?それを単純に怪獣と軍隊が戦うだけでなく、政府の対応に重点を置いて描いている。五四年版でもあった部分だが、それを拡大いて、リアリティ重視で描き、ちゃんと視点を変えて見せている。
 だから本作はきちんと五四年版のリブート作品として継承されるだけの力量を持ったものとなっている。

 一方、ゴジラを用いてその五四年版のリブートを試みたのが過去に一本存在する。
 それが橋本幸治監督の『ゴジラ』(一九八四年)である(以下「八四年版」)。

 八四年版は初期作の最終作『メカゴジラの逆襲』(本多猪四郎 一九七五年)から九年後となり、更に全く新しいゴジラの創造となったため、完全にこれは五四年版のリブートを目指したものだった。正確に言えば、八四年版は五四年版のゴジラ一作だけが過去に存在したという世界に当たり、巨大生物が一度日本に上陸した世界観で、そのため新たな生物が来襲した場合の用意がされている世界となっている。『シン・ゴジラ』との違いはそこにある。

 一度ゴジラが来ている日本と、巨大生物が存在することさえ想定すらされていない日本という違いを持つ二つの世界観を前提に考えてみると、実はこの二作品、ストーリーがとても良く似ている。

 ストーリーフローでその共通点を挙げてみよう。

 第一に冒頭では船が難破してるシーン(ちなみに本作ではそのヨットを借りた人物が牧悟郎という名前で、八四年版では漁船を調査した人物が牧吾郎という名前という共通点もある)から始まるという点。
 第二に、一度日本に上陸したゴジラが、突然海に帰っていくというシーン。八四年版では静岡に上陸し、そこにあった原発からエネルギーを吸収し、一度満足したからという説明がされ、本作では急速な進化に体内の熱量が暴走を起こしかけたため、一度海に帰ったという説明がされるが、どちらも極端に上がった体内熱量を冷却するという共通点がある。
 第三として、ゴジラ再上陸まで少し出来た時間を対ゴジラ兵器の用意に宛てているというシーンもある。八四年版ではそれがスーパーXという、あらかじめ建造中だった超兵器となるが、本作ではそんな想定がなされていなかったため、自衛隊による水際作戦となっている。
 第四として、その、当初余裕をもって立案していた計画が全部駄目になってしまう。八四年版ではスーパーXの不調によって、『シン・ゴジラ』では到底自衛隊では敵わないという強力さによって。
 第五として、戦術核兵器の使用に対して日本政府の取る態度。唯一の被爆国であるという事から、その対応は同じく、日本国内に核爆弾を落とすことだけは絶対拒否という点。八四年版ではソ連によって実際に発射されるというシーンもあったが、本作では、絶対それを阻止するために水面下での外交努力が続けられていた。いずれにせよ、ある種のカウントダウンがあって、その臨界点が達すれば核ミサイルは日本に飛んでくると言う点は同じである。
 第六として、ゴジラの撃退は誰か個人の英雄的な行為とか超兵器の投入とかではなく、諦めない数多くの人々の地道な努力によってなされているという点。八四年版は熱で、本作は冷気でという違いがあるが、それは敢えてそうしたんじゃないかな。
 あと細かすぎる部分だが、ビルの谷間に埋もれるゴジラの描写もかなり似ている。全てを上から見下ろすことが出来た一九五四年と異なり、高層ビルが乱立する現代は、ゴジラはあまりに小さすぎたところも共通項だろう。
 それ故、本作は五四年版のリブートであると同時に、八四年版のリメイク作として位置づけていいのではないかと思う。
 改めてこう見てみてみると、、八四年版って実はストーリー的には結構良かったように思う。ただ、演出の不備が多く、実際出来たものは、あまりに残念なものになってしまった。今更ながら勿体ない話である。
 八四年版の問題点を挙げるならそれこそいくらでも言える。例えば登場人物一人一人をヒーローっぽく見せようとする努力だったり、短いながらその過去とか見えてない部分を掘り下げようとしたり。タレントを起用して画面に花を添えようとしたり。現用の兵器では全く歯が立たないという前提に立って、スーパーX単体への過剰な頼り方だったり。それらがどこかボタンの掛け違いでまるで面白くない。今から考えるに、本当に見事な外れっぷりで、見たくないものばかりを選んで見せられてしまったという思いがある。
 その中でも最も残念だったのは、ゴジラの巨大感が全然損なわれてしまったと言う点だった。特に後半、新宿へと進撃したゴジラが、巨大ビル群の中を闊歩するシーンは、「何と小さくなってしまったんだゴジラ!」と思わせてしまい、スケール感の貧小さに涙したものだ。それに対して本作のゴジラは、それらのビル群に負けない巨大感があった。それは単なるゴジラの大きさではない。これまで散々ゴジラ映画で使われてきた放射熱線(昔は放射能火炎と言われていたが)の用い方を変えることによってだった。確かに本作でもゴジラはビル群に埋まってしまうかのように見える。しかし全身から放射される放射熱線は、ゴジラより高い部分にあるものを根こそぎなぎ払ってしまう。これによってゴジラの力強さだけでなく、ゴジラの巨大さが極端に上がったのだ。確かにゴジラの全長は一〇〇メートル程かも知れないが、放射熱線の届く範囲全部がゴジラの大きさである。これによってどれだけ巨大な生物なのかと思わせる。この描写は本当に見事。
 それで八四年版を観た私を含めてほとんどの人はこれを単なる「失敗作」と断じ、思考を停止してしまったのだが、少なくとも庵野監督はそうではなかったようだ。八四年版の良かった部分と悪かった部分を全部引き出し、どうすればこの悪かった部分を良くできるのかと言う事を考え続けてきたのだろう。その結果として、本作の見事な脚本が出来上がった。実に三〇年という時間をかけ、八四年版ゴジラを再評価させて見せた。見事な話である。
 故にこそ、自分の中では本作は五四年版、八四年版に続く一六年版と位置づけている。

