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2023 | |||||||||
2022 | |||||||||
2021 | 映画という文化 -レンズ越しの景色- 製作総指揮 | ||||||||
2020 | Mank マンク 監督 | ||||||||
2019 |
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2018 | 蜘蛛の巣を払う女 製作総指揮 | ||||||||
2017 |
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2016 | |||||||||
2015 | ヒッチコック/トリュフォー 出演 | ||||||||
2014 | ゴーン・ガール 監督 | ||||||||
2013 |
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2012 | サイド・バイ・サイド フィルムからデジタルシネマへ 出演 | ||||||||
2011 | ドラゴン・タトゥーの女 監督 | ||||||||
2010 | ソーシャル・ネットワーク 監督 | ||||||||
2009 | |||||||||
2008 | ベンジャミン・バトン 数奇な人生 監督 | ||||||||
2007 |
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2006 | ゾディアック 監督 | ||||||||
私の婚活恋愛術 製作総指揮 | |||||||||
2005 | ロード・オブ・ドッグタウン 製作総指揮 | ||||||||
2004 | |||||||||
2003 | フル・フロンタル 出演 | ||||||||
2002 | パニック・ルーム 監督 | ||||||||
2001 | |||||||||
2000 | |||||||||
1999 | ファイト・クラブ 監督 | ||||||||
1998 | |||||||||
1997 | ゲーム 監督 | ||||||||
1996 | |||||||||
1995 | セブン 監督 | ||||||||
1994 | |||||||||
1993 | |||||||||
1992 | エイリアン3 監督 | ||||||||
1991 | |||||||||
1990 | |||||||||
1989 | |||||||||
1988 | |||||||||
1987 | |||||||||
1986 | |||||||||
1985 | |||||||||
1984 | |||||||||
1983 | |||||||||
1982 | |||||||||
1981 | |||||||||
1980 | |||||||||
1979 | |||||||||
1978 | |||||||||
1977 | |||||||||
1976 | |||||||||
1975 | |||||||||
1974 | |||||||||
1973 | |||||||||
1972 | |||||||||
1971 | |||||||||
1970 | |||||||||
1969 | |||||||||
1968 | |||||||||
1967 | |||||||||
1966 | |||||||||
1965 | |||||||||
1964 | |||||||||
1963 | |||||||||
1962 | 8'28 コロラド州デンヴァーで誕生 |
Mank マンク Mank |
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2020米アカデミー撮影賞、美術賞、作品賞、主演男優賞(オールドマン)、助演女優賞(セイフライド)、監督賞、作曲賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞、音響賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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アルコール依存症に苦しめられ、ハリウッドからも距離を置かれ気味だった脚本家のハーマン・J・マンキウィッツ(オールドマン)は、新しい映画を作ろうとしていた新進気鋭の監督オーソン・ウェルズから声がかかり、新聞王ハーストを題材にした『市民ケーン』という作品の脚本を頼まれる。ハースト自身とも交流があるマンクは、なかなか脚本が書けないまま、カリフォルニア州立選挙にまで関わることになってしまう。 フィンチャーの新作はNetflixオリジナル作品で作られた。あのフィンチャーもNetflixか。というか、これは是非劇場で観たかったが、半分これが観たいがためにNetflixに入会までした。 しかし、やはりこれは面白い。 まずこれは『市民ケーン』(1941)の裏話として、どのようにしてあのとんでもなく挑戦的な脚本が書かれたかを見るバックステージものになっていて、『ザ・ディレクター [市民ケーン]の真実』(1999)などと合わせて観ると、疑似ドキュメンタリー風に楽しめるだろう。 ただし、本作はリアルな裏話を描こうという作品ではなく、一個の物語として完成させたものだ。物語としてもちゃんと成り立ってるし、充分に面白い。 本作は結構分かりづらいところがある。それはまずマンクが最初からベッドに伏せっている理由。これは事前に怪我をしたからと分かるのだが、そのため前半はほとんど身動き取れない状況で、会話だけで物語が展開していく。極めて動きの少ない話になる。前半はほぼ会話だけで状況を推し量らないと行けないのだが、それがほとんど説明されていないために状況を整理するのが結構大変だ。 最初に通して観る限りで分かるのは、なかなか出来ない『市民ケーン』の脚本に対してウェルズが何度も催促しているが、マンク自身はどこ吹く風で、一日ちょっとだけシナリオを書いては、あとは寝てるか、他の客と喋ってるだけ。そんなマンクを秘書が甲斐甲斐しく面倒を看ているということくらい。会話自体が刺々しいもののため、観ていて気持ちの良いものではなく、動けない人間を撮ってどうするんだ?と思ってたら、思った以上に話が動く。いや、動くと言うより“跳ぶ”。 なるほど過去とのザッピングで話を展開させるのだと分かったが、しかしこれがなかなかにややこしい。複数の時代をザッピングするため、一体今いつの時代を観てるのかぱっと見で判断しにくくて、状況が把握出来ない。 これは恐らくこの作品を製作する際、Netflixというプラットフォームを最大限に使おうとしてのことなのだろう。それはつまり「繰り返し観る」という前提であろう。何度でも観られるし、ワンクリックでどこからでも観られる。ソフト化を待つことなくそれが出来るのだから、その強みを最大限活かした作りなんだろう。 私はとりあえずそう言う観方をせず、普通の映画みたいに通して一回観ただけなので、とても把握できてない。 それでも現時点で分かるのは、激動する1940年という時代のカリフォルニアの出来事をベースにしているという事。欧州で戦争が始まったとは言え、アメリカはまだ対岸の火事で、それでもアメリカはこの世界大戦にどう対応するかが喫緊の問題になっている。そんな風景をカリフォルニア州知事選挙に絡め、こんな時に映画作りをしてて良いのかとか、社会正義と映画作りの境目はどこかなど、いろんな意味で1940年のアメリカを表そうとしたことは分かる。 そして一方、『市民ケーン』そのものを主題にしていることも分かる。それはこの作品がどれだけセンセーショナルな作品であったかを繰り返し述べてている事、そして敢えてモノクロの画面構成は、『市民ケーン』のものを踏襲してるカメラアングル。 何度観ても良いスルメみたいな作品なので、折に触れ観返してみたいと思ってる。 |
