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2019 | ||
2018 | ||
2017 | ||
2016 | スーサイド・スクワッド 監督・脚本 | |
2015 | ||
2014 | フューリー 監督・制作・脚本 | |
サボタージュ 監督・製作・脚本 | ||
2013 | ||
2012 | エンド・オブ・ウォッチ 監督・製作・脚本 | |
2011 | ||
2010 | ||
2009 | ||
2008 | フェイク シティ ある男のルール 監督 | |
2007 | ||
2006 | ||
2005 | バッドタイム 監督・製作・脚本 | |
2004 | ||
2003 | S.W.A.T. 脚本 | |
2002 | ダーク・スティール 脚本 | |
2001 | ワイルド・スピード 脚本 | |
トレーニング デイ 脚本 | ||
2000 | U−571 脚本 | |
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | イリノイ州シャンペンで誕生 |
スーサイド・スクワッド 2016 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016米アカデミーメイクアップ&ヘアスタイリング賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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スーパーマンが死去して数ヶ月後。デミヒューマンの脅威はこれからますます増大していくと判断した政府高官のアマンダ・ウォーラー(デイヴィス)は、特殊な能力を持つ凶悪犯の体に爆弾を埋め込んで部隊として働かせることを提案していた。その結果集められた凶悪犯の面々。だがその隊長となるはずだった古代の魔術師エンチャントレス(デルヴィーニュ)が突然反乱を起こした。弟の魔神を蘇らせた彼女は、近づく人間を次々に自分の兵士に仕立て、王国を樹立する。彼女の野望を粉砕するため、スーサイド・スクワッドは急遽投入される。そんな中、メンバーの一人で恋人のハーレイ・クイン(ロビー)をどさくさ紛れに奪取しようとジョーカー(レト)も暗躍を開始していた。 マーベルに対抗するように、老舗のDCも又ヒーロー作品を次々に投入していった。これまでにも『グリーン・ランタン』(2011)、『マン・オブ・スティール』(2013)、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)と続けられていたが、これがどうにも上手くいってないのが現状である。実際3作品を並べてみたが、これと言って「すげえ面白い!」と言える作品がない。ヒット作連発中のマーベルとは大きく水をあけられてしまった。 特に前作である『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』は初のスーパーマンとバットマンの対決ということで話題になっていたのだが、いざ蓋を開けてみたらいつもの戦隊VSシリーズとストーリー的にはなんら変わりが無く、肩すかしも良いところ(演出面は格段の違いはあるけど)。 興収も振るわず、DC独占契約を果たしたワーナーとしては、ここらで一本当たりをぶつけてやらないと、ヒーローもの自体が作れなくなってしまいかねない。 そんな逆風の中、作られたのが本作となった。企画自体は結構前からあったらしいのだが、基本的に本命はスーパーマンやバットマンが共闘するジャスティスリーグの方で、本作の企画自体は「DCにはこんな脇道もありますよ」という邪道として捕らえられていたようだ。 ところがこれまでの正統な企画がことごとく外れた上で投入された本作は、逆に正統派の作品よりもかえって受けてしまった。 本末転倒とも言えるのだが、これにはちゃんとした理由付けは出来る。 これまで正統派として作られた作品はどうにも作品自体が歯がゆすぎたのだ。 正統派の物語を作るにあたって前提とされたのは、ヒーロー像を崩すことなく、文学的に仕上げたらどうか?というものだったと推測される。それは確かにフォーマルな選択肢だったとは思うのだが、残念ながら今の映画ではそれはちょっと合わない。本音言わせてもらえれば、当たり前のヒーロー作品なんて既に食傷なのだ。 では何故ここまでヒーロー作品がヒットしているのか。それはヒーローの物語に付加価値を入れる、若しくはヒーロー路線から大きく外れてお祭り騒ぎにしてしまうか。それが出来ているから今も受けているのだ。 