|
|
||||||||||||||||||||||
本名John Marcellus Huston | |||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||
|
1987 | 8'28 死去 | |||||||
ザ・デッド 「ダブリン市民」より 監督 | ||||||||
1986 | モモ 出演 | |||||||
1985 | 女と男の名誉 監督 | |||||||
|
||||||||
1984 | 火山のもとで 監督 | |||||||
1983 | ヤング・ジャイアンツ/奇跡のイレブン 出演 | |||||||
大統領の堕ちた日 出演 | ||||||||
1982 | アニー 監督 | |||||||
吹きだまりの町 ナレーション | ||||||||
1981 | ||||||||
1980 | 勝利への脱出 監督 | |||||||
1979 | ライネマン・スパイ作戦 出演 | |||||||
ジャガーNO.1 出演 | ||||||||
ザ・ビジター 出演 | ||||||||
1978 | ||||||||
1977 | テンタクルズ 出演 | |||||||
ザ・ビッグ・バトル 出演 | ||||||||
1976 | ロジャー・ムーア/シャーロック・ホームズ・イン・ニューヨーク 出演 | |||||||
1975 | 王になろうとした男 監督・脚本 | |||||||
ブレイクアウト 出演 | ||||||||
風とライオン 出演 | ||||||||
1974 | チャイナタウン 出演 | |||||||
1973 | 最後の猿の惑星 出演 | |||||||
1972 | ロイ・ビーン 監督 | |||||||
マッキントッシュの男 監督 | ||||||||
ゴングなき戦い 監督 | ||||||||
1971 | 荒野に生きる 出演 | |||||||
1970 | マイラ 出演 | |||||||
秘境の果てを行く 出演 | ||||||||
デザーター/特攻騎兵隊 出演 | ||||||||
1969 | クレムリンレター/密書 監督・脚本 | |||||||
華麗なる悪 監督 | ||||||||
愛と死の果てるまで 監督 | ||||||||
異常な快楽 出演 | ||||||||
1968 | キャンディ 出演 | |||||||
1967 | 007 カジノ・ロワイヤル 共同監督 | |||||||
禁じられた情事の森 監督・脚本 | ||||||||
1966 | 天地創造 監督・出演 | |||||||
1965 | ||||||||
1964 | イグアナの夜 監督 | |||||||
1963 | 秘密殺人計画書 監督・出演 | |||||||
1962 | フロイド/隠された欲望 監督・製作 | |||||||
枢機卿 出演 | ||||||||
1961 | 荒馬と女 監督 | |||||||
1960 | ||||||||
1959 | 許されざる者 監督 | |||||||
1958 | 自由の大地 監督 | |||||||
黒船 監督 | ||||||||
1957 | 白い砂 監督・脚本 | |||||||
1956 | 白鯨 監督・製作・脚本 | |||||||
1955 | ||||||||
1954 | ||||||||
1953 | 悪魔をやっつけろ 監督 | |||||||
1952 | 赤い風車 監督・脚本 | |||||||
1951 | アフリカの女王 監督・脚本 | |||||||
1950 | 勇者の赤いバッヂ 監督・脚本 | |||||||
アスファルト・ジャングル 監督・脚本 | ||||||||
1949 | ストレンジャーズ6 監督・脚本 | |||||||
1948 | キー・ラーゴ 監督・脚本 | |||||||
黄金 監督・脚本 | ||||||||
1947 | ||||||||
1946 | 三人の波紋 原案・脚本 | |||||||
ストレンジャー 脚本 | ||||||||
1945 | ||||||||
1944 | ||||||||
1943 | ||||||||
1942 | 追憶の女 監督・脚本 | |||||||
1941 | マルタの鷹 監督・脚本 | |||||||
ヨーク軍曹 脚本 | ||||||||
ハイ・シエラ 脚本 | ||||||||
1940 | 偉人エーリッヒ博士 脚本 | |||||||
1939 | 革命児ファレス 脚本 | |||||||
1938 | 犯罪博士 脚本 | |||||||
黒蘭の女 脚本 | ||||||||
1937 | ||||||||
1936 | ||||||||
1935 | ||||||||
1934 | ||||||||
1933 | ||||||||
1932 | 北海の漁火 脚本 | |||||||
モルグ街の殺人 脚本 | ||||||||
死の拳銃狩 脚本 | ||||||||
聖ジョンソン 翻案 | ||||||||
1931 | ||||||||
1930 | 嵐 脚本 | |||||||
1929 | ||||||||
1928 | ||||||||
1927 | ||||||||
1926 | ||||||||
1925 | ||||||||
1924 | ||||||||
1923 | ||||||||
1922 | ||||||||
1921 | ||||||||
1920 | ||||||||
1919 | ||||||||
1918 | ||||||||
1917 | ||||||||
1916 | ||||||||
1915 | ||||||||
1914 | ||||||||
1913 | ||||||||
1912 | ||||||||
1911 | ||||||||
1910 | ||||||||
1909 | ||||||||
1908 | ||||||||
1907 | ||||||||
1906 | 8'5 ミズーリ州ネヴァダで誕生 |
女と男の名誉 Prizzi's Honor |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヒューストン監督の娘アンジェリカはこれで助演女優賞でオスカーを得る アンジェリカの共演者であるニコルソンとは同棲関係にあった ヒューストン監督によるブラックコメディ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