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ゴーン・ガール | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014米アカデミー主演女優賞(パイク) 2014英アカデミー主演女優賞(パイク)、脚色賞 2014シカゴ映画批評家協会脚色賞、監督賞、主演女優賞(パイク)、編集賞 2014ゴールデン・グローブ主演女優賞(パイク)、監督賞、脚本賞、音楽賞 2014放送映画批評家協会監督賞、作品賞、主演女優賞(パイク)、監督賞、編集賞、音楽賞 2015MTVムービー・アワード作品賞、ブレイクスルー演技賞(パイク)、悪役賞(パイク) |
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5年目の結婚記念日。帰宅したニック・ダン(アフレック)は、家の中が荒らされ、妻のエイミー(パイク)がいなくなってしまったことを知る。既に夫婦仲は冷えきっていたものの、殺人事件の可能性もあり、ニックは警察に通報。そして警察が調査したところ、ニックがエイミーを殺害したことを示唆する証拠が次々に現れる。メディアもこぞってニックがサイコパスであると報道するようになり、ニックは追い詰められていくが… これまで作った映画が一作毎に良作と駄作を繰り返し、“フィンチャーの法則”とまで言われ、評価の一定しないフィンチャー監督。順番によるならば、本作は良作の側となる。事実、本作はフィンチャーのフィルモグラフィでは最大のヒットとなり、好意的に見られている作品でもある。 本作のジャンルは一応監督が一番得意とするサスペンスとなるだろうが、これまでの作品と比べると抜きん出てリアルだ。2000年代に起こったアメリカの深刻な経済危機を背景にした夫婦間の危機なんて、ほとんど時事ネタに近い設定だし、愛情と性欲と打算の兼ね合いが非常にリアル。実際にこんな夫婦間の危機に陥ってる家族って、世界中にものすごい割合で存在するだろう。確かに映画的な見栄えとか、サスペンスにするために色んな所を極端に描いてはいるものの、結婚してそれなりに時間が経過したカップルからすれば、共感を得る部分がとても多い。リアルと虚構の兼ね合いがうまく、本作の最大のヒットの要因は、きっとそこにあるんじゃないかとも思える。更にメディアの偏向と、世論の恐ろしさもある。日本でもそうだが、一旦「こいつは社会の敵」とされてしまうと、誰もがこぞってその人物を叩く。特にネット社会となった現在は、匿名でいくらでも人を叩ける。 仮にこの作品を夫婦で一緒に観たなら、つい隣を気にしてしまうような。そんなリアルさが売りだ。夫婦間のリアルさだけを強調したら、ここまでの作品にはなりえなかっただろうし。 で、肝心の物語だが、一言で言ってしまえば「面白い」とは言えるし、サスペンス調の前半と、精神的な憎悪を喚起する後半の兼ね合いもうまく出来てはいる。謎解きそのものは結構早いうちに決着がついてしまうが、それはそれで新鮮な感じだ。結局妻の完全勝利に終わるという、男にとっては救われない物語展開も結構楽しい(…って、俺はマゾかよ?)。 ただ、観てる間は全く気にしてなかったのだが、今にして考えると、前半と後半の物語のつなぎ方に難点があったかもしれない。 例えば前半でクローズアップされた不自然な誘拐方法やエイミーが敢えて残したプレゼントの意味合いが結局何にも活かされないままだし、前半でタイムラインによってコロコロとニックに対する態度を変えるエイミーの両親の存在が後半全然出てこないとか。伏線と思われる部分が全然伏線になってないものが多く、ちょっと消化不良。そんな意味で前半と後半では全く別物として捉える必要があるのかもしれない。観ている間は全く気にならないのだから、それはそれで良いのかもしれないけど。 後、ネタ的にどことなく金のかかった「土曜ワイド劇場」を見せられてる気分になるのもなんだな。てっきりラストはエイミーが崖っぷちに立って、叫ぶように告白するシーンが出てくるんじゃないかと思ったくらい。 ところで本作はもう少し違った目で見てみることもできるだろう。 アフレック演じるニックは、見た目通りの単純な男と切り捨ててしまって構わないのだが(アフレックだけに、もっと複雑な過去があるのかとおもいきや、こんな役だったので逆に驚いた)、エイミーはかなり複雑な存在である。 彼女の少女時代は、両親の描く絵本「アメイジング・エイミー」によって支配されていた。彼女自身の本性がどうあれ、描かれた絵本のエイミーは自分の分身であり、だからそこを基準として生きていかねばならない。これは子どもにとってはものすごいストレスとなる。実際にニックに向かって「私はそんな子じゃなかったのに」と愚痴を言ってるシーンもあるのだが、しかしながら、そのストレスに晒されながら、普通に大学に行き、ジャーナリストにもなってる。親に対してさほど反発しているようにも見えない。普通の女性のように見える訳だが、それって凄いことじゃないだろうか。 普通こう言う人生を生きている人って、人生がもの凄く歪む。いわば自分の役柄がわかっていながら『トゥルーマン・ショー』(1998)を演じているようなものだから。ところが、それをほとんど感じさせない。結婚生活を始めるにあたり、ニックはそこに歪みがあることを全く考えずに結婚しているわけだが、実際は、心の奥にどれだけのものを溜め込んでいたか。本作はそれを少しずつ暴いていく、サイコスリラーとして見ることも出来る。 物語で明らかになるのは、過去彼女が付き合った男性が、彼女によって人生を無茶苦茶にされたということと、自分の都合で過去付き合っていた男性を振り回し、自分の都合だけでその命を奪ってしまったということ。 これは言うなれば、エイミーは完全な精神分裂病。しかも破滅型の。なまじ頭がいいだけに、そこで生じた歪みは、自分の憎む相手を完膚なきまでに叩き潰さずにはいられない。 それが夫に向けられた時… 相手を陥れるための時間はいくらでも取れた。それを想像で終わらせることなく実行に移すことも。これによって人間としての尊厳を剥ぎとった上で社会的に抹殺させることも出来る。恐ろしい話だ。 彼女にとって、ニックの浮気とかはその動機にならなかったんじゃないかな?勿論大きな機会ではあっただろうけど、一番問題だったのは自分が蔑ろにされたということ。自分が望むものを相手が与えてくれないこと。そんなことだけで相手を殺すことも出来てしまう。これは明らかなサイコパスだ。 そう考えるならば、本作は単なるサスペンスではなくサイコ・サスペンス。もっと言うならば、ホラーに近い作品なんじゃないだろうか。そう考えてみると、本作はとても面白くなる。 |