 さて、次にもう一つ。特撮技術という点から『シン・ゴジラ』を眺めてみよう。

 『シン・ゴジラ』は徹頭徹尾「特撮」と言って良い作品ではある。それについて異論がある人はいまい。
 だが、特撮と言うにはちょっと意外な部分も多い。

 第一に「特撮」を標榜する割に、この作品は怪獣の登場する特撮パートがかなり抑え気味というのがある。
 一回目に観た時に、「怪獣映画には違いないけど、おっさんの顔のアップが多いな」というのが正直な感想でもあった。そして二回目に観た時、わざわざ時間は計らなかったが、改めてIMAXで観てみると、本当におっさんの顔アップばかりじゃないか。とか思わされてしまった。なんでIMAXの大画面でこんなのを観なきゃならん?とか…
 それはこの作品自体が「もし現代にゴジラが現れたら、どのように人は対処するか?」という部分に焦点を絞っているため、主人公は人間の側にあって、怪獣自身は脇に置いて良かったからである。暴論を言わせてもらうと、実はこの作品、ゴジラを登場させず、人間のパートのみを取り出してもちゃんと映画として成立出来るほどのドラマ的な強度を持つから(*12)。
 それだけ人間パートの方に力が入っているからこそ、最低限の特撮パートでちゃんと見せ所を作る事が出来たのだろう。
 勿論それは予算の関係というのもあるのは確か。公称では本作の製作費は全額で一〇億円だが、これは怪獣映画の予算としては、「良く作った」と言うレベルの金額だから、金食い虫の特撮パートは出来る限り抑える必要があったということもある。

 第二に、この作品に登場するゴジラは、これまでの伝統である着ぐるみではなくフルCGであるということ。樋口真嗣監督によれば、これはモーションキャプチャーによって狂言師の野村萬斎の動きをトレースしたそうだが、人が中に入っていないため、明らかにこれまでの作品とはゴジラの動きが異なる。

 これは悪い部分と良い部分がある。

 先に悪い部分を二点挙げさせてもらう。
 一点目として伝統をぶち壊したことで、ゴジラっぽくなくなってしまったということがある。中に人が入って動くから、「生きもの」ではないにせよ、リアルな動きが出来る。伝統的な着ぐるみ特撮の良さを殺してどうなる。というのが、古い特撮ファンからすると、どうしても気になってしまうところ。
 そしてCGと実写の合成があまり上手く行ってない部分が散見されること。例えば鎌倉へのゴジラ再上陸シーンは、いかにもなCGっぽさで、画面から浮きっぱなし。あのシーンではゴジラがただそこに立ってるだけで、重量感や、海から上がってきたことによる影響が演出出来てない。実写であれば波を蹴立てて上陸させられたのにとも思える(これも失敗作の烙印を押されることが多いが、一九九九年の大河原孝夫監督による『ゴジラ二〇〇〇 ミレニアム』は、少なくとも海からの登場シーンだけは凄く良かった。これは着ぐるみゴジラの最高のシーンの一つだろう)。対して『シン・ゴジラ』の第四形態は、画面から完全に浮いていた。
 その後の前半の最大の見所となる玉川を挟んでの攻防戦、いわゆるタバ作戦にも問題がある。自衛隊の攻撃による着弾が黒色火薬を用い、普通に火薬を爆発させたものを別撮りして、それを画面上でCG合成させたのだが、「現在の戦車の滑腔砲でこんな爆発は起こるはずないよなあ」とか思ってしまうと、ちょっと、う〜む。と言うところ。一番の見せ所で心を冷えさせてどうする?と言うような思いがちらほら。確かに一般的な意味でのリアリティは失われるが、過去作品のように着ぐるみに火薬仕込んで爆発させた方が見た目にも良くなったのに。