ザ・デッド 「ダブリン市民」より 1987 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1987米アカデミー脚色賞、衣装デザイン賞 1987 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
アニー 1982 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
コミックの「小さな孤児アニー」を原作とする舞台劇で初演は1977年。話は単純ながら、ヴェトナム戦争に疲れた国民はこれを新鮮として受け止めた。ヒューストン監督はミュージカル初挑戦だったが、むしろ大人を対象とした作品に仕上げた 1982年全米興行成績9位 |
勝利への脱出 1980 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
ヒューストン監督晩年の傑作。現役サッカー選手が大挙して登場する。 |
王になろうとした男 1975 | |||||||||||||||||||||||||||
1975米アカデミー脚色賞、美術監督・装置賞、衣装デザイン賞、編集賞 1975英アカデミー撮影賞 |
|||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
19世紀末。ピーチ=カーネハン(ケイン)とダニエル=ドレイボット(コネリー)は黄金を求め、アレキサンダー大王の遠征以来白人が足をふみ入れたことはないというヒマラヤの奥にある伝説の都市カフィリスタンへの冒険に出発した。数多くの冒険を経て二人はついにカフィリスタンへと到着したが、そこでダニエルは一つの部族の軍事顧問として雇われ、英国式の軍事教練をほどこすことに。やがてその部族は他の部族を従え、ついにダニエルは救世主として、カフィリスタンの王にまで上り詰めるが… ヒューストン監督が、長年暖めていたという企画で、コネリーと組んでキプリングの小説を映画化。 ヒューストン監督は『黄金』(1948)以来、人の欲というものを事ある毎に描いてきたが、その集大成とも言える。これまではある程度の目的があって、その目的を果たした後で落とす。と言う事だったのだが、本作の場合は、その欲が止まらなかった場合を描いている。金とかと違って権力の場合は本当に際限がないのだろう。一旦手に入れたらそれに満足出来なくなり、どんどん高みに登っていこうとする。現実に対する皮肉と取る事も出来るし、一旦検挙句の座に上ったら、最後まで突き進まねば気が済まないという人間性を描いた作品とも取ることが出来るだろう。 ただ、本作のコネリーは何を考えているのか今ひとつ捉えきれない淡々とした表情をしているので、果たしてそれだけなんだろうか?と思わせてくれるのがコネリーの巧さなのかも知れないな(転落のきっかけとなった平民の娘との結婚も、神となった自分の権力がどこまであるのか試してみようとしたとも取れる)。今回はとても寡黙な役なので、その分ケインがペラペラとよく喋っていてバランスを取っている。コネリーを引き立てる役だが、この人も芸達者だね。二人の掛け合いが結構はまってた。アメリカ映画なのに主人公二人がイギリス人ってのが面白いね。 それに本作の場合、ヒマラヤを舞台としていると言うだけあって雄大な景色がとにかく綺麗。これだけ雄大な自然の中、欲に駆られた人間はやはり惨め。その辺の対比も面白いね。 …こう書いてみると、本作は“対比”というのが多用されているんだな。 ちなみにヒマラヤ奥地の住民がひざまずくのは実はフリーメイソンの紋章。割と映画ではよく出てくるアイテム。 |
ロイ・ビーン 1972 | |||||||||||||||||||||||||||
1972米アカデミー歌曲賞 | |||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||
19世紀末のテキサスに女優リリー・ラングトリー(ガードナー)を愛する無法者ロイ・ビーン(ニューマン)がやって来る。彼は町の悪党共を一掃して判事として君臨、気に食わない奴は誰でも首吊りにしていくのだった。無茶苦茶なやり方ではあったが、彼によって町の治安は良くなり、徐々に人がやってくるようになった。だが、この町の近くで石油が取れるようになってくると、彼のやり方に反発する人間が出てくるようになってきた。そんな時、あこがれの君リリーがテキサスにやってくることを知ったビーンは身重の妻を残し、一人リリーの舞台を観に行くのだが… “首つり保安官”の異名を取る実在の人物を題材に取った、ジョン・ヒューストン監督、ジョン・ミリアス脚本、ポール・ニューマン主演という、非常に魅力ある顔合わせで作られた作品で、非常に個性のある人間が集まって作った結果、出来たものは異色と言っても良い西部劇。 本作の特徴としては、物語が一貫しておらず、基本は小編の連続で物語が形成されているという点。その小編も、時にはしんみり、時にはやるせない思いをさせ、時に笑わせてくれる感じで、緩急取り混ぜて飽きさせない。特に前中盤を通してユーモアのセンスに溢れた作りは実に好感が持てる。ビーンがメキシコ人の妻を娶るあたりの駆け引きや、夫を信用している割りに嫉妬深い彼女のキレぶりとかが上手くまとまっていた。殺人自体が罪悪感を持って描かれていないため、あっけなく殺されてしまう登場人物の描写がなかなか楽しい。後はやっぱり熊かな?熊と夫婦のつきあい方が実に面白い。 映画の2/3程度はそう言った雰囲気でほのぼのさせてくれるのだが、後半に入って一気に物語は暗転。ロイの妻が死に、ロイによって発展した町はやがてインテリに席巻されるようになる。そこで身の置き所を無くしたロイはついに一人去っていくと言う、急に哀しい描写に変わる。 そして、このタメが最後に爆発する。石油工場が乱立し、すっかり変わった町。確かに豊かになったが、そこには再び秩序が失われ、かつてのビーンの仲間も社会の底辺に押し込まれてしまう。こんな町に彼が帰ってくる。ここからの活劇はなんと言っても今までの溜飲を一気に下げるほどの格好良さ。