ドラゴン・タトゥーの女 2011 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2011米アカデミー編集賞、主演女優賞(マーラー)、撮影賞、音響賞 2011英アカデミー作曲賞、撮影賞 2011ゴールデン・グローブ女優賞(マーラー)、音楽賞 2011放送映画批評家協会編集賞、音楽賞 2011AFIベスト10 2011MTVベスト第1位 2011アメリカ監督組合賞劇映画部門 2011タイムベスト 2011ナショナル・ボード・オブ・レビューブレイクスルー演技賞(マーラー)、ベスト 2011アメリカ製作者組合作品賞 2011アメリカ監督組合作品賞 2011アメリカ撮影監督組合賞 2011アメリカ脚本家協会脚色賞 2012日本アカデミー外国映画賞 2012MTVムービー・アワード女優賞(マーラー)、ブレイクスルー演技賞(マーラー)、役作り賞(マーラー) 2012サターンホラー・スリラー映画賞、主演女優賞(マーラー) |
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大物実業家の不正告発記事で名誉毀損の有罪判決を受けてしまった社会派ジャーナリストのミカエル・ブルムヴィスト(クレイグ)。失意の彼のもとに、大財閥ヴァンゲル・グループの前会長ヘンリック(プラマー)という男からある調査を頼まれる。ヴァンゲル一族が暮らすストックホルムの孤島で、40年前にひとりの少女が忽然と姿を消した迷宮入り事件を解明してほしいというものだった。ヘンリックの熱意にほだされ調査を始めたミカエルだが、40年前の事件に苦労を強いられていた。そこでミカエルが協力を仰いだのは、かつてミカエルの身辺調査に当たっていた女性調査員のリスベット(マーラー)だった… 本国スウェーデンで大ベストセラーとなり、世界的にも高い評価を受けたスティーグ・ラーソン原作の「ミレニアム」シリーズ。既に『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009)としてスウェーデンで映画化もされたが、同じ原作を元にして、今度はハリウッドでフィンチャー監督が作り上げたもう一つの『ミレニアム』。 スウェーデン版を観てとても気に入って原作まで読んでしまった経緯があり、更にフィンチャー監督のファンであり、007大好き、『エルム街の悪夢』(2010)でマーラーを大絶賛した身としては、まるで私に観てくださいと言わんばかりの本作を見逃すわけにはいかぬ。大喜びで劇場へと向かった(それでも観る時期が遅れてしまったのは悲しいことだが)。 ただ、オープニング部分を観て少々違和感を感じずにはいられなかった。もっと落ち着いた雰囲気でしっとりと展開するような話を期待していたのに、出てきたのはMTV風(どっちかというと『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)のオープニングを塚本晋也に作らせたって感じなんだが)…おいおい。いくらクレイグが主演だからってなにも007にすることなかろうに。と、多少苦笑いしつつ本編へ。 前述したが、私は既にスウェーデン版、原作を経ているので、これは多少辛口になる。 スウェーデン版では敢えて切り捨てた原作部分を復活させる必要があまりないとか、原作から変える必要があるのかが疑問とか「私はレイプ魔」のタトゥを英語で書く意味は?とか、いくつもの疑問は出てくるし、原作版リスベットのメンヘラ的危うさがイメージとは違っているとか。あと、スウェーデン版にあった“寒さ”の演出が弱いとか色々とあった(逆にスウェーデン版と較べて、細かいところでこちらの方が良かったと思える部分も数多くあるのも確かだが)。 しかし、それら差し引いても、この作品の演出の質の高さは本物。超一流が撮ったらあの原作がこんなにサスペンス調になるんだ。素直にその点は感心出来る。実際カメラワーク、音の演出が出演者の巧さと相まって本当に見事なものに仕上がっている。スウェーデン版と比較するとモンタージュ技法が見事なまでにはまっていて、何気ないシーン一つを取っても実におもしろい。 サスペンスの基本は「志村~後ろ後ろ」である。つまり、中の人は全く気がつかないけど、観ているこっち側では危機が迫っていることを知っていて、それをどきどきしながら観ていることになる。後半のミカエルの危機とかレイプされるリスベットの部分とかは明らかなのだが、それだけでなく一見何気ないシーンであってもきちんと計算された緊張感が演出されており、最初から最後まで小気味良くはまっており、次の展開が分かっていても、いや分かっているからこそその演出力の見事さには脱帽するばかりだ。 原作と違っているのは殺されたはずのハリエットが実は…というところだが、「あ、こういう展開もありだな」と思わせてくれたのはうれしい。続刊であんまり有効活用されてない部分だったので、これはこれでありか。 あとエロチック描写が頻繁に出てくるのは痛し痒しか。これを強調しすぎたため、ほとんどの映画賞にはかすらなかったが、これは物語上必要な部分だしなあ。 もし全くの白紙状態でこれを観たら確実に最高点あげていただろう。本当に映画として観たい部分をきちんと見せてくれたというだけでも充分本作は褒めるに値する。 それと言うまでもないがキャラに関してはほぼ満点。リスベットはスウェーデン版のラパスもうまいはまり具合だったと思うが、マーラーは本当に上手い。『ソーシャル・ネットワーク』の時はメインヒロインでありながらちょい役だったのでその個性を存分に示すことができなかったが、こういう極端な役演じさせると見事なはまり具合を見せてくれる。クレイグの巧さは折り紙付き。ただ、ミカエルがこんなに格好良い必要がなかったというところが残念なくらいか?一見単なるおっさんだけど、一本筋が通ってるって感じの人なんだから、スウェーデン版のニクヴィスト位が良いんだが… |
