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2021 | 竜とそばかすの姫 監督・脚本 | ||||||||||
2020 | |||||||||||
2019 | |||||||||||
2018 | 未来のミライ 監督・原作・脚本 | ||||||||||
2017 | |||||||||||
2016 | |||||||||||
2015 | バケモノの子 監督・原作・脚本 | ||||||||||
2014 | |||||||||||
2013 | |||||||||||
2012 | おおかみこどもの雨と雪 監督・原作・脚本 | ||||||||||
2011 | |||||||||||
2010 | |||||||||||
2009 | サマーウォーズ 監督 | ||||||||||
2008 | |||||||||||
2007 | |||||||||||
2006 | 時をかける少女 監督 | ||||||||||
2005 | ONE PIECE ワンピース THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島 監督 | ||||||||||
2004 |
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2003 | |||||||||||
2002 | |||||||||||
2001 | |||||||||||
2000 | デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム! 監督 | ||||||||||
デジモンアドベンチャー 3D デジモングランプリ 演出 | |||||||||||
デジモンアドベンチャー02<TV> 監督 | |||||||||||
1999 | ゲゲゲの鬼太郎 〜鬼太郎の幽霊電車〜 監督 | ||||||||||
デジモンアドベンチャー 監督 | |||||||||||
デジモンアドベンチャー<TV> 監督 | |||||||||||
1998 | |||||||||||
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1985 | |||||||||||
1984 | |||||||||||
1983 | |||||||||||
1982 | |||||||||||
1981 | |||||||||||
1980 | |||||||||||
1979 | |||||||||||
1978 | |||||||||||
1977 | |||||||||||
1976 | |||||||||||
1975 | |||||||||||
1974 | |||||||||||
1973 | |||||||||||
1972 | |||||||||||
1971 | |||||||||||
1970 | |||||||||||
1969 | |||||||||||
1968 | |||||||||||
1967 | 9'19 富山県で誕生 |
竜とそばかすの姫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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高知県の自然豊かな田舎町。17歳の女子高生すずは幼い頃に母を事故で亡くし、父と2人で暮らしている。母と一緒に歌うことが大好きだった彼女は、母の死をきっかけに歌うことができなくなり、現実の世界に心を閉ざすようになっていた。ある日、友人に誘われ全世界で50億人以上が集う仮想世界「U(ユー)」に参加することになったすずは、「ベル」というアバターで「U」の世界に足を踏み入れる。仮想世界では自然と歌うことができ、自作の歌を披露するうちにベルは世界中から注目される存在となっていく。そんな彼女の前に、