年老いたビーンと仲間達、そしてビーンの娘の凛々しさ。それらが一緒になって凄く格好良いし、カタルシスもある。本来ビーンはこの時点で死んでいるはずで、亡霊のような存在のはずなのだが、それが何故かムチャに格好良い。あるいはビーンという存在を求める民衆の心が呼んだ、本当の亡霊だったのかもしれない。 そして最後、彼のいなくなった町に、彼のあこがれの君、リリーがやってくる。そのすっきりしたエンディング。構成は実に巧い。右翼系脚本家として知られるミリアスだけに、懐古主義が強いが、力で秩序を守っていた時代が、金による支配に取って代わられることを寂しく感じていたのかもしれない。 “異色西部劇”と呼ばれるだけのことはあるが、それも西部劇の楽しさを追求した結果だろう。是非一度観て欲しい作品である(ショットガンで人を撃ったら、大きな穴が出来てそこから景色が見えるとか、無茶苦茶な演出もある)。 尚、本作では脚本に徹したミリアスではあるが、これを監督してくれたお礼として後に監督する『風とライオン』(1975)でヒューストンを役者として起用している。 |
ゴングなき戦い Fat City |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
007 カジノ・ロワイヤル 1967 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1967米アカデミー歌曲賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
引退し、郊外の邸宅で趣味に生きる往年の名スパイ、ジェームズ・ボンド卿(ニーヴン)のもとへ英国秘密情報部のマクタリー(ヒューストン)、CIAのランサム(ホールデン)、ソビエト情報機関のスメルノフの3人が訪ねてきた。国際陰謀団スメルシュによって各国の情報部員達が次々と消され、その対処に追われた各国がボンド卿の出馬を懇請しにやって来たのだ。恋人だったマタ・ハリの死から未だ立ち直っていなかったボンドだったが、強引な説得により、重い腰を上げる。スメルシュの諜報部員ミミ(カー)による暗殺は失敗。ボンドはボンドの名を冠したスパイを何人も潜入させ、本物がどれか分からないようにする作戦を立てる。なんと7人にもなったボンド達はスメルシュに潜行作戦を開始するが… ジョン・ヒューストン、ケン・ヒューズ、ロバート・パリッシュ、ジョセフ・マクグラス、ヴァル・ゲストと言った、5人もの監督によって作られた007を元にしたパロディ作品。 一応ここでのボンドの移動距離はロンドン〜北フランス。多分このシリーズでは最も短い移動距離。だけど、一番撮影に金かかった作品(笑) 一応これは外伝という形を取っているが、007シリーズの原作者イアン=フレミングの原作に則っている作品(未読だが)。だから他のシリーズでスペクターとなってる悪の組織名が原作通りスメルシュになってる。それにしても、この豪華さはどうだ。5人の監督、超一流どころの登場人物。最早呆れてしまうほどのすさまじいストーリー。バカラックの音楽に乗ってノリノリで馬鹿やってるのだが、これが妙に面白い。 見所は多すぎるほどで、Mに扮したジョン=ヒューストンの鬘が爆風で吹っ飛んだり、デボラ=カーが自身の代表作『黒水仙』を思わせる尼僧姿で登場したり、テレンス=クーパーの「対美女スパイ訓練」で女性を次々投げ飛ばすとか、オーソン=ウェルズが存在感たっぷりに登場したと思ったらあっという間に退場したり、笑気ガスで全員笑いながらの活劇シーンがあったり、最後に登場する悪役のボスのドクター・ノア(おい!)があれれ?だったり(あれってセラーズのストレンジ・ラヴのパクリだろ?)本人出てるのに…この辺は真面目に観てはいけない。できるだけ笑いの沸点を低く取って、温かい目で見てやるのが正しい。このノリについて行けさえすれば、大変面白いものになるのは請け合う。ついて行けない人は、ご愁傷様。と言うしかないが(笑)…私だって、先に情報を頭に入れてなかったら、多分金の無駄遣いだと怒りまくってただろうな(笑)。それにしても、どれだけ金遣ったんだろう? それにバカラックの音楽「恋の面影」が見事にはまってる。彼の代表作の一つと言っても良いんじゃないか?ところでこの曲、筋肉少女帯の「ピクニック・アット・ファイアーマウンテン」および「ゴー!ゴー!ゴー!ハイキングバス」と言う曲にカバーされていて、そっちの方は知ってただけに、耳に付いてしまって… 計らずも馬鹿映画になった作品はとことんけなすけど、狙った馬鹿映画は絶対支持する!特にイギリス風のギャグだったら尚更に(笑)。それにもう一つ。私はセラーズの大ファンだし(笑)…あんまり褒めてないような気もするな(笑) |
天地創造 The Bible in the Beginning... |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1966米アカデミー作曲賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧約聖書の創世記におけるアダムとエヴァの誕生からノアの方舟を経、アブラハムまでの話の映画化。 “永遠のべスト・セラー″と言われる聖書の映画化作。聖書は新約と旧約とに分かれ、旧約聖書はユダヤ教と共通とされるため、ユダヤ教とキリスト教共通の神話となる。 そのためか直接映画になることが多くはなく、私が知る限りでは創世記そのものを映画にしたのは本作が唯一だと思う(これらをベースとした物語であったら、『エデンの東』(1955)とか色々あるけど)。壮大な神話的作風が楽しめる。 一見オムニバス風で、まとまりが見えないようにも見えるが、これが聖書の物語というものなのだろう。 ところで本作はイタリア映画として企画されていたそうだが、映画製作者ディノ・デ・ラウレンティスがアメリカ資本の元で製作したもの。スタッフ・キャスト共に蒼々たるメンバーが携されっており、欧米の一流スターが大挙して出演しているのも特徴。やはり聖書の物語に登場するのは箔が付くと考えたからだろうか?(日本からも音楽は黛敏郎が担当し、アカデミー作曲賞にノミネートされている)。 本作で演出されるバベルの塔のシーンだが、なんと121メートルもの高さの塔を実際に作ったのだとか(出てくるシーンは10分足らずだが) ところで神の声を吹き替えたのはデミル自身だと言われているが、自分が声を当てたと主張する人もいるらしい。今だったら声紋で分かりそうなもんだが、それをやってないのか、あるいは本当に複数の人間の声をごっちゃまぜにしてしまったのかも知れないな。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