ソーシャル・ネットワーク 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010米アカデミー脚色賞、作曲賞、編集賞、作品賞、主演男優賞(アイゼンバーグ)、監督賞、撮影賞、音響賞 2010英アカデミー監督賞、脚色賞、編集賞、作品賞、主演男優賞(アイゼンバーグ)、助演男優賞(ガーフィールド) 2010LA批評家協会作品賞、監督賞、脚本賞、音楽賞 2010NY批評家協会作品賞、監督賞 2010ゴールデン・グローブ作品賞、監督賞、脚本賞、音楽賞、男優賞(アイゼンバーグ)助演男優賞(ガーフィールド) 2010ボストン映画批評家協会作品賞、主演男優賞(アイゼンバーグ)、監督賞、脚本賞、音楽賞 2010全米批評家協会作品賞、主演男優賞(アイゼンバーグ)、監督賞、脚本賞 2010放送映画批評家作品賞、監督賞、脚色賞、音楽賞、主演男優賞(アイゼンバーグ)、助演男優賞(ガーフィールド)、アンサンブル演技賞、編集賞、音響賞 2010セザール外国映画賞 2010ローリング・ストーン・ベスト1 2010タイム第5位 2010アメリカ映画協会トップ10 2010映画界の新星俳優(ガーフィールド) 2010タランティーノベスト2位 2010オンライン映画批評家協会作品賞、監督賞、脚色賞 2010ブロードキャスト映画批評家協会作品賞、監督賞、脚本賞、作曲賞 2010アメリカ脚本家組合脚色賞 2010ナショナル・ボード・オブ・レビュー作品賞、監督賞、主演男優賞(アイゼンバーグ)、脚色賞 2010ピーター・トラヴァースベスト第1位 2010ロジャー・エバートベスト第1位 2010スティーヴン・キングベスト第4位 2010タランティーノお気に入り第2位 2010アメリカ製作者組合賞 2010アメリカ監督組合劇映画部門 2010アメリカ俳優組合主演男優賞(アイゼンバーグ)、アンサンブルキャスト賞 2010アメリカ脚本家組合脚色賞 2011日本アカデミー外国作品賞 2011MTVムービー・アワード作品賞、男優賞(アイゼンバーグ)、ブレイクアウト・スター賞(ガーフィールド)、名セリフ賞 2011キネマ旬報外国映画第2位 |
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2003年の秋。ハーバード大学学生マーク・ザッカーバーグ(アイゼンバーグ)は、恋人にフラれた腹いせに、学内のデータベースをハッキングして、女子学生たちの顔写真を使った人気投票サイトを作ってしまう。そんな彼の技術に目を付けたエリート学生が、学内交流を目的としたサイトへの協力を持ちかける。しかしマークは、そのアイディアを使い、親友のエドゥアルド(ガーフィールド)と共にハーバードの学生を対象としたソーシャル・ネットワークサイト“ザ・フェイスブック”を立ち上げる。するとそれは瞬く間に登録者を増やし、他の大学へも飛び火していく… このところめきめきと頭角を現し、出す作品がアカデミーの常連になるほどの実力を付けてきたフィンチャー監督。なんだかんだ言って私もすっかりファン状態。 そんなフィンチャーが『ゾディアック』に続き、実名の人間を題材にして投入した作品。 伝記作品としては信じられないほど近い年代を題材にしアイゼンバーグが演じた主人公ザッカーバーグは今もまだ30代そこそこ。伝記にするにはあまりに若い。 それでも本作ができたのは、本作の大部分がフィクションであるという前提条件あってのこと。 ところで成功者のサクセスストーリーは映画向きらしく、これまで数多くの作品が作られている。ハリウッドだけで言っても、古くはプロスポーツの『傷だらけの栄光』(1956)、『夢を生きた男 ザ・ベーブ』(1991)、『レイジング・ブル』(1980)、画家なら『ゴッホ 謎の生涯』(1990)や『ポロック』音楽家なら『バード』(1988)、『Ray/レイ』(2004)、近年でも『ウォーク・ザ・ライン 君につづく道』(2005)も入るだろう。完全フィクション作品に至っては『ロッキー』やギャングを題材にした『暗黒街の顔役』(1932)なども含め、枚挙に暇ないほど。 これらはれっきとした映画ジャンルではあるが、これらはだいたいパターンは決まってる。 才能ある人物に何らかの契機がもたらされ、その才能を開花させて栄光を手に入れる。そして絶頂期に人間関係がぼろぼろになって、転落していく。時としてそこからの再生を描くことになるが、ほぼどれを観てもこのパターンに則った話が作られている。 本作も一応その文脈で観ることはできる。プログラムに関しては天才的な人間が、一つの契機(双子の示唆)によって栄光を得る。そして人間関係が壊れて、昨日の友が今日の敵になる…枠組みだけ見たら、まんまとも言える。 これでレビュー終わってしまうと、本作は「よくある作品」で終わってしまうが、枠組みこそ同じにせよ、本作はなんか違って感じる。パターンに押し込めることができるのに、そうするとなんかしっくりこない。そんなもやもやした感情を視聴後に感じる。 では、改めて分析してみよう。昔から作られてきたサクセスストーリーと本作はどこが違うのだろう? そのためまず、本作における“栄光”とは何だろうか?と考えてみたい。 目に見えるものとして表されるのは、彼が作ったプログラムであるフェイスブックに次々入会者が現れ、世界最大のSNSに成長したこと。そしてその結果今や大金持ちになったということ。この二つだろう。 しかし、それだけ拡大しているのに、ザッカーバーグの顔色は終始変わらなかった。実際最初に恋人のエリカと振られている時と、ラストでそのエリカのフェイスブックページをリロードし続けている姿は、様々な危機を乗り越えてきた割には全くと言って良いほど変わりがない。 この点が他の多くの伝記作品とは異なるところだ。通常どの作品であっても、栄光と転落(あるいは栄光のみ)を経て、主人公の顔つきは次々に変わっていくものだ。伝記作品を作る際、役者の実力を計るのに、その表情の変化が重要なのだが、本作の場合、敢えてそれを捨てている。むしろ表情を変えない事自体を映画の目標としているかのようだ。 これは、全く新しい、現代的な伝記の作り方と言ってしまっても良いかもしれない。ザッカーバーグの栄光とは、自分自身が何かをしたのではなく、それはあくまで画面の向こう側の話であり、ザッカーバーグ自身もこれがゲームの延長に過ぎないことをよく知っている。フェイスブックが流行して楽しんでいるのは、ゲームをやって困難なクエストをクリアしていくことと何ら変わってないのだから。 彼にとって、これは画面の向こう側の出来事であり、ただ自分はそのために努力しているだけに過ぎない。その結果、どれほどの富がもたらされても、それ自体に何の魅力を感じてないのだから。 むしろ彼にとって、最大のクエストは恋人のエリカを再び自分に振り向かせることだったのだろうが、最も重要な目的は最後までクリアできずに終わってしまってる。いや、彼は今もそのクエストの途上だと思っているのだろう。 だからこそ彼は顔つきが終始変わらない。もしエリカが本当に振り向いてくれた、その時にこそ、本当に変化する時なのだが、それが叶えられないまま物語は終了してしまう。 だけど、この方法ではその目的を叶えられないと言う事を最後までザッカーバーグは悟ることが出来ない。もし本当にこの物語が終わる時があるなら、なりふり構わずエリカにすがりつくシーンで終わらねばならなかったはずなのだ。 そして、それをしなかった所に、本作の本当の面白さがあるのだ。いわば中途半端こそが、この新しい伝記物語の最大の魅力であり、その点にこそ最も感情移入できるのだから。 これ一発で終わりかも知れないけど、完全に新しい伝記物語を見せてくれただけで充分満足した。 |