「U」の世界で恐れられている竜の姿をした謎の存在が現れる。 アニメーション映画も近年だいぶ増えてきた。多くの作品と、その監督が輩出されているが、そんな中で監督の名前でヒット作を出せる数人の監督がいる。誰もがじっくり時間を掛けて数年に一作の割だが、彼らの作る作品は概ねヒット間違いなしとも言われている。すぐに挙げられるのは庵野秀明、湯浅政明、新海誠、そして細田守となるだろう。アニメ監督としては全員ベテランの域に入っており、これから円熟した作品が出てくるだろうし、才気溢れる新しい監督達もまだまだ出てくるだろう。 その筆頭とも言える細田だが、前作『未来のミライ』は賛否両論が激しく、思ったより興収も伸びなかったようだ。その理由はレビューでも書いたが、監督のフェティシズムがあまりに行きすぎて物語のバランスに欠け、まとまりがなくなってしまった感があったからだろう。監督が作りたいものが視聴者の求めているものから離れてしまったからとも言える。 そんな中での新作はかなりのプレッシャーではなかったかと推測される。ヒットメーカーとしてこの作品を当てねばならないプレッシャーをはねのけて大ヒット作品を作れたのは素直に細田の実力と言って良い。 確かに本作はヒットの要素はたっぷりあって、これが受けない訳がないとも思う。 まずとにかくベルの歌が凄い。主役の声を声優ではなく歌手にした理由がここではっきり分かる。アニメソングとは少し違う不思議な歌声が画面に見事に合致して、それを観てるだけで心地良い。Uの世界はちょっと古くさい感じもするが、見た目に電脳世界と分かる構造なので、これはこれで良かろう。 あと、現実世界での話を高校生活に持って行ったのは受け要素としては正解。これまでの細田監督のヒット作は主人公が高校生なのが多いため、正しい選択だろう。主人公がトラウマを伴う悩みを乗り越えるのと、高校生らしい恋物語が展開するも王道で良し。 本当にこれは受けるために総力を結集させたのだろう。そして狙ってそれが出来るのが細田監督だ。 ただし、それはある意味作家性の後退でもある。受けがあまり良くなかったとは言え、前作『未来のミライ』も前々作『バケモノの子』もとにかく作家性を前面に打ち出し、監督だけしか作れないような個性的な(変態)作品に仕上がっていたが、本作は個性(変態性)を後退させたため無難な感じになってしまった。 これは痛し痒し。作品としての完成度は絶対こっちの方が高いし、楽しめるのだが、どっちかというと作家性を楽しみたい身としてはもうちょっと監督自身のフェティシズムを出してほしかったかと思う。 それと、設定の甘さも多数目に付く。 前述したが、まず電脳世界があまりに古くさい。UのAIは『サマーウォーズ』と変わらないし、もっと言うなら20年前の「デジモン」からほとんど進歩してないので、この20年いったい何をやってたんだと言いたくもなる。Uが何故楽しいのかを描かねばならないはずなのに、Uのキャラクターはみんなぷかぷか浮いて同じ方向に飛んでるだけって、一体何が楽しいのか観ていて全く分からない。それにあれだけ巨大なシステムなのに自衛手段が全くないとかあり得ないことを平気でやってくる。世界的なシステムのくせに欠陥を全て放置するシステムは無理ある。20年ほど前のネット初期の混乱を現代の成熟したネット社会に無理矢理ねじ込んだために、大変歪んだ設定になったのだろう。竜が城や眷属を持つなど、おそらくは相当な相当な財力がないと出来ないことだが、一体その金はどこから出ているのか、そして何故秘密裏にあれだけの巨大な城を作るとが出来たのかも全く説明が無い。「ネットは何でも出来る」という命題が歪んで出ていたため、リアリティがなくなった。 あと言うなれば、主人公すずの性格が最後までつかめなかった。母の死にこだわっている割に父親との関係が単なる拒絶のまま止まってるのも変と言えば変。10年以上もこんな状態で生活出来てる説得力がなくてその空白期間の蓄積がまるで感じられない。母親を失った瞬間からここまで冷凍睡眠状態だったみたいだ。それに人を拒絶するくせに人を信じすぎるとか性格の歪みも説得力なし。そんなすずに対して周囲はまるで腫れ物を扱うように丁寧に扱っている訳だが、すずの我が儘はなんでも聞いてくれ、やりたいと言ったらすぐに背を押す理屈も説得不足。そもそもラストの東京行きなんて無茶なだけ。分別ある大人が存在しない世界。Uより現実世界の方がよっぽどファンタジーだ。 あと、声も俳優を多数使っていることもあって、全般的に声が違和感だらけ。主人公以外は普通に声優使ってくれた方が良かったと思うぞ。 結果として大変歪んだ作品だとは言える。 それで重要なのは好みか否かだけだが、少なくとも私はこれはとても好みではある。雰囲気に浸っているととても心地が良いのだ。 そう考えると、変態性が後退したかのように見えながら、しっかり違う形で個性の強い作品だったのかもしれない。 |
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未来のミライ 2018 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2018米アカデミー長編アニメ賞 2018日本アカデミーアニメーション作品賞 2018ゴールデン・グローブアニメーション作品賞 |
