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2018 | プーと大人になった僕 監督 | ||||||||
神の日曜日 製作総指揮 | |||||||||
2017 | |||||||||
2016 | かごの中の瞳 監督・製作・脚本 | ||||||||
2015 | |||||||||
2014 |
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2013 | ワールド・ウォー Z 監督・製作総指揮 | ||||||||
2012 | ディス/コネクト 製作総指揮 | ||||||||
2011 | マシンガン・プリーチャー 監督・製作 | ||||||||
2010 | |||||||||
2009 | |||||||||
2008 | 007 慰めの報酬 監督 | ||||||||
2007 | 君のためなら千回でも 監督 | ||||||||
2006 | 主人公は僕だった 監督 | ||||||||
2005 | ステイ 監督 | ||||||||
スウェー★ニョ 製作 | |||||||||
2004 | ネバーランド 監督 | ||||||||
2003 | |||||||||
2002 | |||||||||
2001 | チョコレート 監督 | ||||||||
2000 | |||||||||
1999 | |||||||||
1998 | |||||||||
1997 | |||||||||
1996 | |||||||||
1995 | |||||||||
1994 | |||||||||
1993 | |||||||||
1992 | |||||||||
1991 | |||||||||
1990 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | |||||||||
1985 | |||||||||
1984 | |||||||||
1983 | |||||||||
1982 | |||||||||
1981 | |||||||||
1980 | |||||||||
1979 | |||||||||
1978 | |||||||||
1977 | |||||||||
1976 | |||||||||
1975 | |||||||||
1974 | |||||||||
1973 | |||||||||
1972 | |||||||||
1971 | |||||||||
1970 | |||||||||
1969 | 11'30 ウルムで誕生 |
プーと大人になった僕 2018 | |||||||||||||||||||||||||||
2018米アカデミー視覚効果賞 | |||||||||||||||||||||||||||
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100エーカーの森でくまのプー達と一緒に遊んでいたクリストファー・ロビンは、寄宿舎に入るために森から出ていった。そして森に帰ることなく成長し、イヴリン(アトウェル)と結婚し、マデリンという娘も出来ていた。ただ会社の仕事が忙しく、家族ともすれ違い気味。そんなある週末。家族とともに故郷の家に帰って過ごすはずが、仕事に追われて家族だけを送り出し、自分は会社で仕事をしていた。そして家の近くの公園で休んでいると、不意に名前を呼ばれ… A・A・ミルンの描いた童話「くまのプーさん」および「プー横町にたった家」に登場する唯一の人間クリストファー・ロビンが成長したらどうなるか?という観点に立って作られた作品となる。 ちなみにミルンが「くまのプーさん」を描いたのは、息子のクリストファーに読み聞かせるためだったそうで、本来は家で読むためだけの短いエピソードの断片だけの作品だった。ただ、雑誌の編集をしていたミルンはそれを雑誌に載せたところ大反響を引き起こし、再編集して本にまとめたという経緯を持つ。 ただ、自身の名前が絵本の主人公になってしまったクリストファーは、後にマスコミから追われ続けてすっかりやさぐれてしまって、家族と絶縁状態が長く続いたとも言われている(『ゴーン・ガール』(2014)のエイミーはおそらくクリストファーがモデル)。 だからクリストファー・ロビンというのは実在の人物なのだが、本作はそんな本物のクリストファーを追うのではなく、あくまで絵本の中のクリストファーの後の話という位置づけとされている。 