ベンジャミン・バトン 数奇な人生 2008 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008米アカデミー美術賞、視覚効果賞、作品賞、主演男優賞(ピット)、助演女優賞(ヘンソン)、監督賞、脚色賞、撮影賞、作曲賞、衣装デザイン賞、音響賞、編集賞 2008英アカデミー美術賞、メイクアップ&ヘアー賞、特殊視覚効果賞、作品賞、主演男優賞(ピット)、監督賞、脚色賞、作曲賞、撮影賞、衣装デザイン賞、編集賞 2008セントルイス映画批評家協会作品賞 2008オースティン映画批評家協会助演女優賞(ヘンソン) 2008ヒューストン映画批評家協会作品賞 2008ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(ピット)、監督賞、脚本賞、音楽賞 2008放送映画批評家協会作品賞、主演男優賞(ピット)、主演女優賞(ブランシェット)、助演女優賞(ヘンソン)、アンサンブル演技賞、監督賞、脚本賞、音楽賞 2008AFI映画トップ10 2008映画俳優組合アンサンブル演技賞、主演男優賞(ピット)、助演女優賞(ヘンソン) 2008ナショナル・ボード・オブ・レビュー監督賞、脚色賞、作品賞 2008エドガー・ライトベスト第23位 2008アメリカ映画俳優組合アンサンブル演技賞、主演男優賞(ピット)、助演女優賞(ヘンソン) 2008アメリカ脚本家協会脚色賞 2009MTVムービー・アワード女優賞(ヘンソン) 2009サターン作品賞、助演女優賞(スウィントン)、主演男優賞(ピット)、監督賞 |
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タイトル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1918年ニューオーリンズ。第一次世界対戦終了の祝祭日にボタン製造業者バトン一家に男の子が産まれる。しかし、その赤ん坊の姿はなんと80歳の老人そのものだった。ショックを受けた父トーマス(フレミング)は困り果てた末、赤ん坊を老人養護施設に置き去りにしてしまう。施設を営む女性クイニー(ヘンソン)に拾われた赤ん坊はベンジャミンと名付けられ、そこで育てられる。不思議な事にベンジャミンは成長するにつれ、普通の人間とは逆に若返っていく。やがて少年期を迎えた彼はある日、施設入居者の孫娘で6歳の少女デイジーと出会う… 老人の姿で生まれ、どんどん若返っていくという不思議な成長をする男を描いたフィッツジェラルド原作を、フィンチャー監督によって手がけられた映画化作品。 本作は設定の奇異さで一見SFのような御伽噺のような作品のように思われている。事実その意味合いも確かにあるのだが、本作はそんな設定を使わず、普通に生まれ、普通に死んでいく人間の普通の物語としても充分観られるだけの、きちんとした作品に仕上げられてる。実際本作は一生をかけた本物の純愛物語で、一人の男に愛され、一人の男を愛した物語としても良かろう。 …ちょっと前段落でおかしな事を書いたけど、私が観るに、これはベンジャミン・バトンという人間を主観に描いた作品では無い。本作の主人公は実はベンジャミンではなく、デイジーの方であり、彼女が一生をかけて愛した人物を、彼女の目で観た作品なのだから。 本作を通してみると、実はベンジャミン自身は本当に長くつきあった人物があまりにも少ない。ベンジャミンのその一生というか、半生を見た人物というのは、実は家族とデイジーの二人だけ。後はその年齢その年齢でほんのわずかふれ合った人物しかいない(実の父親でさえ、現れたのは人生のほんの一瞬に過ぎない)。ベンジャミンにとって、成長の逆転現象を知られてる人物はあまりにも少ないし、他に例が無いので、ベンジャミンの心を描くことは、ちょっと出来ない。本作で描かれるのは、そんなベンジャミンを愛した一人の女性の心の動きの方がむしろ主眼になってるんじゃないだろうか?実際その方が物語のバランスとしては正しいし、観てる側も共感を持って見ることが出来るのだから。 だから、本作のタイトルには括弧付きで『ベンジャミン・バトン(の)数奇な人生(を愛した女性)』と考えた方がバランスが良いくらい。 その辺をきちんと分かってそれを映画にしたというフィンチャーは、やっぱり一流映画人としてしっかり成長してるんだな。少なくとも3時間近い(しかもありきたりな)物語を、飽きさせずにちゃんと見させる技術を習得してるんだから。 フィンチャーの出世作は『セブン』で、そのソリッドな映像技術で有名になった監督だが、そう言ったアクションやサスペンスと言った技法をかなり抑え(その分二つの世界大戦の描写は異様に力入ってるけど)、人間を撮るという当たり前で、とても難しい部分に力を注いでる。改めて思うに、本当にフィンチャーは上手くなった。 ところで本作は何かに付け、ブラッド・ピットが老人から青年までを演じると言うことで語られてきた。実際、CGにより、60歳くらいの老人役であっても、20代そこそこの、まるで『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)の時を思わせる見事な造形を行っていた。ほんと、これを違和感無しに描けてるってだけでも今のCG技術の凄さを思わせられる。 ただ、これも一方では、10代から90代くらいまでを演じていたブランシェットの方に私は軍配を上げたい。この年齢幅は女性としてはかなり厳しい撮影になったはずだけど、それを真っ正面から受けて立ったブランシェットの役者魂には頭が下がる(私が大ファンだって贔屓目はあるにせよ)。 設定主観でで御伽噺のような作品とは思わず、年齢を重ねつつ純愛を貫き通した男と女の物語として観るべき作品だろう。 |
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ゾディアック | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007カンヌ国際映画祭パルム・ドール(フィンチャー) 2007キネマ旬報外国映画第7位 2007トロント映画祭作品賞、監督賞 2007ゴールデン・トマト・アウォーズ大規模公開作品第10位、スリラー第2位 2007ホラー映画第10位 2007オーウェン・グレイバーマンベスト第10位 2007リサ・シュワルツバウムベスト第6位 2008エンパイア作品賞、監督賞、サスペンス作品賞 2008サターンアクション/アドベンチャー/サスペンス作品賞 |