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横浜に住む家族。建築デザイナーのお父さん(星野源)と、会社ではそれなりの地位があり、仕事に精を出すお母さん(麻生久美子)と、一人息子のくんちゃん(上白石萌花)。そしてペットのミニチュアダックスのゆっこ。家族は仲良く暮らしていたが、二人目の子どもの出産に伴い、生活も変化していく。特に仕事に忙しいお母さんの愛情が妹の未来へと移っていき、くんちゃんは苛々を募らせていたのだが、そんなある日、家の中庭で不思議な体験をするくんちゃん… 『バケモノの子』から三年。待望の細田監督のアニメが公開と言ったところで相当な期待をかけられて公開された作品。ただ、監督の作品としては珍しく、否定的な意見の方が多い。 一見して思ったことだが、これが批判されるのは当然だと思う。 まず監督の過去作品はしっかりした物語性が特徴だった。確かにいろんなアラはあるものの、物語の起伏もちゃんと計算されて作られていて、監督作品が評価されたのはこの丁寧さに負うところが大きい。 そして単独のアニメーションとして、狙った世代に届く丁寧な作りだというのもあるだろう。例えば『時をかける少女』や『サマーウォーズ』なんかは高校生の思い出に結びつくことで、リアルタイムのみならず、ノスタルジーも感じられて上の世代にも受け入れられたし、『おおかみこどもの雨と雪』なんかは母親の記憶を呼び覚まされることで、子育て世代のみならず、多くのファンを生んだものだ。 そして何より、主人公達が作品を通して冒険を行うことによって、しっかり成長物語になっていた。 これらのことがあって、広い世代に受け入れられる作品を作り出してきたのが細田守という監督だった。このバランス感覚の良さは他の監督と比べても顕著な良さであり、それが監督の個性とも言えた。 本作を見に行った人のほとんど全員がこれまでの細田監督のバランス感覚を期待していったのかと思うのだが、本作はそれをことごとく裏切った。 本作は主人公が幼児であり、現実と妄想の世界を行き来するという物語なので、物語性はほとんどなくなった。ストレスのあまりくんちゃんがどこか別の世界に行く夢を見て、夢から覚めたら、またままならない現実と直面し、またストレスを溜めて別世界に行く。そんなミニストーリーの繰り返しで脈絡がなく、それぞれの妄想の中での危機も、それが夢である事が分かっている以上、なんの緊張感もない。 誰しも乳幼児の時期を通り過ぎているとは言え、そんな記憶はほとんどなく、主人公のくんちゃんと通じる部分がなく、親和性がない。この作品で共感を覚えるのはほぼ子育て世代に限られるだろう。あまりにニッチだ。 それに主人公が幼児なので、成長物語として考えてもちょっと難しい。幼児は同じような失敗を繰り返して徐々に成長していくものなので、一つの気づきで一気に成長する訳ではない。その辺リアルに描いたことで顕著な成長が見られなくなってしまい、物語が遅々として進んで見えない。 …と言う事で、今まで培ってきた細田作品をことごとく裏切る作りになってしまった。それが本作の弱みである。そして多分、それが本作に対する一般的な評価になるかと思われる。 でもそれでは本作を語るには勿体ない。この作品にはたっぷりの魅力もあるのだ。 何より本作は、リアルタイムでの監督の嗜好というのを見事に表している。もっと極端に言えば、これまでかなり押さえられてきた監督の欲望をたたきつけてきた。 それは例えば幼児の肉体精神の柔らかさであったり、我が儘な感情を愛でる感覚であったり、半獣人間だったり…まあ、ある意味突き刺さる人には突き刺さるニッチな思いだが。 「俺が描きたいのはこれだ!」というストレートな欲望こそが本作のモチベーションであり、本当の意味でストレートな作家性を出せるようになったというのが本作なのだ。 これまでの作品の中でもいろんな嗜好が入り込んでいたが、それらはバランスの取れた物語の中でアクセントとして使われるものに過ぎなかった。 最早それでは我慢出来なかったんだろう。アニメーション監督だったら一生に一本作れるかどうかと言う、フェティ満載の作品を作れる機会を逃さずに、本当に自分の性癖をぶちまけたようなものを作ってくれた。 その点に於いて本作は絶対支持である。 お上品なバランス感覚にお溢れた作品なんぞよりも、妄想全開でぶっちぎったような作品の方が面白いのである。 それに見ろ。いわゆる巨匠と言われている宮崎駿だって押井守だってバランスなんて全く考えない妄想作品を垂れ流すことで評価されてきたんだ。細田ほどの実力者がそれをやらんでどうする? この二人に続くならば庵野秀明、湯浅政明、細田しかいないし、少なくとも先の二人はその領域に入っている。やっと細田が覚悟を決めて足を踏み入れたと言う事を最大に評価したい。 |