 …と言う風に思ってしまうのだが、これらは古い特撮ファンの変なこだわりが言わせる的外れな批評なので、一般レベルでは捨て置いて良かろう。
 それにそれら悪い部分を補って余りあるほどの良い部分がある。

 良い部分というのは、何より人間の肉体に縛られない動きをさせることが出来た事。
 伝統的な着ぐるみの問題は、中に人間が入っている以上、どうしても人の体格に合わせなければならないと言う点である。これがゴジラとかの人間ベースの肉体を持っている怪獣であれば色々ごまかしは利くが、四足獣はそうもいかん。人が入る場合、膝をつく格好になってしまい、四本足の生きものではあり得ない格好になってしまう。この映画の場合はゴジラの第二形態(いわゆる蒲田くん)がまさしく伝統的な四足獣に則った造形をしている。これが仮に中に人が入っていたなら、あんな軽快な動きはできないし、格好も相当不自然になってしまっただろう。あれはCGで処理したからこそ出来た造形なのだ。
 そして細かいところだが、ゴジラの転倒シーンや起き上がるシーンも、膝から崩れ落ちたり膝を踏ん張って立ち上がる必要性がないため、より不気味な怪獣っぽい動きを可能にさせた。人間の体格という縛りが無くなると、これだけ自由に動けると言う事をちゃんと示すことが出来た。

 そしてゴジラのビームも全身CGだから自然に出来る。これまでの例えばゴジラの放射性火炎なんかは実写に光学合成をするのがこれまで一般的だったが、今回は火炎とビームを混合して吐くため、その合成は結構面倒くさいし、自然にならない。CGだからこそスムーズな演出が可能になったし、ゴジラの背鰭からのビーム連射シーンもCGだからこその見栄え。ゴジラがあり得ない角度に顔を傾けて光線を発射するのなんて実写じゃ基本的に無理。
 とにかくゴジラ単体としてその可動範囲はCGだからこそ出来ることが多く、ゴジラの動きの幅も大きく広がっていた。いかにも人間が入ってますという造形ではなく、生物としての怪獣を描けるように出来たのはかなり大きな意味合いを持つ。

 制作側としても、着ぐるみ制作、不断のメンテナンス、中の人の体調など不安定要素に患わされることはないし、その点に関しては出費も抑えられることもあって、これは致し方ないところだったか。