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1969年からカリフォルニア州で始められた連続殺人事件。犯人は「ゾディアック」と名乗り、新聞社や警察に挑発的な手紙や暗号を送りつけてくる。サンフランシスコ・クロニクル紙の記者エイブリー(ダウニーJr)と風刺漫画家グレイスミス(ギレンホール)は、この一件に並々ならぬ執着をみせ没頭していく。一方、ゾディアック事件の担当となったサンフランシスコ市警の刑事トースキー(ラファロ)と相棒のアームストロング(エドワーズ)も追跡を続けるが、幾人かの有力な容疑者は挙げられていても、決定的な証拠に欠け、一向にそのゾディアックの正体が掴めないまま時が過ぎていく… かつて『セブン』で見事な演出力を見せたフィンチャー監督が、再びシリアル・キラー作品へと帰ってきた。しかも実在の猟期殺人者“ゾディアック”を題材にして。 そもそもゾディアック事件はアメリカの凶悪犯罪史上でもかなり特異な位置づけにあり、古くから多くの映画で参考にされている。有名どころだと、映画本編で流れていた『ダーティハリー』(1971)とか、『羊たちの沈黙』(1990)があるが、その中には確かに『セブン』も入ってる。フィンチャーは再びこの場所に戻ってきたのだ。 他のフィンチャー作品はともかく『セブン』にはかなり思い入れがあるため、本作はとても楽しみにしていたが、世間的な風評はあまり良くないのがちょっと気になっていた。 それで拝見して、なるほど、これはあまり良い評判が取れないなあ。と思えたことがいくつか。 2時間半を超える時間は長すぎたことと、物語そのものが淡々とし過ぎていたと言うのが一番の問題点。これが事実を元にしないアクション作であったなら、主人公側は危機の連続に晒され、最後に派手なドンパチ持ってきて、犯人は逮捕され、めでたしめでたし。に出来たのだが(事実フィクションである『セブン』はちゃんと決着が付いてる)、あくまで事実を追う本作の場合、銃を撃つのは事件を起こした犯人が一方的に撃つだけ。主人公側はひたすら調査調査で、ただ時間が経過していくだけ。事実、たまたま映画館出る時に同じ映画観ていた二人連れの声が聞こえていたが、それは「よく分からなかった」「寝てた」というものだった。 確かにこれ、アクションとかサスペンスを期待しすぎた人にとっては退屈なんだろうな。とは思うのだが、私にとっては、これは声を大にして「面白い!」と言ってしまえる。いや、正確に言えば「感激した」だろう。 どんな世界にもマニアというのが存在する。それはある特定のものに対する収集癖であったり、情報を仕入れることであったりする訳だが、多くの場合マニアのやっかいな点は、終わりがないと言う点にある。どれほど素晴らしいコレクションを手に入れても、収集癖は収まらず、「もっともっと」と思ってしまう人というのは少なからず存在するし、殊に情報関係であれば、いくら手に入れても、どんどん新しい情報は生じてくる。はっきり言えば、終わりを特定しにくいのだ。 こういったマニアの終わらせ方というのは、本人の死という形で終わる場合もあるけど、そのモチベーションが下がって、なし崩し的に終わる場合がほとんど。 しかし、中には、明確に終点を持ち、そこまで到達出来る人もいる。マニアとしてはこれほど素晴らしい終わらせ方は無かろう(尤も、終わったからと言って、新しい対象が出来ることが大半だろうけど)。 本作の主人公グレイスミスはそれが出来た珍しい人物だった訳だ。 彼がゾディアック事件に払った代償は極めて高く付いたし、ゾディアックを見つけたからと言って、何ら自分の得になることもない(本は売れただろうけど、それはあくまで副次的なもの)。しかし、それでも突き詰めずにはいられない。本当のマニアの姿がそこにはあったのだ。どれほど時が経とうと、ただ自己満足のためだけに突っ走ってるその姿は、素晴らしい!の一言。しかも彼はそれが自己満足であることを充分自覚しながらも、明確にその終点を設定していた。彼の望みは「ゾディアックの目を覗き込むこと」。これは何も真犯人が捕まることと同義ではない。自分が「こいつだ」と確信した、その人物であれば良いのだ。そしてそれが出来た…この瞬間、彼の旅が終わったんだ。と思えた時、本気で「羨ましい」と思えてしまった。 彼のしていることは、多くの人間には理解できないかもしれない。そこに至る過程が描かれていないので、何でここまでして犯人を追及する必要があるのだ?と、その動機が分からないまま終わるだろう。だから単に長いだけの作品にしか思えないのではなかろうか。 だけど、実の話を言えば、そんな動機なんていらないのだ。それこそ強迫観念のように追いかけずにはいられない。それがマニアというもの。そしてそれを果たすことが出来た人間というのが描かれてる。それをここまで丹念に描いてくれた。それだけで充分じゃないか。 |
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パニック・ルーム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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夫と離婚したメグ(フォスター)は、娘のサラ(スチュワート)を連れ、ある富豪が遺したと言う“パニック・ルーム”と呼ばれる避難用の特別室が存在する曰く付きの豪邸に入居した。その夜、その家の持ち主の遺族の一人であるジュニア(レトー)がパニック・ルームに隠されたはずの莫大な遺産を狙い、仲間を連れてやってきた。咄嗟にメグとサラはパニック・ルームに避難するが、彼らはパニック・ルームに押し入ろうとして家を壊し始める。更に糖尿病のサラが発作を起こしてしまい… フィンチャー監督の作品だと言うので、かなり楽しみにしてた作品…であったのだが、実際は期待はずれの感が大きい。 フィンチャー監督作品は、多かれ少なかれ何か裏切られたような気分にさせられることが多いのだが、本作に関しては単に話が流れるだけで、別に何か特別なことがある訳じゃない。設定は面白いのだが、逆にそれが物語そのものを縛り付け、そこから逃れることが出来なかったらしい。 事件なんてものはみんな“たまたま”起こるというのは事実なんだけど、たまたまパニック・ルームなるものがある家に引っ越してきた、その夜にたまたま強盗が押し入り、たまたまパニック・ルームの電源がおかしくなってたり、たまたま娘が発作起こしたり、たまたま電話がつながったり、たまたまチャッカマンが置いてある…偶然というのは重要なのかも知れないけど、ここまでご都合主義にされてしまってもなあ。大体強盗にまるで説得力が感じられない。時間が経つ内にどんどんおかしくなってしまう奴と、最初は一番の悪ぶってる奴が最後は良い奴になってしまうとか、その程度ではキャラの魅力には足りなかった。なんか苛ついただけで終わってしまった。 このタイプの物語であれば、計算がしっかりなされていて、その上でトラブルが起こって、慌ててそれをフォローすると言った感じにすべきだっただろうし、その後に何かどかんと持ってくるのがフィンチャーらしさだったんじゃなかろうか?ひねりが無さ過ぎる。単に私が期待しすぎただけか? ただ、演出とかキャラクタについては流石に上手い。長回しが効果的に用いられているし、それに伴う緊張感の演出は見事だったし、それに見合うだけのフォスターの演技も見事と言うべきで、役の幅も広がったか? 設定も良し、キャラクタも良し。問題はそれに見合うだけの物語が作れなかったのが一番の問題。それと、期待しすぎた私自身もか(笑) |