付加価値というのは、現代でヒーロー作品を作るに当たり、現在の世界を見回してみて、そこにある閉塞感やらやりきれなさというものを提示して、ヒーローこそがそれを打破できるのだ!とぶち上げるか、さもなくば現在の世界情勢そのものをヒーロー達に演じさせるというもの。マーベルの作品だと、前者が『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011)や『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014)であり、後者が『シビル・ウォー キャプテン・アメリカ』(2016)というのがあって、きちんと現代の世情を反映したものが作られている。 又、突き抜けた作品としては『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)やら『アントマン』(2015)が作られていて、意外に隙がない。 対してDCはどうか。世情を反映した作品があるのか?と言われると、一応傑作『ダークナイト』(2008)があるが、この作品はDCというよりはクリストファー・ノーラン作品と言うべきものだし、それ以外は現時点では全く作られてない。そして突き抜けた作品があるのか?と言われると、これもない。折角ライアン・レイノルズという逸材を使っていながら『グリーン・ランタン』がこけたのも大きい。 結果としてDC対マーベルの構図で、DC側は全く良いところがないままになってしまった。 そんな時に投入されたのが本作。 悪役が活躍するという本作の設定は、まさしくお祭り騒ぎにはぴったりの素材であり、どれだけぶっ飛べるのか?というコンセプトはこれまでのDCには無かった新境地を作り上げてくれていたわけである。 その結果として、「あ、なんだ。DCもやるじゃん」というレベルまでには到達できた。お陰で久々のスマッシュヒットを放つことが出来た。ようやくこれでDC側もこれまでの作り方の間違いに気が付いたかも知れない。 それでは本作ならではの魅力を考えてみたい。 基本的に本作は悪人ばかりが出てくるため、自分の欲望に忠実に動く者ばかり。爆弾積んで無理矢理言う事を聞かせているものの、隙あれば逃げようとするし、面倒くさいことはしようとしない。僅かに残る正義感も長続きはしない。 そんな奴らが、ストーリーを進めていくに連れてそれでも仲間意識を持つようになり、お互いをフォローし合えるようになっていくという構成が結構良かった。単純かも知れないけど、こう言う成長過程を通じてこれまでのDCには無かった「燃える展開」ってのが本作にはあったことが一番重要だろう。だからその点に関してはとても良かった。 そしてキャラも個性溢れててなかなか魅力的。一応本作はそれなりにまともなウィル・スミスのデッドショットになるんだろうけど、遥かにぶっ飛んでるハーレイ・クインの方が遥かに魅力的だし、それぞれに暗い過去を持ち、それを行動のモチベーションとしている面々の個性も良し。 更に言わせてもらうと、本作では何といってもレト演じるジョーカーが魅力的。これまでの映画版ジョーカーとは全く違ったキャラ作りとなっているのだが、実はこの私が思い描いていたジョーカーとは、まさにこう言うキャラだった。 ジョーカーとはどういう人物なのか。それは一人一人解釈は違っているだろうけど、私の考えるジョーカー像というのがこれである。超天才で何でも出来てしまう上に悪魔に魅入られたレベルで超絶に運がいい人間である。こう言う人物は人生にとにかく退屈してしまう。何をしても上手く行ってしまうために金はいくらでも入ってくるし、更に努力が必要ないから、生き甲斐を持てない。だから常に自分の命を的に遊び続ける。どんなことをしても強運で生き残ってしまうが、だからいつ死んでも構わないという思いになって死にそうな遊びをする。本作でハーレイ・クインを助け出そうとしてるのも、恋人だから助けようというのよりも、死を前にすることが最高のスリルだからという理由に過ぎない。 自ら進んで最高にイカれた存在になってしまうというのがジョーカーである。本作では描かれてないが、そんなジョーカーだからこそ、バットマンに執着する。どんなことをしても自分よりも上手く行く人間がいる。それだけで凄まじいエキサイト感であろう。こいつを越えるにはどうすればいいか。それを考えた時に、初めて努力することが出来た。ジョーカーにとってバットマンはライバルよりも、自分を救ってくれた恩人なのだ。だからバットマンを愛する。そして絶対に殺してやると誓える。歪みきってるけど、最も純粋な愛をバットマンに注ぎ込むのがジョーカーの生き方。 まさしくそんなジョーカーが見られたというだけで、本作はとても好ましい。ジョーカーが脇役に過ぎず、ロビン(多分過去ジョーカーが殺したことが『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で暗示されていた)を挟んだバットマンとの愛憎劇を観てみたかったところではあるが、それは望みすぎかな? …色々理屈を言ったが、私にとってこの作品で言えることは一つ。「ジョーカー最高!」と言う事になるかな? |