荒馬と女 The Misfits |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西部にあるリノという町に二人の女性がやってきた。実はリノは離婚の手続きが出来る町で、アメリカのあちこちから人がやってくる町なのだ。その二人の女性は離婚の手続きを終えるが、その一人ロズリン(モンロー)はゲイ(ゲーブル)というカウボーイと知り合う。お互いに惹かれあった二人はこの町で新生活を始めることになるが… 当時モンローと結婚していたアーサー・ミラーの原作によるが、モンローのための役を書き足して映画化したもの。ゲーブル、モンローというハリウッドの二大スターを配し、大変気合いの入った作品で見せ場には事欠かず、ストーリーもしっかりしている。 ただ、ちょっと気になったのは、この作品、あまりにもパターン過ぎやしないか?と言うことだった。 ここに示される西部の男と気の強い都会の女と言う組み合わせは、ある意味ハリウッド的な典型的なパターンの一つ。乱暴に括るのならば、大体はこれは二つの方向性に別れる。 一つはコメディ、もしくは冒険譚を基調とする方向性で、最初は反発し合う二人だが、やがて意外に女性が芯の強さを見せ始め、男がそれに感心していき、やがて惹かれていくと言うパターン。これはハリウッド映画の黄金律の一つとも言えるだろう。この場合愛を語るのは一番最後になるから、そこに至るまでにアクションや見せ場が増えるし、色々な要素をぶち込める。 そしてもう一つはメロドラマを基調とする場合で、これの場合男と女は割合早く結ばれることになり、最初はお互いに協力しあい、愛の力で困難を乗り越えていくが、愛が醒めるに連れ、どうしようもない現実に互いにいらだちを深め、別れてしまうと言うパターン。悲恋に終わる事が多いが、これ又映画では良く使われるパターン。そして多分、本作が後者の代表的一本と言えるだろう。見事なくらいにティピカルにはまっている。 まさにこの映画はハリウッド的悲恋作品の様式美的作品。あんまりにもひねりがなくストレートすぎる。安心して観ることは出来るけど、この手の作品では衝撃を受ける事はさほどないし、当然ながら本作はそれ以上のものではない。 モンロー、ゲーブル共にこの作品が遺作となってしまったが、モンローは他の映画と較べて随分演技が良く感じる。彼女の映画の経歴の割にはあんまりにも初々しい感じだが、決して悪い訳じゃない。これは周りをベテランが上手く固めてくれたからだが、これが遺作となったのは少々残念かも。ひょっとすると女優としてもっと優れた才能を発揮していたかもしれないのだから。一方のゲーブルは随分渋くなった。そんな歳じゃなかったと思うのだが、彼も又本作が遺作となった(彼の死因は落馬によるもの。彼の唯一の子供は彼の死後に誕生する)。 ハリウッドの時代を作った二大スターの遺作として、どんなに平凡な出来で、評論的には駄作と言われようとも、多分この映画は映画史に残り続けることになるだろう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
許されざる者 The Unforgiven |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テキサスの平原に住むザカリー一家。牧場経営も上手くいき、幸せな生活を送っていたが、ある日、エイブという男がぶらりとやってきて、養女のレイチェルが実はカイオワ族の娘だと村中に触れ回るのだった。これにより、一家の上に暗雲が立ちこめる。レイチェルの婚約者チャーリーは殺され、村中から白眼視されるようになる。更にカイオワ族の族長ロスト・バードは「妹を返せ」と言ってくる。長男のベン(ランカスター)は「レイチェルは白人だ」と突っぱねるが、レイチェルに対する疑惑は高まっていく。既に死んだ父のウィルが何をしたのか。そして一家の行方は… ヘップバーン作品だというので、結構楽しみに観た記憶があるのだが、これはちょっと…って感じ。シャレにならないよ。これは。確かにランカスター、ギッシュ、そしてヘップバーン共に素晴らしい演技を見せてくれる(ヘップバーンは結構見事に馬も乗りこなしてるし)。しかし、である。なんだ?この物語は! 白人の勝手な都合で“ファミリー”を作ってしまい、それでネイティヴの言うことは無視かよ。もしそれが父親の贖罪だったというのなら、思い上がりも良いところだ。その“贖罪”のお陰でどれだけ死ななくても良い人間が死んだ?…これも運命という奴なのかも知れないけど、それを“良し”としてしまうのは、あまりに気持ち悪すぎる。 家族は単に血縁によって構成されるものではない。作り上げるものなのだ。と言う力強い“一家族の団結”という意味だったら、確かに理由付けは出来るし、物語はハードなものにせよ、受け入れられるのだが、ここに出てくる人間として扱われない存在の数々。どうしてもこれは受け入れることが出来ない。 一家族を作るために一体どれだけの人間を殺したら気が済む?しかも実の自分の兄を殺してまで、作り上げるのが家族なのか?どうにも生理的に受け付けない話になってしまった。ヘップバーン映画は基本的に好きだし、本作も演技者としては上手いと思う。だけど、やっぱり受け入れられない。 ちなみにヘップバーン、この映画で落馬によって流産してしまい、ヒッチコックからオファーを受けていた『No Bail For The Judge』が流れてしまったという。気の毒だし、ヒッチコック+ヘップバーンの映画は是非観たかったなあ。それも思うと、ますます点数を低くしてしまう。ごめんなさい。 本作は、ハリウッド・テンの一人であるベン・マドゥの復帰作とされている。さしもの赤狩りも、ようやくこの年になって終息したと考える事が出来る(ただしマドゥ自身は別名でいくつもの映画の脚本を書いていたらしいが)。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