絵本の中、なんとなく100エーカーの森を去ってしまったロビンで終わる物語の後がどうなったのか。子どもは誰しもそれを考える。それも含めて童話を読むという行為となる訳だが、実際にリアルな話として人間社会に帰った主人公がどうなるのかというと、基本的には普通の人生を歩むことになるだろう。本人にとってはそれはそれで幸せなことかも知れないが、端で見ている人にとっては、そんな生活はもどかしく感じてしまう。 そんな、軽く苛つくような生活を送っていたクリストファーに、もし昔の仲間たちが会いに来たら? そこが本作の原点となる。 実はこのパターンは既にスピルバーグがピーターパンを題材に『フック』(1991)でやっている。とても派手なスペクタクル作品だったが、流石に「くまのプーさん」ではそう言う激しいアクションはなく、落ち着いた物語として作られてはいる。 疲れたお父さんをマクレガーは上手く演じていたし、プーたち100エーカーの森の住民達も、まさにアニメそのもののたたずまい。たいした事件でもないことを大騒ぎして、気がついたらいつもの生活に戻るというエピソードも「くまのプーさん」らしくて良し。 CGで作られたプーたちも自然でぬいぐるみっぽさに溢れて、こういうのが良かったという安心感もある。 ただ、落ち着きすぎていて、予想を超える部分が全くない。期待したとおりの展開で、期待したとおりに終わる。そんな感じの物語となってしまった。 良い作品なんだけど、なんか食い応えがないというか、消化不良になってしまう感がある。 |
ワールド・ウォー Z 2013 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
2013放送映画批評家協会アクション映画男優賞(ピット)、SF/ホラー映画賞 2013MTVムービー・アワード恐怖演技賞(ピット) |
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007 慰めの報酬 2008 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008英アカデミー音響賞、特殊視覚効果賞 2008放送映画批評家協会歌曲賞、アクション映画賞 2008全米年間興行成績第10位 2009サターン作品賞/アクション、アドベンチャー、サスペンス、助演女優賞(デンチ、キュリレンコ) |
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何者かによりヴェスパーを殺されたボンドは復讐を誓い、MI5のバックアップの上、真相究明に乗り出す。かつてヴェスパーを操っていたミスター・ホワイトから世界的な巨大な組織があることを聞き出したボンドは、ホワイトの隠し口座のあるハイチへと向かう。そこで謎めいた美女カミーユ(キュリレンコ)と出会い、彼女を通して組織の幹部ドミニク・グリーン(アマルリック)と出会う… 今回のボンドの移動はイタリア〜ロンドン〜ハイチ〜オーストリア〜イタリア〜南米〜ロシア。移動範囲は地球を1周と2/3。距離にすると10万キロ弱。 前作『カジノ・ロワイヤル』で鮮烈なデビューを果たしたクレイグ・ボンド。その二作目に当たる本作は、良い意味につけ悪い意味につけ、色々な意味で異色作に仕上がった。 異色作と言うが、ところで007シリーズにおける特徴というのはなんだろう?これまでシリーズを重ねてきて、いくつも考えられるが、その中で極めて大きな要素だったのは、ボンドは常にポジティヴ思考の持ち主であった。という点が大きかったように思える。どんな危機に際しても、命ギリギリのがれ、その後ひょうきんな表情でボンドガールに笑って余裕しゃくしゃくぶりを見せる。徹底して人生を楽しむ前向きな姿勢こそがボンドの信条だった。それゆえにボンドは過去を振り返ることはなく、一作ごとに新しい恋に全力投球してる。これは一種のマッチョさと言えるかも知れない。こう言っては悪いかもしれないが、古いタイプの大人の男の理想像がそこにはあった。 ところが今回のクレイグ・ボンドは全く逆で、今回の話は『カジノ・ロワイヤル』の直後から開始され、前作で亡くなったヴェスパーのことを思い出しては悲嘆に暮れるし、一方では容赦なく人を殺す。さらにはトレードマークのマティーニの味さえも意識しないまま、楽しむのではなくただ酔うためにだけ酒をあおる。更に絶望的な状況で死を覚悟するシーンまである。ここから見えるのは余裕のなさで、極端に叙情的な部分と極端に非情な部分が混在している。叙情性も非情さもこれまでのボンドにはなかったキャラクタ性となっていて、本当に全く新しいボンドであることを印象づけてくれた。