 そんなこともあって、いくつもの不満はあるにせよ、怪獣パートに関しては許容範囲。

 それに、怪獣の方をCGにすることによって、もう一つ大切な特撮パートに力を注ぐことが出来た。
 怪獣映画を観る際、何を期待するかというと、第一には勿論怪獣の姿を観ること。複数の怪獣が登場して戦うならば、その戦いのシーンが一番の見所になるだろうけど、怪獣本体が最も魅力であるということは疑いはない。
 ただ特撮の基本であり、醍醐味とはそれに留まるものではない。古来映画作りと共に特殊撮影は始まっている(特撮の祖とも言えるジョルジュ・メリエスは、映画撮影中で偶然空いた空白により、そこにあった馬車が瞬時に消えたようなフィルムを観て、そこから特撮を考案したとも言われている)。
 特撮の方向性として、一つには、現実にはあり得ない光景を作り出すことがあるが、逆に作り物と思わせないようなリアリティを作りだし、それを撮影するのも大切な方向性である(「特撮の神様」円谷英二が最初に目指したのもそこだった)。リアルな現実をフィルムに定着させる事自体が特撮である。そしてあたかも本当にそれが起こっているかのように視聴者に錯覚させられた時、特撮とは完成の域をみせることになる。
 この『シン・ゴジラ』はそちらの方にかなり重点を置いて作られている。
 東京の下町を、あたかも本物のように見せること、そこで怪獣が上陸したら、どんな混乱が起きるのか、あり得ないパニックをリアルに撮影する。特撮スタッフの腕の見せ所が実は満載の作品でもあるのだ。
 ゴジラによる町やビルの破壊シーンも優れたものだが、あり得ない事が今現実に起こっていると錯覚させるような撮影こそが本作を特徴づけてもいる。
 例えばそれは、人の表情にも出てくる。ちょっとわざとらしさはあるにせよ、怪獣出現によって体は逃げていながら表情がにやけているような人は見あたらなかったし、流石アニメ畑を経験している監督だけに、パソコンの画面を凝視していたキャラが顔を上げた瞬間の表情で何事かが起こっていることを演出出来ているのは流石である(これは映画畑や特撮畑では培われない。何故なら、アニメを観ている人だったら、その表情をした人はこう言う反応を見せているのだというテンプレートが存在し、そういう暗黙の了解を持っているから)。これも又特撮でもある。
 そんな技術がふんだんに使われているため、特撮というのにもかなり配慮が行き届いているのがこの作品の楽しさだろう。
 結果として、『シン・ゴジラ』は怪獣映画として優れているということもあるが、特撮作品としてもちゃんと優れたものを残した作品だと言う事が出来る
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
2012日本アカデミーアニメーション映画賞
2012日本映画プロフェッショナル大賞アニメーション監督賞
2012HIHOはくさい映画賞第3位
<A> <楽>
大月俊倫
庵野秀明(製)
庵野秀明(脚)
緒方恵美
林原めぐみ
宮村優子
坂本真綾
三石琴乃
山口由里子
石田彰
立木文彦
清川元夢
長沢美樹
子安武人
優希比呂
麦人
大塚明夫
沢城みゆき
大原さやか
伊瀬茉莉也
勝杏里
山崎和佳奈
儀武ゆう子
真理子
宮崎寛務
手塚ヒロミチ
野田順子
斉藤佑圭
小野塚貴志
合田慎二郎
岩崎洋介
★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 エヴァンゲリオン初号機に乗り、使徒から綾波を救ったはずのシンジ。だが彼が次に目覚めた時、世界は14年の年月が流れていることを知らされる。それ以外の何も情報が与えられないまま、自分の居場所を求め、ネルフへと戻るのだが…
 10年に1本の作品として一世を風靡した感のあるTV版
「新世紀エヴァンゲリオン」は、後半の投げっぱなしについても有名な作品。結果、その続編を映画で作ることで収拾を図ったが、その映画版自体がもはや映画の体裁を取っておらず、ファンは皆呆然とした表情で劇場を後にしたものだ。これらもひっくるめて話題作と言えたのだろう。
 その中途半端な劇場版にケリをつけるべく、10年を経て新編として作られた新劇場版。その一作目はTV版のリメイクとして、二作目は積極的にTV版を肯定的にとらえることによって、古くからのファンに新しいファンを重ねることに成功していった。
 特に2作目の出来は
90年代作品をきちんと新世紀に合わせてくれたことで評価は高い。2作目を観終えた時に友人達とこの作品の善し悪しを語り合ったのは良い思い出でもある。あの時はここまで変わってしまった「エヴァ」についての善し悪しを延々と語り、これが新世紀における「エヴァ」の新解釈。それでいいではないか。そんな結構肯定的な意見でまとまったような思い出がある。
 それで3作目であるが…
 何というか、
「流石庵野」と賞賛すべきか、それとも「またやらかしたな」と言うべきか…
 確かにこの鬱展開こそ
「エヴァ」ではあるのだ。庵野監督が作家性をむき出しにして、人間否定とドラマツルギーそのものを破壊しようとして作った、本当にこれこそ「エヴァ」としか言いようがない。
 それを肯定するか否定するかは個々によるものだと思うのだが、少なくとも私はこの作品ははっきり
「嫌いだ」と言ってしまおう(ネットでは、この作品を肯定する人のことを称し「この人を受け入れられるのは私しかないと思い込むDV夫の妻みたいだ」という評もあったが、それはそれで納得)
 2作目であそこまで盛り上げ、主人公の熱い思いがヒロインを救った!と思わせておいて、ちゃぶ台をひっくり返す。一人の人間を救おうという思いで自分がやったことが、実は全てを滅ぼす結果となったという事を
「どうだ!」と見せられた身として、気分がいいものじゃないし、折角肯定的に作りなおした物語を元の鬱展開に持っていくのかとうんざりした気分になったし、物語もとにかく薄い。30分で終わる物語を無理矢理3倍に希釈したようなかったるい展開にもうんざりである。演出だけは良いので、そこそこ観られるのが余計に滅入る。
 物語というか、設定のいい加減さにもうんざり。
 それはもういくらでも言える。まず今回ネルフに対抗するヴィレ組織というのが登場する訳だが、それが何故フォース・インパクト直前まで何もしなかったのかが全くわからない。ネルフに敵対するなら、ミサイル一発撃てばあんなジジイ二人と脳だけのゼーレしかいない設備は簡単に沈黙させられたはずなんじゃないか?そもそもシンジを回収した時点で全てを語っていればフォース・インパクトなんて起こってなかったはず。それにシンジの親父を始め、ネルフの面々も何も言わず、結局それが本気でシャレにならない事態になる訳だし、カヲルと二人で動かす13号機がカヲルが何もしなくてもシンジだけで動かせてしまう(シンジのシンクロ率は0になったとミサトが言ってたのはどうなった?)。