バケモノの子 2015 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015日本アカデミーアニメーション作品賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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母親が事故死し、離婚した父親からも連絡がない9歳の少年蓮(宮崎あおい)は、親戚に引き取られることを拒み、渋谷の町を徘徊していた。そんな時、不思議な格好をした人外の存在“熊鉄”(役所広司)と出会い、その男に惹かれるように付いていったところ、バケモノの住む渋谷の街“渋天街”に迷い込んでしまった。人間の世界に戻ることが出来ない蓮は九太という名前をもらい、ここで熊鉄の弟子生活することとなったのだが… 今やポスト宮崎駿の呼び声も高い監督による最新作。この人の場合、勿論実力が伴ってこそだが、幸せな映画作りをしてきたと思う。紆余曲折はあるにせよ、自分の最も関心の深いテーマを映画作りに活かすことが出来ているのだから。 『時をかける少女』では男女の恋愛話、『サマーウォーズ』では家族のあり方、『おおかみこどもの雨と雪』では生まれた子どもの子育て、そして本作では、子どもの成長を見守る親の視点と、監督自らが辿っている人生の道行きそのものが映画作りに影響を与えていることを感じさせられる。最も関心の深いテーマを作っているからこそ、映画に対する思い入れも深く、職人監督として作るのではない“思い入れ”のようなものも感じられるような作品が作られるようになっていて、だからこそ作家性の高いアニメ監督として、宮崎駿の後継者と呼ばれるようになっているのだろう。尤も、本人はそんな意識もないだろうし、監督は監督らしい作品を作り続けて欲しいと私も思ってる。 本作は『千と千尋の神隠し』(2001)と似た設定という指摘もあるが、現世と異世界の交流はアニメでは昔から作られてきたテーマなので、殊更似ていると言う気はしないし、目指すべき所も描写も違う。やはり宮崎と細田は全く別物だ。そしてそれこそが重要だ。 それで本作だが、出来そのものは良かったと思う。どんな世代の人に対しても鑑賞に堪えられる強度を持っているし、物語のテーマとなる“家族を作る”ことは、私にとってもツボだ。これまでの細田監督作品の中でも、最も一般受けのする物語だろう。 物語展開も引っかかるところはそんなに無くて軽快に進み、きっちり終わらせてくれる。 ただ、その軽快さがちょっと引っかかる部分がある。前半の九太として渋天街への受け入れはじっくり描かれていて、それは良かったんだが、後半になって、蓮として渋谷に戻ってきた辺りから、嫌な意味でのアニメーションのテンプレートが多用されるようになり、なんでこんな月並みな描写するのかとうんざりさせられる所が多々。 野暮だがいくつか挙げてみよう。図書館での楓と蓮の出会いのシーンは、お互いに取ろうとした本が近くにあって手が触れ、それで意識したというもの。これが現実に起こることはよっぽどでなければ無いと思うんだが、アニメではテンプレートとして存在し、それを悪びれずに使ってしまうシーンは相当に醒めたし、蓮に手を出す高校生を一瞬にしてノすシーンは音だけ。ここは実は蓮という男を上げもするし下げもするシーン。それを描写もさせないとは勿体ない。特に人間社会に戻ってからはそう言うシーンばかりになってしまうので、もっと葛藤やらバケモノの子として成長してきた自分自身のアイデンティティの持って行き方とか、そう言う大切な部分をすっぱり外してしまっていたので、それがちょっと落ち着きを無くさせてしまう。人間社会への受入が余りにもスムーズであり、二つの世界を普通に行き来しているために、最初の設定バケモノとは違い人間だけが闇を心に持つという設定も活かしきれず。 あとこれはとても重要な点なのだが、いきなり終わり近くになって暴露された一郎彦の正体も、伏線も何も無し。これを衝撃的に捉えさせるならば、全編を通じてもっと絡ませなければならないのに、それが出来ておらず、一郎彦の持つコンプレックスがいきなり吹き出たようになってる。もっと描き方があったよな。物語は一郎彦との対決がクライマックスになっているのだから、蓮と一郎彦をきちんと対比して持っていって欲しかったところだ。勿体ないというか、描写不足としか言いようがない。 ただ、前述した通り、物語の基本路線は私のとても好みであるし、特に熊鉄が魅力的だったのは大きなアドバンテージ。やっぱり役所広司は巧いし、生活力が全然無く、見栄で“弟子”を取っただけの熊鉄が、九太を実の息子として考え始め、思春期を見守り、最後に息子を守るために自らを犠牲にすると言う下りはベタ故に素晴らしい。むしろこちらの方を物語の中心にしてくれれば。とも思う。こう言う作品は小手先に頼らず、王道で良いんだよ。そのまま『狐の呉れた赤ん坊』(1945)の逆バージョンにしてしまえば良かったんだ。 思うに、細田監督の趣味的な思いが王道的物語を阻害する方向に向かってしまったのが本作の問題点なんじゃないかな。 |