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ファイト・クラブ Fight Club |
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1999米アカデミー音響効果賞 2000MTVムービーアワード格闘シーン賞(ノートン):自分自身との対決に 2000毎日映画コンクール優秀宣伝賞 |
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自動車会社に勤めるヤング・エグゼクティブのジャック(ノートン)は、営業のため飛行機でアメリカ中を行き来する生活を送っていた。唯一の趣味と言えるものは北欧家具を集めること。だが、そんな生活を送っていても生活の空虚さにより鬱状態に陥り、カウンセリングや同じ鬱病患者や病気に苦しむ人々のセラピーに出向くようになる。こうして、悩みを抱えた人々と対話することで、自分の中にある感情が癒されるのであった。だがある日謎の男タイラー・ダーデン(ピット)と出会ったことにより、生活が全く変わっていく。殴り合いの快感を覚えたジャックはタイラーと共に「ファイト・クラブ」を立ち上げる。この存在を秘密にするという掟を作ったにもかかわらず、次第に社会に不満をもつ男たちが集まっていった。しかし、タイラーの暴走はますますエスカレートしていき、ジャックにもそれを止めることは出来なくなっていく。 チャック・パラニュークによるベストセラー小説の映画化。原作の方は映画を観た後で読んだのだが、極めてアンモラルな雰囲気に溢れていて、とても楽しかった。簡単に作ることが出来る爆発物とか、人の身体にどのように苦痛を与えていくかなど、普通の本ではとても読むことが出来ないとんでもない事が書かれていて、大変興味深い内容だったが、こんな本がベスト・セラーになるアメリカという国に対し、かなり不信感を覚えたのも事実。 この作品は、前半部は主人公のジャックが安定した自分自身を見つけようとする道筋が描かれる。彼が最初に選んだ方法は自分より不幸な人を眺めていれば、眠ることが出来る。と言う不健康なものだったが、タイラーと出会うことにより、自分の中にある戦いの本能を呼び起こすことではっきりと自分自身の本質を見つけていった。この過程は、完全に牡としての力を失ってしまった現代の男が、本来の力を取り戻そうとする過程に他ならない。ジャックが不幸な人間を見て心を慰めるのは、自分自身より不幸な人間と言うよりも、自分自身が同じである。と言うことに不健康な喜びを見つけてしまったため。しかし、ファイト・クラブは文字通り“牡”として生きることの悦びを与えてくれる。 それが中盤になると、その心の拠り所だったファイト・クラブがタイラーにより段々変質していく事に対する恐怖へと変わっていく過程が描かれる。そして後半、タイラーがその本質を明らかにした時…という風に描かれる。自分にとって救いと思っていたのが、実は巧妙な罠に他ならなかったと言うのは面白い展開。一種カルトにはまっていく現代人の心ともつながる。 正直、これは本当に画面に釘付けにされた。ストーリーの展開が全く掴めないのだ。特にオープニングのシーンがあまりに変だったので、それに至る過程が全く分からないと言うのは、ストレスが溜まる。それをちゃんと見させるのはやはりフィンチャーの手腕だろう。キャラも上手く立ってたし。 思うにフィンチャー監督は一貫して人の心の中にある欲望を描こうとしているのではないだろうか。『セブン』ではそれが殺人願望であり(深く考えれば“敬虔さ”とその相剋としての“罪”そして殺人だったのかも知れない)、『ゲーム』では、桁外れの舞台設定においての、妄想を超えた理想の追求であり、そしてこの『ファイト・クラブ』では人の内にある破壊願望として。だから最初のファイト・クラブ創設では相手の肉体のみならず自らの肉体への破壊衝動も含まれるし、後半ではこの世界全てに対しての破壊が強い欲望となっている。 ジャックの影として生きてきたタイラーはジャックにとっての欲望そのものの具現化した形であった。だからこそ、原作のようにタイラーはジャックの全人格を奪おうとしているわけではないし、ラストはその欲望の成就として、ジャック自身がタイラーとなるような描き方をしている(そうするとあれはタイラーに上位を譲ったのではなく、ジャック自身がタイラーと同化したと見るべきか?)飽くなき欲望の追求。それが成就した形としてで『セブン』あれ、『ゲーム』であれ、この『ファイト・クラブ』であれ、ラストが描かれているのではないか?観客の目からすれば、それは決して楽しいものではなくとも… ところで、一つ疑問なのだが、最後にタイラーとのファイトがジャック一人でやっていることが発覚するのだが、タイラーがジャックを引きずっていくのはどうやって自分で演じたんだろう? |
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ゲーム | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実業家ニコラス(ダグラス)は48歳の誕生日に弟のコンラッドからCRS社主催の“ゲーム”の招待状をプレゼントされる。最初は馬鹿にしていたニコラスだが、「人生が一変するような素晴らしい体験ができる」という謳い文句にひかれてゲームに参加することにする。やがて、ブリーフケースの鍵の紛失、スキャンダルの発覚、CRS社のオフィスの消滅と、奇妙な出来事がニコラスの周りで次々に起こり始める。トラブルは次第に加速していく。ニコラスをこのゲームに誘ったコンラッド本人も変調を起こし、更に生命を狙われることに… ディヴィッド=フィンチャー監督作品。監督が有名になった『セブン』同様、最後にあっと息を飲むどんでん返しが存在している。勿論過程も盛り上がり、見応えのある作品に仕上がっている。 これだけの壮大なオチが待っていようとは全く思わなかった。ここまで手の込んだものを見せられると、呆気にとられて何も言い出せなくなってしまう。普通映画でこれをやるのは考えつかないけど、一歩間違えると、放り投げに見られないこともない。それでバランスを取っているのがフィンチャーの上手さだろうけどね。 どちらもラストが意外と言う意味では同じだが、『セブン』は衝撃的なのに対し、こちらは拍子抜けの後、ほっとできる。明らかに見終わった後重苦しい思いをしないで済むのはこっちだし、映画だからこそ、こう言った現実場慣れした馬鹿馬鹿しい話が可能であることを、改めて思わされた。ある意味、こう言った荒唐無稽さこそが、映画の醍醐味なのだろうし。 それに本作の主演にダグラスを持ってきたことも慧眼だった。実際ダグラスは大変な浮気性で知られ(父親のカークもそうで、「ダグラス家の血」とまで言われた)、かつて泥沼の離婚騒動をやらかしている。そんな自分自身を演じているような役は、ダグラスだからこそ映えるのだ。 少なくともこの作品は観客を夢の世界に運んでいってくれることは確かだ。まずオチは分からない。 |