 …という個人的な好き嫌いはともかくとして、この作品の位置づけというものを少し考えてみたい。
 まず第一に
庵野は本当に後退したのか?あるいは10年前と全く変わらないのか?
 そう考えてみると、決してそうではなく、きちんと成長もしているのだろうと思える。その理由として、
はっきりこの作品を「続く」としていること。本作単体では単なる鬱アニメだが、希望を最後にちゃんと残せるようになったという事だけでも評価したい。実際四作目を観ないことにははっきりしたことは言えないが、おそらくは次回作は胸の空くようなアクションの連続になって、大いに溜飲を下げられるようなものになってくれるだろう。それを感じさせてくれただけで良しとしたい。
 仮に全く庵野が成長してなかったのならば、これを「完結編」として全く悪びれずに「完」の文字を付けただろうから。それをせずに、ラストに次回予告をやってくれただけでも成長と言える。

 第二に、それでは何故本編で終了させなかったのか。この程度の物語であれば前半で終わらせ、後半に活劇を持ってきてすっきりと終わらせられたはず。それだったら前半の感触が悪くとも、後半で溜飲を下げさせて後味をいい具合に演出させることが出来たはず(もちろんこれは次回作がハッピーエンドに終わるという前提あってのことだが)。
 勝手に考えるに、それはカラーという製作会社を立ち上げた庵野秀明の企業人としての成長とも言える。元々「エヴァ」を作っていたガイナックスから離れた庵野はカラー(khala)という製作会社を立ち上げ、本シリーズを作り始めた訳だが、この会社を儲けさせようという思いがそこにはあったようでもある。
 前2作のディスクの売り上げはとても好調で、TVで放映すると視聴率もとれる事が分かっていたので、たとえば本作をどんなに無茶苦茶に作ったとしても客の入りは確保できる(事実2012年の邦画興行成績は本作がトップ取るのは確定的)。こんなドル箱作品を一本だけで終わらせてしまうのは勿体ない。どうせならもう一本!という色気を出してしまったように思える。
 これだけ鬱展開を続けておいて、次回作で再度ちゃぶ台返しをやってやれば、4作目の客入りは絶対確保できる。
 そもそも序破急で三作作るはずだったのを、もう一作作ることになったので、どうせなら一本は自分自身で好きなように作っておこう。どんなネガティブなものを作ったとしても客は入る。それでどんなに評判を落としたとしても、もう一本できっちり回収してやる。そんなような
大人の事情が垣間見えたりもする。
 それで多分次の作品は庵野は後退し、鶴巻監督あたりに全てを任せてちゃんと最終回を作ってくれるんだろう。と言うか、そうでなかったら
温厚な私でもいい加減怒るよ
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 2009
2009日本アカデミーアニメーション作品賞
<A> <楽>
鶴巻和哉
摩砂雪(共)
庵野秀明(脚)
緒方恵美
林原めぐみ
宮村優子
坂本真綾
三石琴乃
山口由里子
山寺宏一
石田彰
立木文彦
清川元夢
長沢美樹
子安武人
優希比呂
関智一
岩永哲哉
岩男潤子
麦人
★★★☆
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 人類に対する謎の敵“使徒”に対し、唯一有効な兵器ヱヴァンゲリヲン。選ばれた少年と少女しか乗ることが出来ないこのヱヴァンゲリヲンに、嫌々ながら乗らされている碇シンジ。だが、彼の周囲の状況は次々と変わっていく。その中で、徐々に心の開き方を学んでいくシンジだったが…
 このテレビアニメが放映されてから早10年以上が経過。色々な意味で以降のアニメに影響を与えたアニメで、現在のアニメブームと言うのも、その元をたどれば本作に行きつく。ハード面、ソフト(メンタル)面双方において大変な影響を与えてくれた作品だが、ここではソフト面については語らないでおこう。
 先ずこの作品、単体としての出来はよかった。
予想外と言っても良い。
 前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』でわたし自身が
「既に一回やったことをなぞるだけでは映画にした意味がないだろ?」「次回作は色々演出も凝ってくれることを期待しておきたい」なんて事を書いたのだが、少なくとも、私が書いたそのまんまを本当にクリアしてくれており、意外な事で喜ばせてもらったのだが、それでは、これが本当に観たかったものか?と自分自身に問いかけてみると、ちょっと微妙ではある。
 一つ言えるのは、
「やっぱり一回りという年月は長かった」ということだろうか。
 すでにTV版の放映から14年も経過。受け手の嗜好も大きく変わっており、本作は現代に合わせ大きく様変わりを果たした。
 その前に1作目として『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が既に公開されているが、この作品の基本路線はTV版とほとんど全く変わっておらず、その分安心した。と言うか、物足りなさを感じたものだが、二作目である本作は、物語を大きく変えてくれた。TV版をベースに新カットを加えた1作目とは異なり、本作はその大部分が新作カット。これによって本来持っていた物語さえも大きくて直しを入れることとなった。少なくともこの点、一作目から大きく一歩を踏み出した作品にはなっている。