だが、少なくとも、これだけ性格を変えてながら、やっぱりこれがボンドだと思わせてくれるキャラクタ描写は確かにうまい。 おそらくこう言った二面性を持つキャラ描写は脚本に入っているハギスのお蔭だろう。この人の描く作品の登場人物はことごとく二面性を強調したものだから。だから本作はクレイグ・ボンドというよりも、ハギス・ボンドと言うべきかもしれない。これまでのボンド像を一旦解体し、新しいボンド像をしっかり作り上げてくれた。 他にもボンドカーが出ないとか、今回の敵ドミニクは単なるビジネスマンとしか感じられないとか、最後までボンドガールと結ばれないとか、明らかにMI5とCIAが対立構造にあるとか、いくつか気になるところもあるが、アクションや派手さ、世界中を飛び回るボンドの雄姿など、シリーズ中でも屈指の描写が映えるので、アクション映画としては充分楽しめた。楽しみ方としては、007と言うよりもジェイソン・ボーン・シリーズっぽい印象もあるけど。 ところで本作で少しずつ明らかになってきたが、どうやら国際テロ組織には黒幕が存在してそうだ。次回以降でその姿は明らかにされるのだろうか? 蛇足だけど、それ絡みで一つだけやって欲しかった。というシーンがあり。ラストシーン3秒で良い。猫(出来れば白いチンチラ)を抱いた、顔を見せない男を出してくれれば…これだけで原作及びシリーズファンは大喜びするだろうに。そのくらいのサービスが最後に欲しかった。 |
主人公は僕だった 2006 | |||||||||||||||||||||||
2006ゴールデン・グローブ男優賞(フェレル) 2006放送映画批評家協会助演女優賞(トンプソン)、脚本賞 2006サターンファンタジー映画賞、主演男優賞(フェレル)、助演女優賞(トンプソン)、脚本賞 2006ナショナル・ボード・オブ・レビューオリジナル脚本賞 2006アメリカ脚本家組合オリジナル脚本賞 |
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国税庁の会計検査官ハロルド・クリック(フェレル)は、ある時頭にナレーションのような女性の声が聞こえてきた。それはなんと彼の行動を全て言い当てているのだ。そんな時、「このささいな行為が死を招こうとは、彼は知るよしもなかった」というフレーズを聞いてしまう。その頃、ベストセラー作家のカレン・アイフル(トンプソン)は、平凡な男に起こった事件を題材に新作の小説を書き始めていた。煮つまっていた彼女は主人公をラストで殺す事にしたのだが… 特撮がないラブコメ風SF。自分自身の一生が実は誰かの書いた小説の主人公であるというワンアイディアを拡大し、小説家はどこまで人を描けるのか。とか、超常現象と出会った時の普通の人間の反応とか、細かいところに手を抜かない作品で、そして死を前にした時、人はこれまでの自分自身を振り返り、これから「どう生きるか」「どう死ぬか」という死生観まで踏み込んだSF小品としては上手く作られた作品でもある。 そしてこういう作品だからこそ、キャラクタの善し悪しが作品を決めることになるのだが、そう言う意味では本作はフェレルのために作られたような作品とも言える。なんせコメディアンでありながらしっかりした演技が出来るなかなか貴重な人材だし。そして脇を固めるヴェテラン陣がしっかりしているので、しっとりしたドラマとしてもかなり質が高い。 フォースター監督はいろんなジャンルに手を出すが、どんな作品を作ってもきっちり作る事が出来ることを証明したような作品でもある。テーマ的に好みかどうか?と言われると、ラブコメ部分が苦手なジャンルではあるのだが、それでもここまでしっかりと見せてくれるのだから、やっぱり監督の実力はたいしたものだと思う。 |
ネバーランド 2004 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
2004米アカデミー作曲賞、作品賞、主演男優賞(デップ)、脚色賞、美術賞、衣装デザイン賞、編集賞 2004英アカデミー作品賞、主演男優賞(デップ)、主演女優賞(ウィンスレット)、助演女優賞(クリスティ)、監督賞(フォースター)、脚色賞、作曲賞、撮影賞、プロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞 2004ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(デップ)、監督賞(フォースター)、脚本賞、音楽賞 2004放送映画批評家協会若手男優賞(ハイモア)、ファミリー映画賞、作品賞、主演男優賞(デップ)、助演女優賞(ウィンスレット)、監督賞(フォースター)、脚本賞 2004ナショナル・ボード・オブ・レビュー作品賞、第1位 2004ピーター・トラヴァース8位 2004米製作者組合賞 2004米監督組合賞 2004米俳優組合主演男優賞(デップ)、助演男優賞(ハイモア)、アンサンブル演技賞 2005MTVムービー・アワードブレイクスルー演技賞(ハイモア) |