黒船 The Barbarian and the Geisha |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1856年8月。タウンゼンド=ハリス(ジョン=ウェイン)は初の日本総領事として黒船に乗って下田に到着した。しかし、日本側は対応策を全く考えておらず、上陸に際しても、住居についてもハリスは下田奉行田村左衛門守(山村聰)とのやりとりに追われてしまう。しかも最初に見た異人と言うことで、村人からも恐れられる始末。そんな彼に対し、対応を迫られた田村左衛門守は、芸者のお吉(安藤永子)を身の回りの世話と称し、半ば密偵としてハリスの身の回りを世話させるのだが、方や厄介者として、方やその厄介者の妾と思われた二人の間には、やがて情のようなものが芽生え始めるのだった。だが、そんな時、アメリカから着いた船に乗っていた船員からコレラが村人に伝染し始め… 珍しい、アメリカで製作された本当に日本を舞台とした作品。一応本作は5ヶ月の間、日本ロケが行われたと言うことで、そこそこ描写は変には描いてなかったのは評価できる。 更に本作は主役を西部劇の代名詞ジョン=ウェインが演じている。貫禄のある彼のこと、アメリカ人の代表としては申し分ないが、やってることはやっぱり西部の正義の人だった。どんなに困難にあったとしても、自分の主張はあくまで通し、表情を崩さない…というか、弱音の顔は見せない。見事なタフネスぶりで、いつの間にか物事は解決…って、やっぱり西部の男だな。 そう考えてみると、本作は史実ではなく、ウェインという人物を通したエキゾチック・ドラマと見るのが正しいのだろう。 それと、どうしても気になるのがヒロイン役の安藤永子。日本の女性は常に一歩引いて。と言うイメージが先行したのだろうけど、その行動はどう見ても歯がゆいばかり。悲惨さを語らせるなら、やっぱりハリウッドでは駄目だったし、逆に強い女性を描くんだったら、行動ではなく芯で描いて欲しかった。 貴重な映画だというのは間違いないので、機会があったらご覧になることをお薦めする。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
白い砂 Heaven Knows, Mr. Allison |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1957米アカデミー主演女優賞(カー)、脚色賞 1957英アカデミー作品賞、男優賞(ミッチャム) 1957NY批評家協会女優賞(カー) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
白鯨 Moby Dick |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1956NY批評家協会監督賞(ヒューストン) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1814年、捕鯨の街マサチューセッツ州ニューベドフォード。初めての捕鯨船に乗り込もうとこの町にやってきたイシュメイル(ベースハート)はそこで友人となったクイグエグと共に捕鯨船ピークォッド号に乗り込む。船長エイハブはかつて“モビィ・ディック”と呼ばれる巨大な白いクジラに片足を喰いちぎられており、この航海の目的は白鯨の息の根を止めるためのものだった。やがて船の中にはエイハブ船長の狂気が伝染していく… メルヴィルの同名小説の、『海の野獣』(1925)、『海の巨人』(1930)に続く3度目の映画化作。主演も務めるペックが自身のプロダクションで製作し、SF作家ブラッドベリと組んだヒューストンが脚色、製作・監督にあたっている。1956年全米興行成績9位の好成績を残した。ペックはエイハブ役に並々ならぬ執念を見せ、特に最後の白鯨との戦いのシーンは体当たりで演じている(そのお陰で沖に流されて本当に沈みそうになったのだとか)。 高校の時の2時間続けての音楽の時間。これは時折「感受性を豊かにする」と称して音楽の先生がビデオで映画を流してくれた。そこで何本かの名作と出会うことが出来たが、本作もその一本。ただ2時間では観られない長さなので時折端折りながらだった。その欲求不満のお陰で原作にも挑戦したのだが、惹かれる部分の多い小説で、今でも時折何故か読みたくなる。不思議な魅力を持った作品だ。 それから約20年の歳月が流れ、再び見えることになった本作。それまでにそこそこ色々な映画を観てきたし、自然と本作に関する情報も集まっていた。総評を見る限り、さほど評価は高くない。 あの時に覚えた感動を、再び得ることが出来るだろうか? 内心少々緊張を覚えつつも拝見。 冒頭の瞬間に「あれ?」と声が漏れた。こんな月並みな始まり方だったのか?まさか冒頭に主人公の説明を長々入れるなんて映画だと褒められない方法を使ってる。大家のヒューストンらしくない演出じゃないか。脚本にブラッドベリが関わってるから、そっちの方に引っ張られたか?何にせよ冒頭から思いっきり失敗してるじゃないかよ。しかもご丁寧にエイハブ船長の語源まで口で説明してくれるサービスぶりだが、そのサービスは無意味。 ストーリーそのものはそつなくまとまっているし(ダイジェスト版だけど)、壮大なセットと時折出てくる特撮はややチープさを感じさせて微笑ましい(笑)。捕鯨の勇壮なシーンや鯨油を搾り取る課程もちゃんと出ているのでそれは良し。 結局の話、本作の最大の問題点はキャラクターだろう。原作では奇矯な行動をとり続けながらも憎めないキャラクターとして描かれていたクイグエグの個性が感じられず、主人公イシュメイルが全く良いところ無しと言うこともあるが、一番の問題はエイハブ役のペック。好青年ぶりでならした彼が新境地に挑んだことは評価していいけど、やっぱりエイハブ船長の狂気ぶりを演出し切れてなかった。まだまだあれでは足りない。もうちょっと強烈な個性が欲しかったよ。ペック自身は良い役者だと思うのだが、稀代の名優オーソン=ウェルズを出しておいて、それを使えなかったのが一番の問題。この人こそエイハブ役にはぴったりだったと思うのだが(ウェルズ自身の登場シーンも殆どカメオ出演と代わらない程度。何と勿体ない)。 画面のダイナミックさもあって(エイハブの執念を表現するためにカラーに墨をかけることまでしているとか)、総じて言えば決して悪い作品じゃない。ただ、乗り切れないだけだ。高校の時の味わった感動はどこに行ったのか…映画を観ていてとても悲しい気持ちになった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