 具体的に言えば、
主人公のポジティヴ化と、周囲の女性キャラの素直化が図られていると言う点だろう。そのため、見応えがあるが、一方では見やすい作品になっている。
 これはプラスの部分もあるが、マイナスの部分もある。

 オリジナルのTV版は殻にこもった男女が自分を守るために他者を傷つけていく鬱展開が見所だった。こんなに暗い作品なのに、それでも見せる力を持っていた作品でもあったのだ。リアルな感情のぶつけ合いを描き、それを受け止める。そう言った時代だったのだ。
 とはいえ、これをあくまで90年代という時代が成したことであり、それをそのまま現代に持っていくのは無理がある。
 そして起こったのは、主人公が気の優しい面のあるヒーローになったこと、主人公に好意を持っていることをどこかに匂わせるヒロイン達という構図が出来上がってしまった。これは
非常に現代的ではあるが、同時にもの凄いステロタイプの、あまりにありがちな設定じゃないか?と言う事で、少々唖然。
 観ていて鬱になるのが分かっているのに、観なくては気が済まない。というぐいぐい引っ張っていく物語ではなく、観たまんまを受け止めていればいい物語になった。やはり10年という時代の溝がなした技なのだろう。

 その「軽さ」を受け入れられるかどうかで、本作の評価は決まる。概ね現代の風潮に合致しているので、その「軽さ」を素直によく受け止める人の方が多かろうが、真っ正面からテーマに取り組んだ「重い」ヱヴァを観たがっていた人にとっては、寂しい作品になってしまったのでは?

 私にとっては、
「良くできた作品」と褒めてやりたい一方、「それで良いのか?」と疑問も付けたくなるところで、やや評価は複雑。

 いずれにせよ、3作目を観た時に、はっきりこの作品については書かせていただこう。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 2007
2007日本アカデミーアニメーション作品賞
2008CDV-Jマイベストアニメ4位
<A> <楽>
鶴巻和哉
摩砂雪(共)
庵野秀明(脚)
緒方恵美
三石琴乃
山口由里子
林原めぐみ
立木文彦
清川元夢
結城比呂
長沢美樹
子安武人
麦人
関智一
岩永哲哉
岩男潤子
石田彰
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 セカンド・インパクトと呼ばれる天変地異により都市は海に沈み、新しい秩序が生まれていた。それから14年後、父に呼ばれ第三新東京市に呼ばれた少年碇シンジ。だがそこに待っていたのは、巨大な生物によって襲われている町だった。その中、葛城ミサトという女性に連れられていったシンジがみたのは、冷酷な父と、エヴァンゲリオンと言われる巨大ロボットだった。しかもそのロボットに乗って戦えといきなり言われてしまう…
 
1995年。これはおそらくアニメ史において大変重要な意味を持つ年である。この年、しばらくぶりにアニメ製作会社ガイナックスによって投入された一本のテレビアニメ作品。これが与えた影響は非常に大きかった。「機動戦士ガンダム」以来10年ぶりにアニメが社会現象にまでなり、ここで数多くのアニメファンを作り出す。低迷を続ける日本経済に活を入れたとまで当時は言われたものだ。
 ただ一方、この作品が果たした役割はなにも新規のアニメファンを作っただけではない。かつて「オタク」と呼ばれ、
その蔑称に耐えきれず、卒業宣言を出した数多くの古いアニメファンを再びこの地平に引き戻す役割も担ったのである。
 