フューリー 2014 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2014日本アカデミー外国作品賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ノルマンディ上陸以来快進撃を続ける連合軍は、ついにドイツ国内へとその歩みを進めていた。そんな中、フューリーと名付けられた戦車M4シャーマンはウォーダディー(ピット)の指揮下、アフリカ戦線から戦い続けていたが、そこに副操縦士として補充兵ノーマン(ラーマン)が配属されてきた。元々タイピストであり、書類上の間違いで戦車隊に配属されたノーマンは、戦争の現実を目の当たりにして… 第二次世界大戦時のアメリカ軍主力戦車M4“シャーマン”を中心とした戦争映画。第二次世界大戦を舞台にした戦争映画は数あれど、これだけ一台の戦車のみにこだわった作品は珍しく、故にこの作品は戦争映画ではなく、“戦車映画”と呼びたい。本物にこだわったという本作は、博物館にある本物の戦車を借りだして撮影に用い、特に戦後作品では本物のドイツ軍のティーガーが映画に使われたのは初めて(現存する唯一の稼働するティーガーTを用いているとのこと)。 本作の魅力の最大の部分はまさに、本作は徹底して戦車映画であるということ。これに尽きる。 これまでに幾多の戦争映画は作られ、戦車の登場する作品も多くあるが、戦車の運用まできちんと描いたものはほとんどない。 その描写で言うなら、まずシャーマンの搭乗員5人がきちんと全員役割分担が出来ていたと言う事。当これはたり前の事なのだが、その当たり前の事がこれまでほとんど顧みられてなかった。シャーマンは5人乗りで、それぞれ車長、砲手、装填手、操縦手、副操縦手(機関銃砲手)の役割を持つ。ノーマンを除く登場するキャラは全員その道のプロであり、自分の役割をちゃんと果たしていた(余談だが、これがちゃんと出来てたのは日本のアニメくらいだったりする)。 そして戦車の運用方法も、ちゃんと歩兵との連携を取っている。そもそも第一次世界大戦で登場した戦車の存在意義は、動く遮蔽物だった。歩兵戦において敵の攻撃をその身に受けても破壊されずに動けること。そしてその背後に付き従う歩兵が敵を掃討するという運用だった。第二次世界大戦になってより戦いは機械化されるようになり(戦車の単独運用法を編み出したのがドイツ軍で、それが当初の電撃作戦成功に結びついた)、戦車同士の戦闘も行なわれるようになったが、主な戦闘では戦車は歩兵と共に行動することが基本的な戦術だった。これまでの映画ではそれが描かれている作品はそう多くない。戦車は戦車。歩兵は歩兵という具合に戦いは分業化されて描かれることがほとんどだ(理由としては、「そんな些事なこと」と「戦車は戦車同士の戦いが華なので、それ以外の運用は画面映しないこと」なんだろうか?)。 そして何より本作の最大の魅力は、戦車がシャーマンであること。上記の2つの理由も包含しているのだが、このシャーマン戦車は機動性に優れた中型戦車であり、その特性を活かした運用がされたということになる。それはつまり歩兵のための遮蔽物として、又先行して橋頭堡を築くための機動部隊として。防衛のために作られていないので、その運用は対人であり、主砲も建物破壊が主。これはつまり、これまでの戦争映画で描かれていたような、対戦車のための戦車ではないということ。同じ戦車といっても、用途が違うので対戦車用に作られた大型戦車と戦闘をしたら、ほぼ確実に敗退する。本作ではフューリー号が主砲をぶっ放してる時、ドイツ兵に対したり、建物を破壊する時は絶大な威力を発揮するが(特に人に対しての時の威力は凄まじく、砲弾が通過したその衝撃だけで人間が粉砕される描写まである)、ティーガーと戦う時は、直撃してさえ装甲に弾かれてしまう。その辺、ちゃんとシャーマンであるという必然性がちゃんと描けている訳だ。 他の戦場の描写も情け容赦無く、視聴者の代理人であるノーマンが味わうことになる残酷な現実を次々に叩き込まれるが、よくぞここまで!という出来。直接の描写のあるなしもあるが、瞬間的に心を通わせた人間が次の瞬間には死体になっているとか、家族のもとに帰りたいと泣き叫ぶ敵兵を無慈悲に射殺するとか、泥道に埋まった死体を戦車で通過するとか、まあよくここまでやったもんだ。 