赤い風車 Moulin Rouge |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1952米アカデミー美術監督・装置賞、衣装デザイン賞、作品賞、主演男優賞(ファーラー)、助演女優賞(マルシャン)、監督賞(ヒューストン)、録音賞 1952ゴールデン・グローブ有望若手女優賞(マルシャン) 1953英アカデミー総合作品賞、作品賞、新人賞(マルシャン) 1953ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞(ヒューストン) |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19世紀末パリのモンマルトル。名物カフェのムーラン・ルージュに、毎晩通い写生を続ける画家トゥールズ・ロートレック(フェラー)がいた。こどもの頃に両足の成長が止まってしまった彼は、家にいることに耐え難く、自分の画才を活かして画家として独立していたのだ。そんな彼が落ち着ける場所は、毎晩の狂騒に身を沈めること。孤独な彼にはムーラン・ルージュはうってつけの場所だったのだ。そんな時、娼婦のマリイ(マルシャン)を警官から救ったことで同棲を始めるのだが… 1889年に建設され、パリに実在した(と言うより今もある)キャバレー“ムーラン・ルージュ”を舞台とした作品で、この雰囲気が好きで、毎晩のようにここに通っていたというトゥールズ・ロートレックの伝記を描く。1953年全米興行成績10位。 ロートレックの絵は非情に特徴的で、素描的な速筆で書かれているのに、不思議と人目に付き、間違いなくこの人にしか描くことが出来ない独特の絵を描き続けていた人。そしてこの人とムーラン・ルージュとの結びつきは、そのポスターがあまりにも優れていたため、ポスターを芸術にまで高めたという事でも有名である。 画家として有名な彼は、一方、彼は両足の成長が止まってしまったしょうがいをも持っており、そのため彼を描くとなると、「しょうがいにも関わらず」とするか、「しょうがいというコンプレックスをバネにして」とするかで描写が変わっていく。 本作の場合は、どちらかというと後者の方で、しょうがいのせいで自分は愛されないと思いこんでいる人物として描かれているのだが、この辺上手く捻ってあり、単純な作品にはなっていない。 ここに描かれるロートレックはまさしく“愛の人”であった。彼は愛されることを痛切に願いつつ、様々なものを愛そうと努力する。時としてそれは純粋すぎて痛ましい愛になり、時として芸術家の傲慢さを見せての掠奪の愛となる。それら全てが彼の愛だったのだ。しかし一方、彼は自分自身に対して歪んだ愛しか持つことが出来なかった。それが故に、彼の愛は極めて歪んだものになっていく。「愛されたい」「愛して欲しい」という思いが、あっという間に「どうせ捨てられる」「捨てられるくらいならこちらから捨ててやる」に容易に転換してしまうのだ。自分の存在そのものに自信を持つことが最後まで出来なかった人物がロートレックだったということになるだろう。芸術家とは本当にそういう人でなければなれないのかもしれないね。 更に、それで終わらせるわけではない。ロートレックが最後に気付いた愛とは、人間に対するものだけではなかった。最後に彼の脳裏に浮かんだのはムーラン・ルージュの狂騒。彼の思いは特定個人に限ったものではなく、人間全体、いや人間性というものに対してだった。と言う事に気づかされることになるのだ。狂騒の中で本性を現す人間に対し、人間のあり方そのものを愛するという姿勢を見せてくれる。 その辺の心理描写をヒューストンは見事に、精緻に描ききっている。この作品を観るまでヒューストンって人間描写は割と大ざっぱな人だと思ってたから、新鮮な驚きを感じさせられた。こんな細やかな演出できる人だったんだね。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
アフリカの女王 The African Queen |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1951米アカデミー主演男優賞(ボガート)、主演女優賞(ヘップバーン)、監督賞、脚色賞 1952英アカデミー作品賞、男優賞(ボガート) 1994アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第一次大戦下の東アフリカ。イギリス人船長チャーリー(ボガート)とドイツ軍に兄である宣教師を殺されてしまった妹ローズ(ヘップバーン)を乗せた蒸気船“アフリカの女王”号。ドイツ軍に一矢報いるため、二人は河を下っていくが…公開された1952年にはこれ又名作の『雨に唄えば』(1952)を抑え、全米興行成績6位という好成績を残す。 セシル=スコット=フォレスター原作の同名小説の映画化。 正直、前知識無しにこの作品を観たため、その展開の軽快さに驚かされた。題名からしてもっと重い内容かと思ってた。 この作品の魅力はなんと言ってもハンフリー=ボガートとキャサリン=ヘップバーンによる、掛け合い漫才のような会話だろう。世間知らずで身勝手なヘップバーン演じるローズに振り回されるボガート演じるチャーリー。危機に次ぐ危機と、それを何とか乗り切った後の二人の弛緩した会話はなんとも楽しい。 結局この二大スターの魅力こそが直接本作品の魅力に繋がっているというわけだ。 決して綺麗とは見えない(失礼!)ヘップバーンが我が儘勝手に振る舞うのも良いけど、やっぱりここではボガートが良い。無精髭を生やして粗野な言葉遣いをしていながらも、彼の見せる気弱な部分、そして相手を思い遣る心が仄見えて、非常に魅力的だ。こう言う男こそが理想的な男性像にも思える。 じゃじゃ馬ハイミス(これ又失礼)のローズに振り回され、それでも自分の能力の全てを使って彼女の望みを叶えようとするなんて、なかなか出来るこっちゃ無いぞ。男として生きると言う幻想を具現化してるかのようだ。 ところでボギーこと、ボガートの作品は今のところ5本程度しか観ていないので口はぼったいが、彼の魅力というのを考えてみた。 