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セブン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1995米アカデミー編集賞 1995英アカデミー脚本賞 1995NY批評家協会助演男優賞(スペイシー) |
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キリスト教の7つの大罪《大食(gluttony)、強欲(greed)、怠惰(sloth)、色欲(lust)、高慢(pride)、羨望(envy)、憤怒(anger)》に基づいた連続殺人事件が発生。赴任したばかりの愛妻家刑事ミルズ(ピット)は定年近くの老刑事サマセット(フリーマン)と組み、その猟奇殺人事件を担当する。次々と死人が出る中で、ついに捕らえた犯人は「世界の終わりが来る」と告げるが… 劇場公開時は結構注目はしていたのだが、監督があのディヴィッド・フィンチャーと知り、どうせろくなもんは作られないだろうと思い、ビデオで充分だと思っていた。それでレンタルで観て後悔。これは絶対に劇場で観るべき作品だった。 いやはや走る走る。導入部分からビデオドラッグらしい映像が次々と出てきて、頭がパニックを起こした後で平凡な展開を見せるやり方は大成功。画面全体が陰鬱な雰囲気に溢れているに拘わらず、ぐぐっと引き込まれてしまう。そしてその後での猟奇殺人。物語の展開が上手い。猟奇ものの作品の場合、視聴者がしらけては衝撃を与えることが出来にくいのだが、これは平凡な画面でも視聴者を引き込む努力がふんだんに為されているため、猟奇殺人が際だっている。多分にオカルティックな雰囲気を死体に持たせたのも良し。ヴァラエティに富んだ死体の状態は、次に何が来るのかを期待させてワクワクする。だからこそ、B級作品では定番とも言える「怠惰」での死体がいきなり起きあがった時の衝撃が大きくできた(これが中途半端だと本当のB級作品になってしまう)。前半部はストーリーそのものよりも、執拗なまでの画面の凝り方にこそこの作品の見所があるだろう。 それで中盤を過ぎたところから一気に物語は加速する。ただ傍観者に徹することしかできない主人公の無力さの中、あっけないほどに捕まる犯人と、その異常な言動。特に「世界の終わり」を口にするに至り、一体何が終わるんだろう?と物語そのものに引き込まれていく。 後半に至り、再び物語は沈静化。この間も上手い。さほど重要なことが起こるわけでもないのに、引き込まれる自分を抑えることが出来ず。 そして衝撃のラスト!あれを「訳分からない」という人も多く見かけるが、犯人にとって「世界の終わり」な訳だから、あれで良いのだろう。実は七つの大罪の最後「憤怒」によって犯人は死亡していることが分かる。敷衍して見るならば、「これが殺人の仕納め。全ての人間の大罪は浄化されたからこの世界も終わり」とも、更に敷衍するならば、「映画の終わり」とも取れる。かなり救いようのないラストではあったが、私なりには充分納得。後味も決して悪くなかった。ただ問題はこれだけの時間を画面に引きずられていたため、どーっと疲れが出た事位か? ところでこの作品を、全ての視覚要素を剥ぎ取ってストーリーだけで見てみると、実はこれコテコテのB級猟奇もの映画であることが分かるだろう。しかしこれをここまで魅せたのがなんと言ってもフィンチャー監督の凄いところ。キャストの配置、オカルティックな設定の拡大、視覚要素、そしてその意識してテンポを変えるやり方でここまでの作品に仕上げてしまった。衝撃のラストというのも、実際はこれをどう視聴者に気付かせないか、と言う点に集中して作り上げたためである。事実あのラストは画面、オカルティックな雰囲気、謎めいた台詞などの要素がなければ衝撃とはなり得なかったはずだ。かつてカルト作として作られてきた作品も演出によってメジャー化出来ることを証明した形となった。 少なくとも私の中では『エイリアン3』で「どうしようもない」と思ってたはずのフィンチャーの存在を再び大きくするに充分すぎる出来ではあった。これがピットの出世作というのもよく分かる。 |
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エイリアン3 Alien³ |
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1992米アカデミー特殊視覚効果賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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恐怖の惑星LV426からニュートを連れて脱出したリプリー(ウィーヴァー)だったが、宇宙船の中に紛れ込んだ一匹のフェイスハガー。そのお陰でリプリー以外の乗組員は殺され、更に宇宙船は航路が狂い囚人惑星フィオリーナ161に不時着してしまう。カリスマ的人望を誇る囚人ディロン(ダットン)、医者クレメンス(ダンス)等に迎えられたリプリーだが、犬型のエイリアンが現れ、更に彼女の身体にも異変が… 前2作が大ヒットを飛ばしてしまったため、これを作るには相当な手間が掛けられたらしい(監督は3人、脚本家も8人が手がけている。中でも監督レニー・ハーリン、脚本ウィリアム・ギブソンは非常に期待されていたのだが…)。前と同じにしてはならないと言うプレッシャーからか、本作は哲学的要素を多量に含んだ内容となっていた。しかし、映画でそれを用いると、まず失敗する。だって面白くないんだもん。 冒頭から、前作であれだけ苦労して助けたニュートが死んでいた事が分かり、ちょっと悲しかった。物語は淡々と進み、結局こう終わるのか。と言う程度の物語で取り立てて言う必要は無し。ビショップのオリジナルが現れたことと、エイリアンがリプリーに肉薄するシーンは散々パクられた事くらいか。 ちなみにこれまで明らかにアカデミー狙いに走っていたウィーヴァーは、本作の出演には多少難色を示していたそうだが、最後は製作まで兼ねるという力の入れようになっていったとか。 それにしても、デヴィッド=フィンチャー監督、こんなの作っておきながら、この後の作品が凄かったな。「エイリアン」シリーズは1~4まで、それまで「知る人ぞ知る(要するにあんまり知られてない)」監督が作ってるが、そこから必ずブレイクする。1作目のリドリー・スコットであれ、2作目のキャメロンであれ(この二人、後にオスカー作品を作ってる)、本作のフィンチャーであれ、4作目のジュネであれ…まるで登竜門みたいなシリーズなんだな。 |
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