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1903年のロンドン。新作『リトル・メアリー』が酷評され、更にメアリー(ミッチェル)との夫婦仲も冷え切っていた劇作家のジェームズ=バリ(デップ)は、散歩に向かった公園で一人の若い未亡人シルヴィア(ウィンスレット)と彼女の4人の息子たちと出会う。シルヴィアと3人の少年たちとはすぐに仲良くなったジェームズだったが、どこか醒めたところのある三男坊のピーターとだけはなかなか意志疎通が出来ない。早く大人になろうと無理するピーターの姿に自分の姿を重ね合わせたジェームズはその思いを新作劇へと投影していくのだった。だが、既婚者でありながら未亡人とこども達に近づく不埒な男という風評が社交界の中では飛び交い、メアリーはそれに耐えられずに家を出る。更にシルヴィアは悪性の病気を患っていることが分かり、徐々に弱っていく。そんな中、ジェームズの新作『ピーター・パン』が封切られる… 舞台劇の『ピーター・パン』初演から100周年だそうで、その記念として作られた作品。作品自体はイギリスのものだが、『ピーターパン』と言えば、当然ディズニーで、本作も傘下のミラマックスが製作している(一体何作『ピーター・パン』ものを作れば気が済むのだ?この会社は)。ただ、本作はピーター・パン自身ではなく、その作家であるバリと、実際に『ピーター・パン』を創作するきっかけとなったケンジントン公園で出会った親子との交流が主軸になっている(今もケンジントン公園ではピーター・パンの銅像や、ネバーランドのモデルとなった小島が見られるそうな)。 それで出来だが、これは本当に観て良かったと思う。後半部分は本当に泣けた。そもそも、こういう家族を作ることに主眼が置かれた物語は私のツボだし(この手の作品に苦もなくひねられてしまう私も私だが)。下手なハッピーエンドではなく、あくまで現実を見据えた上で作られた脚本もどっしりしていて好感度高い。 それとこの作品、カメラ・ワークが凄く良い。煽りや俯瞰を縦横に使うのみならず、瞬間的に現実世界が創作の世界へと転換する際の切り替えが夢のような演出されていてたいへん面白い。瞬間的に想像の世界に入れる人間の思考を捉えるにはぴったりの演出だったと思える。 実際、本作は夢と現実の境界の演出に力が入ってる。デップ演じるところのジェームズは元から辛いことがあると空想の世界に逃げようとする。あるいは何かの拍子に起きて夢を見る才能を持っていた。彼の見る景色は現実のもののみならず、そこから一歩踏み込んで、夢の世界を自在に作り出していく。それに適応して同じ景色を見ることが出来るこども達を配し、夢と現実の境界をみんなで行き来していく。その光景を見ることが出来ない大人達はそれを「妄想」として片づけようとし、彼らを理解しようとしない。 この才能は実は誰もが持つのだろう。ただ、その度合いによるだけで。一人一人が自分だけの世界を持っているものだ。そしてそれを人に現すことが出来る人が作家という職業に就くことができる。私だってちょっと考えをずらせばいつだってそう言う世界に入り込むことが出来る…子供の頃は、それこそいつでも夢の世界に入れたけど、今はそうなれる時がそうそうは多くなくなってる…多分映画のコメントを書いてる時、そう言う状態になるからこそ、私はこうやって映画をレビューしていくんだろう。 夢の中にいながら、それでも成長することが出来る。いや、むしろ辛さを乗り越える時こそ、夢というものが重要になっていく。それぞれ人は成長の過程で様々な理想や夢を思い描く。それは一人一人成長の過程に従って変化していくものだろう。ジェームズがシルヴィアの長男ジョージに対し、「大人になった」と宣言する瞬間、これが単なる夢を描いた作品ではない事が分かった。身の回りにある辛い現実を乗り越える事も、やはり夢が重要な要素となっていくものだから。 キャラクタに関しては申し分なし。最近のデップは色々な役を起用にこなすけど、こういう神経質な役が一番はまってる。私がこの役者にはまったのもこういう役どころを観たからだった。