彼は確かに男臭い。だが、そこには脂ぎったところや、がっついたところがない。どんな役をしていても、常にクールに、こう言って良ければ上品に、一歩下がった所に立ち、他のキャラクターの良さを引き出そうとしているように思える。自分自身のみに目を引き付けようとするグレゴリー=ペックの対極にいるような人物だ。特に相手が女性の場合、彼と競演する事でその魅力を開花させた女性も多い(『カサブランカ』(1942)のバーグマン然り、本作のヘップバーン然り、『麗しのサブリナ』(1954)のヘップバーン(オードリーの方ね)然り)。彼の恋物語は悲恋に終わる事も多いけど、それも相手を立てようとしての事。そうやって引いた立場に自らを置きながらも、しっかりその魅力を感じさせる。 肉体的には強く、女性に対しては弱い。彼がハード・ボイルドでの主役を張れるのには、こんなところがあるからじゃないかな?ハリウッドが得意とするグッド・バッド・マン(ならず者が心根の清らかな気高い女性に出会うことで善人に立ち返るというパターン)を体現した人物でもあろう。 この撮影はとてつもなく大変だったらしく、いくつものエピソードが残っている。例えば赤狩り旋風が吹き荒れる中、傷ついた心を癒すためか、ヒューストンは撮影そっちのけで狩りに熱中していて、時にスタッフを危険にさらしたとか(象狩りに行ったところ、興奮した象が撮影隊に向けて疾走してきて、全員が肝を冷やしたところ、ヒューストン一人が象の迫力に感動していたそうな)、夜毎ボガートと二人で酔っぱらってはスタッフをからかっていたり(後で監督自身が述懐するところによると、これは二人の策略でスタッフの結束を高めるのに一役買ったとか…ほんまかいな?でもお陰で病気が続発した撮影の最中、二人だけは全くの健康のままだったそうだ)。ヘップバーン自身がヒューストンという監督について聞かれた時、「彼は完全に狂っている」と評するほど。 見事この年のアカデミー主演男優賞を得たボガード(それまでアカデミーを馬鹿にしていたような態度をとり続けていたのに受賞した途端大感激したそうだが)は「ベルギー領コンゴからこのパンテージ劇場までは実に長い道のりだった。いまここに生きていられて本当に嬉しい」と壇上でスピーチした。これはアカデミーの名スピーチの一つとされている。 尚、この撮影にはボギーは妻であるローレン・バコールを連れてきており、バコールは影日向に夫とスタッフを支えたとか。自らのキャリアよりも夫を大事にしたバコールのけなげさも本作品の成功の理由の一つとして数えられるだろう。 『赤い靴』で見事な撮影を見せたジャック・カーディフがここでも上手い演出力を見せつけている。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
キー・ラーゴ Key Largo |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1948米アカデミー助演女優賞(トレヴァー) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
戦死した戦友を弔うためフロリダ半島の南の小島キー・ラーゴにやってきた復員将校フランク=マクラウド(ボガート)は、島唯一のホテルに宿泊している5人組の一人がギャングのジョニイ(ロビンス)であることを見抜く。戦争によって虚脱状態にあったフランクを尻目にジョニイと仲間たちはノーラ(バコール)を含めたホテルの従業員たちを縛り上げ、偽札取引を開始するのだった。折からの嵐をついてキューバに行くため、船の運転手としてジョニイはフランクを指定するのだが… メロドラマ風のフィルム・ノワールというか、フィルム・ノワール風のメロドラマというか、普通合わないその二つを上手く合体させた作品で、しっかりアクションも入れてメリハリを出している。流石にアクション部分は今から観ると多少見劣りはするものの、その分緊張感の演出は素晴らしい。 フィルム・ノワールとメロドラマの両立というのは、悪女部分をトレヴァーに、聖女部分をバコール(ボギーの奥さん)に上手く振り分け、この二人の女性に挟まれる格好でボギーを配しているのが成功の要因だと思われる。勿論これは美女二人に見劣りしない魅力を見せるボギーの存在感あってのこと。やっぱりボギーは女性を美しく見せる名手だ。 それと悪役のロビンソンの存在感も大きい。悪役がよく似合う強面だが、粗野な中にしっかり繊細な演技を見せてくれてもいる(ロビンソンははリベラル思想の持ち主のため、赤狩りに入りつつあるハリウッドではあまり良い目で見られなかったらしい)。 ストーリーや演出云々よりも、キャラクタの魅力を最大限出す事が出来たのが本作の最高の強味と言えるだろう。ボギーファンとしては嬉しい作品である。 尚、最後の船上での撃ち合いは、そもそもボガート&バコールの『脱出』で使われる予定だったそうだが、そちらで未使用のためにこちらで使うことが出来た。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
黄金 The Treasure of the Sierra Madre |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1948米アカデミー助演男優賞(ヒューストン)、監督賞(ヒューストン)、脚色賞、作品賞 1948ヴェネツィア国際映画祭音楽賞 1948NY批評家協会作品賞、監督賞(ヒューストン) 1948ゴールデン・グローブ作品賞、助演男優賞(ヒューストン)、監督賞(ヒューストン) 1949英アカデミー作品賞 1990アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1920年のメキシコ。国にいられなくなってしまい、ここまで流れてきたアメリカ人ドッブス(ボガート)とカーティン(ホルト)が知り合い、一緒に仕事をしていた。そんなある日、うら寂れた宿屋でハワード(ヒューストン)という老人がマドレの山の中に金があると話しているのを聞いた。その後たまたまドッブスが買った宝くじが当たり、小銭を手にしたため、二人はハワードの話に乗る気になった。苦労の末本当に金鉱を掘り当ててしまい、大喜びする三人だったが… ボガートの出世作である『マルタの鷹』で名コンビぶりを見せたヒューストン&ボガートが再び組み、更にヒューストン監督は本作に実父のウォルター・ヒューストンまで巻き込んで作られた冒険譚。