「オタクは卒業出来ない。ただできるのは封印することのみ」という言葉がこの当時言われた。封印は解かれる運命にある。と言う意味なのだが、エヴァによってどれだけの数の人間がその封印を解いてしまったのか知れない。見事にそれで復帰した人間がここにもいる。
 正直これを最初に観た時の衝撃は凄かった。勿論物語の良さや期待感、奥深く見える設定、数多くの小説や映画の引用などもそうだが、何より演出の凄さ。私にとってこの作品はこれに尽きる。見捨てたはずのアニメってこんな面白くなっていたんだな。その感覚が結局は再び私にかつての道を踏ませる結果となった…
当時と較べて痛々しさは全然ないけどね
 これまでにやり尽くされたと思っていたアニメの演出も、切り口を変えたり、実写からのフィードバックを行うことで、ここまで丁寧に、見栄えするように出来るんだ!という新鮮な感動だった。これは偏に庵野秀行という一人の監督の持つイメージと、新しいものを作り出そうとするスタッフ達の努力の結晶だとは言える。たとえ金は遣わなくても、バンクや引きの演出によって観る側を決して飽きさせない実に素晴らしい演出がなされていたものだ。更に本作はサブカルチャのけん引役も果たした。これを観て同人誌(評論、漫画双方に)を書くことに目覚めた人間も多く、単体の作品としてだけでなく、周辺の部分に多くの影響を与え、その周辺のムーブメントが新しいブームを作り出していった。
 ただ、全てを統括する庵野監督は話が進むに連れやる気を失っていき、その後の劇場版『THE END OF EVANGELION』(1997)に至っては、何が何だか分からないだけの作品になってしまった。
 そして約10年が経過。庵野監督の
「これを越さないと新しい一歩が踏み出せない」という思いにより新シリーズとして、劇場作品として作られることとなった。その第1作が本作。
 で、物語としてはTVシリーズの前半部分を忠実にリメイク。本作の存在位置は
それ以上でもそれ以下でもない。それは分かっているんだが、はっきり言えば、かなりがっかりした
 いや、それは観る前から分かってはいたのだ。予告を観てもそれ以上のものはないし、がっかりするいわれはないはず。逆にこれだけ綺麗に作られていることに感謝すべきなんだと思う。だけどなんだろう?この失望感は。いや、それ以前に私は一体何を期待していたのだ?
 改めてそれを考えると、私が期待していたのは、
この新世紀に見合った新しい演出だったんじゃないか。と今は思う。
 確かにテレビシリーズでの演出は際だって良く、何度も新鮮な驚きを与えてくれた。しかしそれはあくまで10年以上も前の話。
既に一回やったことをなぞるだけでは映画にした意味がないだろ?
 しかもテレビの演出の一つには期待感があったと思うが、それは30分という時間を丁寧に用いて「次は何が起こるんだろう?」という思いを抱かせてくれたから。しかし、この作品にその期待感は全然無い。凝縮しているはずのストーリーは確かに破綻はないのだが、全然期待感を持たせてくれない。あるのは「ああ、あのシーンだな。ああ、綺麗になってるな」という程度。劇場版として作るんだったら、劇場用の演出のサプライズがあっても良かっただろう。綺麗にしただけではサプライズにはならんのだよ。
 結局1時間半、見知った話が延々と続くばかりという結果。
 中にはいくつか確かに新しいものもあるにはある。だけど、それは“既知感”であり“期待感”にまで昇華されてはくれなかった。
 まあ、それでも画は綺麗になってるし、次回作はテレビシリーズとは異なった形で作られる事が暗示されているのは良かったけど。次回作は色々演出も凝ってくれることを期待しておきたい。

 強いて言えば、本作の位置づけとは、1時間半に及ぶ長大な予告編だったと言うことで…あ、そう考えてみると本作の素晴らしさが見えてきたぞ。
これまで誰もやったことのない長大な予告編を作った。これだけでも賞賛出来るのではないだろうか?
トップをねらえ! 劇場版 2006
<A> <楽>
岡田斗司夫(脚)
日高のり子
佐久間レイ
川村万梨阿
若本規夫
大木民夫
渕崎ゆり子
勝生真沙子
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 絵コンテは樋口真嗣
CUTIE HONEY キューティ・ハニー 2003
2004文春きいちご賞第8位
<A> <楽>
加賀義二
加藤鉄也
甘木モリオ
川端基夫(製)
高橋留美
庵野秀明(脚)
佐藤江梨子
市川実日子
村上淳
及川光博
小日向しえ
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新谷真弓
手塚とおる
篠井英介
加瀬亮
岩松了
松尾スズキ
嶋田久作
松田龍平
京本政樹
吉田日出子
★★★
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原作:永井豪
 ドジな派遣OLの如月ハニー(佐藤江梨子)。実は彼女の正体は、科学者である父の如月博士により改造を受けたアンドロイドのキューティー・ハニーなのだ!そのハニーの秘密である“Iシステム”を巡り、悪の組織パンサー・クローが動き出す。警視庁の凄腕刑事でありながら、パンサー・クローの活動を止められずに左遷された秋夏子(市川実日子)、謎の新聞記者早見青児(村上淳)と共に、パンサー・クローへと立ち向かうハニーの活躍を描く。
 監督の庵野秀明はこれまでも多くのアニメや実写を手がけてきたが、その殆どの作品で実写や漫画的な演出をアニメに取り入れてきた。特に本作は予告からしてその融合が見られ、結構楽しみにしてきた。
 まあ、確かに手法的な点で言えば、凄いものがあった。実写の止め絵を用いてそれを縦横無尽に使う手法と言い、これまでアニメでしか出来なかった演出を実写に取り込んでみたり。
ようやく監督の望む映像を実写が追いついてきたって感がある。オープニング部の映像は、確かにこれまでにない斬新な演出と、馬鹿げた派手な展開に目を見張らせてくれる。
 ただ、その演出が結局同じ事の繰り返しになってしまったため、
しばらくすると飽きる。特に後半を見慣れてしまうってのは問題あり。斬新な演出を考えるならば、後半にもう一つ取っておくべきだったのだ。サービス精神満点でオープニングで全部出してしまったのがあかん。
 それにストーリーがあまりに陳腐…破綻こそしてないけど、ハニーが単に明るいだけが取り柄のお馬鹿なキャラクターにしてしまったため、彼女が語る「愛」ってのがどうにも薄っぺらいものに思えてしまう。単に友達を信じるか裏切るか。と言うだけではやっぱり弱い。どれほどベタでも、ハニーには悲壮な過去があることを強調すべきだったのではないか?
 勝手な私の考えだけど、庵野監督って、こういった薄っぺらい「愛」を語らせるのは、これまで随分否定的だったように思えていた。彼の作品を観てると、人に対する「愛」という感情は、非常にドライ…というか駆け引きのみに用いられる部分が強く、むしろエゴ。自己愛の方に重きが置かれていたと思う。そんな彼が博愛を持ち出してもなあ、やっぱり薄っぺらくなってしまう…
結婚を転機に意識が変わったのかな?この作品が過渡期なのかも知れない。
 ただ、良いところもある。その一番はやはりキャラクター
(それしかないとも言える)。佐藤江梨子の演技はわざとらしいし、アクション向きではないがけど、それが漫画っぽくて映えてるし(不完全だけど、一応キャラが変わると声色も変えてる)、漫画チックな他のキャラ達も、そこそこ映えてた。凄かったのは及川光博か。あんな無茶な役を嬉々として演じてる。この人に関しては、どんな派手な演出を盛り込んでも、否、派手であればあるほど役が映えるという希有な存在だ。カメオ出演者は色々遊びが入っていて楽しめたし。
 