おおかみこどもの雨と雪 2012 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012日本アカデミーアニメーション映画賞 2012日本映画プロフェッショナル大賞ベスト第10位 2012日本映画批評家大賞アニメーション作品賞 2012毎日映画コンクールアニメーション映画賞 2012ヨコハマ映画祭第5位 |
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大学生の花は偶然大学で気になる男性を見かけ、恋に落ちた。だが実は彼は“おおかみおとこ”であり、それを打ち明けられても花の気持ちは変わらず、二人は一緒に暮らし始める。そして二人の間には“雪”と“雨”という二人のこどもができる。人間とおおかみどちらにもなれる二人だったが、そんな中で父親が事故死してしまう。花は悲しみに暮れながらも、子どもたちを一人で育てるために山あいの村へと移り住むことにする。 かつてアニメファンの中では有名ながら、知名度がさほどではなかった細田守。それが『時をかける少女』、『サマーウォーズ』というオリジナル劇場版アニメですっかり有名になった。正直私自身『時をかける少女』までは名前を知っているという程度が、あの作品ですっかり見直してしまい、機会ある度に彼の監督作品を観ていくことになる。 ただし、期待して積極的に観に行った『サマーウォーズ』は失望に終わった。 これはあきらかに作家性の後退に思える。自分のやりたいことを画面に作り出し、それでヒットした『時かけ』に対し、商業主義的に受ける要素をただぶち込んだ結果消化不良を起こした『サマーウォーズ』。これが続くんだったら観る価値はなかろう。 それで半ば義務のような気持ちで本作を観に行った訳だが、正直驚いた。これほんとにあの『サマーウォーズ』の後に作ったの?普通こういう監督って一作目は作家性で見せ、その遺産を食いつぶすような形で徐々にフェードアウトしていくものなのだが、商業主義に凝り固まった作品の後で、更なる作家性の強いものを作り上げるとは思ってもみなかった。 半分以上期待もせずに観に行き、それが良い意味で裏切られた心地よさと言うべきだろうか。とにかく幸せな2時間だった。 いくつかに分けて本作を考えてみたい。 まず、興業的には大成功を収めたものの、風呂敷を広げすぎ、結果的に視点が定まらなかった『サマーウォーズ』だが、その反省がきっちりと活かされている。たとえば都会からちょっとだけ滞在した人間から観た田舎の大家族の良さはあまりにも一面的で、田舎の本質どころか表面をなぞることすらろくに出来ていなかった『サマーウォーズ』に対し、こちらは確かにかなり深く突っ込んで田舎の濃密な人間関係の良さと悪さを描こうとしたこと。そりゃ描写的にはいろいろ都合良いところが多いのも事実だが、ある程度の本質はとらえている(蛇足になるが、ここにおける本質というのは、隣人が違う価値観を持つということを許したくないのが田舎の悪いところで、ここに表される田舎の人間の大部分がちゃんとその行動原理に則っているのが面白い。「隣はなにをする人ぞ」であり、自分の領域を侵されたとき人に関わる都会の人との対比もあり。この田舎の描かれ方は決して暖かい訳じゃないのだ。少なくともその田舎的関わり方が嫌で嫌で仕方なくて家を出た私にとっては、あお田舎の人間の関わり方は今になっても尚気持ちが悪いものがある)。 第二に徹底的に無駄を削ぎ落として物語の本質のみを描こうとしたこと。これが一番の成果だろう。なんでもかんでも詰め込んだ『サマーウォーズ』のまるで真逆をやってしまった訳だ。商業的に売れる売れないを度外視し、意欲的な挑戦作をヒット作の後にできたことを評価したい。そして純粋に親子の物語だけに物語を絞ることで、物語を単純に、そのかわり奥を深く取ることが出来た。本作はSF的な要素もあるとしても、焦点はたんなる家族の物語に過ぎない。そしてその関わりを10年以上の長さに渡って関わりの変化を描いていった。実際にはそれだけの物語なのだから。 そして物語が「こどもの成長」と、それに対する変化という点に縛られるからこそその中で深めることが出来るものもある。そのことをきちんと示している。映画における物語は単純で良い。ただ観ている側に考えさせられる余地を残してくれれば。 それでこの作品、もっと本質的に考えてみよう。 考えてみると、これ確か完全お母さん視点で描かれた唯一のアニメではないだろうか? 