正直、ここまでやってくれたら、もう何も言うことがない。ほんとに素晴らしい。 さてそれで物語なのだが、これもかなりの水準にはまとまっている。 本作の物語の重要性はいくつかある。 一つには、本作がたった一日の出来事であること。本物の戦場に叩きこまれた素人が短時間でとんでもない量の経験をつまされ、次の日の朝には歴戦の勇者になっていくという濃密な時間を描く成長物語として。 実際ノーマンが一日で積んだ経験はとんでもないもの。辞令を受けて戦車のところにやってきたら、肉片やら目玉やらがこびりついた副操縦席の掃除をやらされ、その後の進軍ではドイツの少年兵の攻撃を受け、それを撃たなかったことで多くの仲間を失う結果となった。その後の防衛拠点の攻略で初めて銃で人間を撃ち、占領された町で童貞を捨てて瞬間的に愛情が燃え上がり、その後圧倒的存在感であるティーガーと戦車戦を行なって死ぬ思いをして、歴戦の戦士たちの評価を受けて戦士としてのニックネームを付けられ、今度は動かなくなったフューリー号に立て籠もった籠城戦。ウォーダディーの判断力の正しさもあるが、基本的には全て偶然で生き延びていくことになる。そんなヒリヒリした緊張感が、一日で人間をここまで成長させるということを描いている。画面に最初に出てきた時のノーマンの目つきが最後になってとてもきつくなっているのがとても印象深いところだ。 映画は尺の問題があるので、短期間で一気に人間を成長させる物語構成を取ることがある。典型的な例はロード・ムービーで、トラブル続きの旅をすることで、たびに出る前と後で性格が変わる場合がほとんど。それを戦場に置き換えることで、一人の人間の成長物語として濃密な時間を演出することが出来た。極端な例かもしれないが、これも又、ロード・ムービーの一種として考えることも可能だろう。 二点目として、ウォーダディーという魅力的な人間を配することによる物語のまとめ方。この人物の描かれ方は結構複雑。暴力的で人を人と見てないようなところがあったと思うと、部下のことを何より信頼し、何くれとなく様々な便宜を図ろうとしている描写があったり。暗く淀んだような目つきでマイナス思考垂れ流しながら、下品にならないジョークでさらりと場を流したり。無教養で粗野なようでありながら聖書を諳んじてみせたり。とかく強烈な個性を発揮する人物。普通映画では“いい人と悪い人”“敵と味方”“尊敬すべきか唾棄すべきか”という白か黒かという二面性に分かれがちだが、そんな描き方はされてない。とにかく強烈な個性を持った人物としてのみ描写されている。ただ、彼の指示に従うことで戦場で生き残る確率が高まるという、その一点があるために部下からは絶大な信頼を得ているわけだ。ブラピがそんな役割を実にうまく演じていた(『イングロリアス・バスターズ』と似た役とも言えるか)。 三点目。本作の場合、これが大変重要な部分なのだが、この殺伐とした環境において、この作品では度々聖書の言葉の引用が出てくる。前半では主にバイブル(ラブーフ)が唱えていているのだが、敢えて無意味な言葉の羅列のように聞こえるように構成される。あたかもこんな戦場では宗教は無意味であるということを強調するかのようだが、それが中盤以降少しずつ変化していくようになる。一瞬一瞬に命が助かった後でのバイブルの言葉は不思議な説得力を持つようになっていくのだ。更に後半になると、意外にインテリなウォーダディーが度々聖書を引用するようになっていくにつれ、だんだんと物語構成が宗教じみてくるようになる。 これは別段キリスト教をモティーフにするのではなく、わかりやすい形で聖書を引用しているのに過ぎない。むしろ本作はそういう側面を持たせることによって、神話性を深めようとしているようだ。ここにおいてはフューリー号がご本尊であり、ウォーダディーがシャーマンとして存在する。ウォーダディーが部下に対する責任感を持つのも、信者に対して責任をもつという表れであり、フューリー号に執着した理由もそれで明らかになる。 この手法は、イーストウッド監督が自分の作品の中で何度となくチャレンジし続けていることなのだが、それが上手くいきはじめたのは『許されざる者』あたりから。相当な試行錯誤の上でやっとものに出来たという経過を知っている身としては、本作でそれを使っているのを見せられると、なんか「まだまだ」と言ったところ。もう少しこなれて、宗教性をうまく表現できるようになったら、すごい作品が出来るような気もする。そんな意味で、これから是非さらなる成長を期待したい監督が一人できた。 |
サボタージュ Sabotage |
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