僅か90分程度で飽きさせるってのが本作の最大の問題点だろう。
流星課長 2002
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式日 −SHIKI-JITSU- 1999
2000東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞(庵野秀明)
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鈴木敏夫
徳間康快
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ラブ&ポップ 1998
1998日本映画プロフェッショナル大賞ベスト3
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大月俊倫
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THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に 1997
1997日本アカデミー話題賞
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鶴巻和哉
摩砂雪(共)
角川歴彦
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 全ての使徒を倒した。だが、自我崩壊を起こし、寝たきりになったアスカと自らの殻に閉じこもるシンジ。エヴァ不稼働を狙うかのように国連はネルフ接収にかかった。次々に殺されていくネルフの職員達。復活し、再びエヴァを駆るアスカも同じエヴァ同士の激しい戦いの末、力尽きる。それを見せつけられ、絶叫するシンジを中心として、人類補完計画が、発動する。
 社会現象とまで言われ、一般社会にさえ様々な破門を投げかけた問題アニメの劇場版。
の二作目。二作目、と言うことは、つまり、一作では収まりきれなかった。と言うより、監督がやる気なくて途中で投げ出したというのが真相らしい。
 何というか、監督のやる気のなさがひしひしと伝わってくるかのような作品である。
 盛り上げるだけ盛り上げておいて、最初の劇場版で一旦落とす。そして二回目の劇場公開でとどめを刺す。これはひょっとして監督の確信犯なのかも知れない。人気者である自分が納得できず、嫌われようとしているとか。あるいは、監督自身の内面の変化なのか。
 TV版に見られた、何をしても悪い方向にしか向かわないというシンジの行動が、今度は本当に心地良い場所に連れてこられた時、それを拒絶する。
 この部分、ひょっとして監督が、それまでの引きこもり化を捨て、現実に向き直りかけたとも解釈は出来るだろう。
  実際、劇中に見られたスクリーンから観客席を見渡すシーンなど、
「お前ら、分かってるのか。これはフィクションなんだぞ。たかがアニメに過ぎないんだ」と言うメッセージにさえ取れてしまう。そこに一瞬の全てをかけるマニアもいるのだ(あんまり近寄りたくないけど、その気持ちは分からなくもない)
 画面構成としては、流石樋口真嗣が作画監督やってるだけあって質は高いものの、肝心なストーリーは訳が分からず、途中でいい加減なトラウマの話に持っていき、最後も訳分からないまま終わってしまった。
 ある一定の年代の人間が見るのと、思春期程度の人間が見るのとでは全然評価が変わるだろう、とは思う。
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生 1997
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鶴巻和哉
摩砂雪(共)
角川歴彦
池口頌夫
山賀博之
倉益琢眞
中山晴喜
高橋豊
石川光久(製)
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庵野秀明(脚)
緒方恵美
三石琴乃
山口由里子
林原めぐみ
宮村優子
立木文彦
清川元夢
結城比呂
長沢美樹
子安武人
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岩男潤子
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製作年 1997
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帰ってきたウルトラマン
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製作年 1983
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