私自身は主人公の花よりも息子の雨の方に感情移入して観ていたので、その辺客観的に考えるのが遅れてしまったが、少なくとも私が知っている限りにおいて、完全お母さん視点の劇場用アニメは存在しない(原恵一の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)あたりはちゃんと親の視点も描いているけど、主人公はあくまで幼稚園児だ)。アニメにおけるお母さんは記号化された存在であるのがほとんどで、その存在理由は母性愛をもって主人公を守るような存在としか取られていない。母性を表すためにのみ登場し、メインの物語は主人公の側に任せるのが母親の存在意義だったと言っても良い。 それに対し本作は、その「当たり前」な記号的存在であるお母さんを、記号ではなく、それどころかそれを目的として存在させた。 彼女にとってふたりのこどもは愛する人との間の結晶であり、夜泣きをすればそのために一晩中外であやし、病気になったらそのためにどうすればいいか、あらかじめ勉強する。こどもたちの成長のために良いと思ったことを積極的に行う。 そこには自分自身の欲や新しい恋なんてものは存在せず、ただひたすら自らのこどものために働き、そしてこどもの成長を自らの喜びとしている姿に他ならない。 これはいわば理想的な母親像である。しかもそれを主人公が行っているということに最大の特徴がある。今までのクリエイターがやろうとしても出来なかったことがここにはある。それにたぶんこれ以外の作品は出てこないだろう。だってそういう話は物語が単純にしかならないので、ヴァリエーションがつけにくい。この話はかなり設定に変則的なものを持ってきたとは言え、頑張ってもこの程度の物語展開を作るのがやっと。ここまでストレートなものはもはや作られるとは思えない。 そんな希有な作品を作り上げたというだけで細田守という監督の素晴らしさを感じることが出来る。 思えば日本のアニメは、そのほとんどが徹底したこども目線で描かれるのが普通。それこそそれが戦場を描く作品であっても、主人公は主に(青年期もそれに含め)こども目線で作られており、その目を通して観るのが普通のアニメの楽しみ方である。細田監督においても出世作である「デジモン」以降これまですべての作品はこども目線で作られていたのだが、ここにきて完全に目線を変えて見せた。少なくともこれまで全くないジャンルだが、実際はアニメーションの成熟の中でこの目線はとても重要なものとなるのではないだろうか?たぶんアニメ史において現時点では唯一だが、これからとても重要な立場に立たせられる作品なのではないだろうか? ちなみに本作はそれだけの観方しか出来ないのではない。実際私自身としては鑑賞中は主人公の花ではなくこどもの雪と雨の方に感情移入しており、思春期を過ぎて大人になるまでの物語として観ていたし、特に雨の自立の過程はまさしくこども目線で見た親との関係の変化を思わせてもくれている。これはこれまでのアニメの視点なのだが、それでも充分観られる。 それにアニメでこんなにキャラに感情移入したのも久しぶりだ。実際雨の自立の過程を自分自身に置き換えて観てしまっていた。 しかし、本作の最大の功績はやはり“お母さん”だろうな。 粗はいくらでもあるし、それこそ言いたいこともいくつもある。でもこれだけ画期的なものを作られたとあっては、最高点あげずにはいられないだろう。 |
サマーウォーズ 2009 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2009日本アカデミーアニメーション作品賞 2009日本映画プロフェッショナル監督賞、第2位 2009キネマ旬報日本映画第8位 2009毎日映画コンクールアニメーション映画賞 2009ヨコハマ映画祭第8位 2009映画館大賞第6位 2009日本シアタースタッフ映画祭グランシャリオ賞、脚本賞 |
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ネットの中の仮想都市OZ(オズ)が人々の日常生活に深く浸透している近未来。東京在住の高校2年生の小磯健二(神木隆之介)は、憧れの先輩である篠原夏希(桜庭ななみ)から夏休みのアルバイトを頼まれて夏希の田舎である長野県の上田市を訪れる。実は夏希の故郷は陣内家という上田の旧家で、夏希の祖母栄(富司純子)の90歳の誕生日を祝うために帰省してきたのだ。しかも、夏希は栄を喜ばせるため、健二にフィアンセの振りをするよう頼み込むのだった… 前作『時をかける少女』から早2年。細田守監督の最新作。前作の出来が良かったので、なんか一人で観るのは 面白かったか?と言われたら、確かに面白かった。与えられた設定を全部きちんとこなして物語に昇華させていたし、物語も軽快。文句言う筋合いはない。 