しかし本作の場合、難しい役どころを演じきったピーター役のハイモアを推したい。早く大人になりたいと思い、子供っぽい行動に一歩離れて接しながら、それでも子供っぽい行動をしてしまう。黒目がちの目が憎しみに燃える瞬間のぞっとするような表情と言い、最後に「君がピーターのモデルか?」と尋ねられた時、正面からその言葉を受け止め、しっかりした口調で「彼です」とジェームズを指す時、ああ、こいつは成長したんだ。と思わせる演出が見事。他にもヴェテランのジュリー=クリスティがしっかり嫌味なお婆ちゃん(と言うには艶がありすぎるけど)を生き生きと演じていたのも好感度高し(最後の拍手が良いんだ)。 後、細かいことだが、劇中劇の『ピーター・パン』だが、私は舞台劇を観たことがなかったのに、あんまりにも最初の映画版『ピーター・パン』(1924)とシーンが似すぎていて笑えたこと、そしてちゃんとみんなイギリス訛りで喋ってくれたのも良し(デップは中途半端だったけど(笑))。 ここまで褒めちぎって最高点を上げても別段構わないんだけど、ちょっとだけ問題があり。ラストのネバーランド描写に力が入っているのは分かるけど、全般的に演出がノンビリしすぎてて中盤でちょっと飽きがきてしまった。特にダレ場である中盤もうちょっとキレのある演出見せてくれたらなあ。そこが勿体なし。 |
チョコレート 2001 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
2001米アカデミー主演女優賞(ベリー)、脚本賞 2001ゴールデン・グローブ女優賞(ベリー) 2001インディペンデント・スピリット脚本賞 2002英アカデミー主演女優賞(ベリー) 2002日本アカデミー外国作品賞 2002ベルリン国際映画祭銀熊賞(ベリー) 2002MTVムービー・アワード女優賞(ベリー) 2002キネマ旬報外国映画8位 |
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ジョージア州で父親からアフリカ系に対する偏見を植え付けられて育ち、今は州立刑務所に勤めているハンク(ボブ・ソーントン)は、息子のソニー(レジャー)に目の前で自殺されてしまったというショックを抱え込んでいた。打ちひしがれたハンクは、看守を退職するが、その刑務所で処刑されたマスグローヴの妻レティシア(ベリー)は、息子タイレル(カルフーン)が事故死するという二重の悲劇に襲われる。瀕死のタイレルを偶然に車で通りかかって病院に運んでくれたハンクと、お互いの喪失感を埋めるように愛し合っていくが、夫の処刑人が彼であることをある時知ってしまい… アメリカでは定期的に登場し、多くは高い評価を受ける人種差別ものの作品の一本とされる。未だアフリカ系に対する差別の色濃い南部を舞台に、その偏見を越えていく二人の姿が描かれていく。ベリーは主演女優賞を得た初のアフリカ系女性となった。 その基本線は確か。ただ、果たしてこれは本当に単なる人種差別だけがテーマなんだろうか?いや、確かにそのテーマはあるんだけど、それよりもっと重視されているのが、民族云々ではなく、人間として寂しさを越えていく過程こそが重要なのではないだろうか?それを超えていくために必要なのは自分自身の中にある偏見と、周囲の人の無理解に負けない心。別段人種差別問題が無くても本作は実は立派に話としては成り立つ。ただその最もわかりやすい形として人種差別を持ち出したのだろう。 だからことさら人種差別的な問題意識を持つのではなく、あくまで人間同士のドラマとして観るべきなんじゃないかと思う。少なくともそれに対して逆偏見を持ち出したり、そこで闘士となるような描写もない。あくまでこれは人間同士のドラマなんだ。 改めてそう考えて本作を観てみると、とても静かに、しかし確実に相手を受け入れていく課程が描かれていくのが分かってくる。最初の結びつきはお互いの寂しさから出たもの。最初はお互いの偏見を乗り越えることから始まり、その後に痛みを持ちつつ互いを理解することによってその結びつきは本物になっていく。その結びつきを丁寧に丁寧に描いた作品であったことが分かる。 男と女の物語と言うより、家族を失った二人が新しい家族を作っていく物語。しんみりと良い作品であった。 実はその辺が観ていてあんまり自分の中で整理が付かなかったのだが、私が本作を観たのはハギス監督の『クラッシュ』(2005)を観る直前だった。『クラッシュ』でも人種差別がテーマだとされていたが、逆に本作と合わせて考えたことで、自分なりに納得がいった。 日本では当初単館公開だったが、ベリーのオスカーにより拡大公開。ヒットを記録する。 |