見事この年のオスカー監督となった(ウォルターも助演男優賞で受賞しているため、父と子が同じ映画でアカデミー賞を受賞した唯一の作品となる)。 物語そのものが一筋縄には行かず、ついには全てを失っておしまい。という、一種虚しさと悪意のこもったコメディで、冒険の末栄光を手に入れた主人公が暴走して結局全てを失ってしまうと言う形式はヒューストン監督お得意だが(晩年にコネリーと組んで作った王になろうとした男(1975)は端的にそれを示しているだろう)、本作はその先駆けとなった作品と言える。 当時のハリウッドはプロデューサの発言力が極めて高かったため、こういった悪意の込められたコメディは滅多に出ることが無く、事実社長のジャック=ワーナーは当初この映画を嫌っていたそうだが、ヒューストン監督が断固として自分の思い通りのやり方を貫いたために興行的にも成功した。パターン的な物語展開は既にアメリカの大衆にも飽きられつつあったのだろう。人間の欲望のリアリティはヒューストン監督自身がかつて山師だったそうなので、その経験に負うところが多いのだろう。 感心出来るのは人間関係の変化であろう。最初貧乏状態で出会ったドッブスとカーティンは、ただ同じ国から来たというだけで意気投合し、少ない持ち物を分け合ったり、宝くじが当たると二人でそれを使おうとしていたりしていた。ところが黄金が実際に出てからは、特にドッブスの性格がまるで変わってくる。仲間が人助けをしようとすると強引にそれを止めようともしてるし、最後には黄金を独り占めしようとして持ち出したりとやりたい放題。金ってのは本当に人を変えるもんだな。比較的早めに黄金が見つかってしまうので、これからどうなるのか?と思っていたら、こういう展開になるのか。と驚かされる。一見芸域が狭いようでいてかなり幅広いボガートの演技も堪能出来る。徐々に表情が強ばっていくボガートの顔の演技は必見。一方老人役のウォルター=ヒューストンも怪演ぶりを見せていて、 中盤がちょっとたるくなってしまうのがちょっと難点で、物語上さほど意味のない物語を延々挿入するのは今ひとついただけず。それでちょっと点数の方はマイナス。 『ホワイトハンター・ブラックハート』(1990)でも描かれていたが、ヒューストン監督の奇行ぶりはこの当時から有名で、特にボガートがおもしろがって一緒になって悪戯するので、現場は大迷惑だったとか(ウォルターの入れ歯を強引に外したり、鞍に糊を付けて出演者を降りられなくしたりとかと伝えられている)。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
マルタの鷹 The Maltese Falcon |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1941米アカデミー作品賞、助演男優賞(グリーンストリート)、脚色賞 1989アメリカ国立フィルム登録簿新規登録 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サン・フランシスコの私立探偵サム・スペード(ボガート)の元にワンダと名乗る女性がやってきて、サースビーという男の尾行から救って欲しいと依頼される。彼女の美しさを見たサムの相棒アーチャー(ジョージ)が買って出るが、その夜アーチャーはサースビーと共に死体となって発見されるのだった。これがサムが莫大な価値を持つという“マルタの鷹”と関わるきっかけとなった… ダシール・ハメットの傑作ハードボイルド小説の映画化。本作が映画化3作目に当たるが、本作の出来があまりに素晴らしかったため、以降この原作の映画化はされていない。ハードボイルド小説の傑作と言われる原作をさえしのいだ作品とまで言われ、以降興隆していくフィルム・ノワールの礎を築いた作品でもある。又、本作によって、これまでB級作品と言われたサスペンスがハリウッドメジャーになる礎ともなった。 本作はそれまで脚本家として知られていたヒューストンの監督デビュー作であり(勿論脚本も自らが手がけている)、以降盟友となり数々の傑作を生み出したボガートとの出会いの作品でもあり。ヒューストンの脚本家としての非凡さを示す事として、本作では原作の台詞を全く変えずに入れてしまい、しかも監督としてもカメラ・アングル割と平板な物語の原作をしっかりエンターテインメントに仕上げてしまった。特にこのオープニングは映画ファンには必見映像。 内容そのものは良くも悪くも“ハードボイルド映画”。主人公は基本的に受け身で、次々やってくる危機を乗り越えている内にいつの間にか事件が進展していく。と言った感じの作品なので、ストーリーの起伏が今ひとつ足りない感じ。主人公の役割として「事件に関わってしまったこと」が最高の存在意義となってしまっていて、タフ・ガイではあっても、決して“名探偵”などとは言えない。映画好きでもストーリー重視派には今ひとつ受けが良くない。 一方、雰囲気作りに関しては確かに名人芸。やや傾斜したカメラ・アングルとモノクロ映像が雰囲気作りには最高にはまってる。この雰囲気を楽しめるかどうかがハードボイルド映画を楽しめるかどうかの試金石となるだろう。本作が楽しめるのならば『三つ数えろ』も『チャイナタウン』と言った作品も楽しめるだろう。 しかし本作の一番の見所はなんと言ってもボギーの存在感に他ならない。寡黙で渋くてずぼらでありながら、事が起こると無駄のない動きを見せ、どんな危機に陥ってもどこかに余裕を感じさせられる。こんな役が出来る役者は本当に数少ないが、その最高峰がボギーであろう。 そもそもボギーは彫りが深いと言うよりもどっちかというとその顔は“しわ”と言っても良いし、描き方にも依るが、悪人顔っぽくもある。実際本作に出演するまではほとんどは小悪人ばかりだったそうだが、この作品で、それが“渋さ”へと転換した。それが以降続く彼の格好良さになったのだから皮肉なものではある。美意識というのは色々なところで変動するものだな(念のため。映画俳優の中で私が最も格好良いと思ってるのはボギーです)。 主役のスペードはジョージ=ラフトのはずだったが、断られたためにボガートが主演を務めたのだとか。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|