だけど、素晴らしい作品だったか?と言われたら、微妙なところ。 敢えて言うなら、単純に面白い作品を観たと言うに過ぎず。心には迫ってこなかった。 これは元々の期待度が高すぎて、心に残る作品になって欲しいという先の思いがあったせいだろうとは思う。期待の大きさに見合うほどではなかっただけだ。 とりあえず自分の考えをまとめるためだけに、良い部分悪い部分を全部ひっくるめてまず本作を枠組から見てみよう。 本作の目的は三つあるかと思う。 一つは、大家族の絆の強さ。田舎には今でもこう言った大家族は残っているが、これがかなりうっとうしくも、いざとなったときの決断力の強さは無双で、どんな危機にも負けない家族の強さってのがある。その楽しさとちょっとした心地悪さを描こうとしている。 そしてもう一つは、仮想現実と現実世界の狭間に生きる人間を、仮想現実を肯定しつつ現実世界にも楽しめる人間への成長過程を描こうとした。 とりあえずはこの二つの設定が柱となって本作は展開していく。その意味で主人公健二の存在はそのままキー・ポイントとなる役割を担っている。彼は元々現実世界よりも仮想現実(と言うか、数字パズル)の方に居心地の良さを感じているタイプの人間で、しかも東京では両親ともなかなか一緒にはいられず、その意味でも孤独を感じている。 そんな男の子が突然田舎の大家族に放り込まれてしまったら、当然戸惑うし、慣れるまでに相当に葛藤を必要とする。 まずその課程を描きつつ、偽りの婚約者という立場から夏希との関係を深めていく物語に出来る。 この結果、破綻ない物語が紡ぎ出されていった。(宮崎駿が参加しない)ジブリ作品としても通用するくらいの明るくストレートな良さを演出できたし、更にここにSF要素を絡めて細田監督ならではの良さも出す事はできた。 …ただ、そこに余計な要素を入れすぎた。 キャラが多すぎるのだ。 ここに陣内家の厄介者侘助や、OZの格闘技チャンピオン佳主馬の存在が入ってくる。この二人の成長も描かれるのだが、上記の二つの柱の中で健二とかぶる部分が多すぎるため、健二の存在を食ってしまった。更にそこに叔父の侘助に憧れを抱く夏希が、自分の心を整理する所まで描くとなると、時間が足りなすぎる。 最後に目的の三つ目。本作はかつて細田監督が劇場に投入したアニメ作品『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』との設定を見事にトレースしている訳だが、『デジモン』は僅か40分だったため、入れたいストーリーも諦め、そのリベンジのつもりで本作を作ったのかもしれないんだけど、この話、そこまで持っていく必要があったんだろうか?田舎の大家族の物語だけで充分話は成り立つのだから、そこまで大きく風呂敷を広げる必然性が感じられない。 おばあちゃんの死も含めて田舎の大家族の話だけで充分すぎるほど詰めすぎてるのに、そこに「世界の危機」まで出てしまうとあっては、どれだけ時間を必要とするやら。こんなの2時間でまとめられるはずがない。 …いや、それで破綻無くまとめている所に本作の凄さがあるのか。この一事でも細田守という監督の実力がうかがえる。ただ、まとめるために払った犠牲も大きい。 この広げるだけ広げた風呂敷を畳むためには、物語の過程というものを全て無視せざるを得なかった。そのため無前提で天才プログラマー、天才格闘家(ゲーム内のだが)、スーパーコンピュータを店におく電気屋、山の中に突然現れる漁師、数学オリンピックに出るほどの数学の実力者、無敵の花札プレイヤーとかを出さないと物語は収まってくれなかった。そして一人一人に焦点を当て、それこそ何度もオチを付けさせることで、なんとか話を持っていった感じ。 特に健二、侘助、佳主馬の三人のキャラはもっと整理できたはず。せめて一人減らすべきだった。 主人公であるにかかわらず、健二の存在感が薄いし、せっかくの恋愛ものなんだからもうちょっと健二と夏希との葛藤も描いて欲しかった。破綻は無いけど、その分薄い物語になってしまった。 |
時をかける少女 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006日本アカデミーアニメーション作品賞 2006毎日映画コンクールアニメーション映画賞 2006報知映画特別賞 2006ヨコハマ映画祭第10位 2007allcinemaONLINEユーザー投票第5位 |
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高校2年生の紺野真琴は、間宮千昭、??といつも3人でつるみ、楽しい高校生活を送っていた。そんなある日、化学実験室で不審な物音を聞き、原因を探しているうちに妙な種のようなものを踏みつけてしまった。そしてその帰り道、踏切事故をきっかけに“タイムリープ”という不思議な能力を身につける。その使い道を覚えてから、真琴の生活は一変した。些細な問題でも簡単にタイムリープで解決することができるようになり、それに有頂天になっていったのだ。そんなある日、真琴は突然千昭から告白されてしまい、狼狽した真琴はタイムリープで告白そのものをなかったことにするのだったが… 筒井康隆による古典的名作SFを細田守監督がアニメ化。これまでテレビ、映画と様々な媒体で映像化されてきた。特に大林宣彦監督の手による『時をかける少女』(1983)は、主演の原田友世の可憐さもあって大ヒットしてる。 それでも実質的にアニメ化は初めてのこと。それで映像化に当たり、設定部分以外はすべて新規に書き起こし、全く違った魅力を付けることに成功した。 私にとっては細田監督作品初体験になるが、この監督の丁寧さには正味感心した。100分弱の時間内を上手く活かした演出はさすが。の一言。ストーリー運び、キャラクタの魅力、伏線の回収方法など、一種の名人芸と言っても良いくらい。気がつけば全く時間を気にすることなく最後まで観てしまい、心地よいため息と共に映画館を後にすることができた。 特にキャラクタ描写は、主人公の真琴が本当に生き生きと動き回っていて、子供向け作品で培ってきた躍動感が遺憾なく発揮されていたのが何と言っても強みだろう。絵そのものはさほど緻密ではない、本当にアニメ絵なのだが、割りとあっさりした貞本キャラを活かすのは、美術的な美しさではなく、躍動感であると言うことを改めて感じさせてくれる。ストレートな分、内面描写をかなり単純化している印象も受けるけど、本作の場合はそれがプラスに働き、心地良い気分にさせてくれる(一見アクション大作に見せて実は内面を掘り下げる作りの『ゲド戦記』(2006)とは対極にあるような作品とも言える)。 ストーリーの起伏も絶妙で、あれ?終わりか?と思わせたところでちゃんと引っ張るメリハリのつけ方も良し。映画は限られた時間なので、途中で時計を見させたらダメ。見ずに済ませられたのもこの演出のおかげだ。それに結構旧作映画版のオマージュにもあふれているため、旧作好きだったら是非お勧めしたいところだ。 そう言う意味では映画館で観て正解だった。ビデオでは味わうことのできない臨場感を味わうこともできた。 …と、まあ、概ねは褒めるところばかりなのだが、やはりアラってものもあるわけで…特にタイムトラベルものの作品はどうしてもそれは出てきてしまう。個人的な話になるが、つい先日『サマータイムマシン・ブルース』(2005)という秀作設定作品を観た後だと、観てる間にもその辺は出てきてしまう。細かいところはいくつかある。けど、致命的な点がひとつ。 この作品には二人のタイムリープ者が出てくる。タイムリープには回数制限があるのだが(多分三人がこんなに仲良くなれたのは千昭が何度か過去を書き換えたのだろう。それで千昭の使える回数が少なくなっていたと思われる)、二人が交互に過去に行けば、タイムリープの回数が増えると言うのが本作の肝になっている訳だが(要は片方がタイムリープを使わなかった過去に行けば良いだけの話)、これは実は大きな落とし穴で、ラスト部分、千昭は「真琴がタイムリープを使えなかった」時間へ戻ることができたのだ。千昭はすでにタイムリープの種?がどこにあるのかを知っているし、それを回収するだけで、すべては「起こらなかった」過去へと書き換えてしまえる。実はそれだけで事は終わってしまうのだ。真琴に忠告だけして、放っておく千昭の行動はあまりに馬鹿げて見えてしまう。 それに、どこまで過去に遡れるか?と考えると、真琴は手つかずの種を手にすることもできたのに、ラストでわざわざチャージが終わった瞬間の過去に戻っているのも疑問。ほんの数秒前に戻って、種を手に千昭に会いに行った方が良くはないか?それにこの方法を使えば、そもそも種はいくつでも手元に置けるわけなんだが… と、この辺を“劇中に”考えてしまったのが問題で、最後の最後まで完全に楽しめなかったのはやはり問題かと。褒めることの多い良作ではある。だが、私の中では後一歩で名作になり損ねた。 |
デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム! 2000 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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デジモンアドベンチャー 1999 | |||||||||||||||||||||||||||
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