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手塚治虫

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1951年
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本名:手塚 治。日本の漫画家、アニメ監督、医師。勲等は勲三等。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。
戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。存命中から「マンガの神様」と評された。
藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。
少年時代に友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんでペンネームとして「手塚治虫」(最初の頃は「おさむし」)を使い始めた。
自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている。
手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればスポンサーに受け入れられやすくなることや、他者の競争参入を阻める考えたからであったと語るが、これはのちに手塚自身が「大失敗だった」と認めたように、結果的に大誤算であった。『アトム』の大成功を見て他者がこの分野に次々と参入を開始して低予算で多くの番組が制作され放映されることになったのである。
杉井ギサブローは、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。
一方で、アート・アニメーション(手塚自身は商業アニメーションに対比して「実験アニメーション」と言っていた)の分野にも功績を残している。虫プロで「ある街角の物語」(1962年,38分)、「おす」(1962年)、「めもりい」(1964年)、「人魚」(1964年)、「タバコと灰」(1965年)、「しずく」(1965年)、「展覧会の絵」(1966年、33分)、「創世記」(1968年)、その後に手塚プロで「ジャンピング」(1984年)、「おんぼろフィルム」(1985年)、「プッシュ」(1987年)、「村正」(1987年)、「森の伝説」(1987年,29分20秒)、「自画像」(1988年)と長編、短編の非商業作品を制作した。第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリに『おんぼろフィルム』が選ばれている(名誉会長ポール・グリモー、審査委員長はラウル・セルヴェ、選考委員長アントワネット・モゼス)。虫プロ社内には社長であった手塚の発案により、実験作品の製作資金に対して20万円の助成制度まで設けられていた(手塚によると、虫プロを設立したのは本来は実験アニメーションの制作を行うためであったと語っている)。
作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している。
鳴海丈が書いた書籍『萌えの起源』(PHP新書 2009年)によると「萌え」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「ボクっ娘」「萌え擬人化(擬人化)」「ケモノ」「ロリ系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から"意図的に"漫画の中で多用してそれが広がったことを上げている。
ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。
岡部冬彦が手塚と海外に行き体調を崩した際には手塚が診察している。そのとき、岡部は手塚の言うことを信じずに日本にトンボ返りして病院で検査を受けたが、手塚の言うとおりのただの飲み過ぎであった。
また手塚は医学生時代に授業中もずっと漫画を描いていたために恩師から「手塚君、君は、このまま医者をつづけても、ろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と諭されている。手塚はインターン時代に患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまうとも語っている。息子の眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで道を断念したという。医学専門部からは「絶対に医師として働かない」という条件付きで卒業をさせてもらったという。医師免許は終身有効なものであり、手塚はプロの漫画家になった後にも医師免許(昭和28年9月18日医籍登録第150476号)を保持し続けていた。
「国鉄スワローズ」がフジサンケイグループに買収され、「サンケイスワローズ」と変わった後、1966年鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。1969年に「アトムズ」に変わり、経営権がヤクルト本社に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。
1978年、クラウンライターライオンズが西武グループに買収され西武ライオンズとなった際には、『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた。
なお、手塚自身は阪神タイガースのファンであった。

トレードマークは、ベレー帽と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている。しかし、街中を歩くとき、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった(これにはベレー帽を脱いでいると街中を歩いていても手塚治虫であると気づかれにくい利点もあったようである)。ベレー帽は、もともと横山隆一を模倣してかぶり始めたもので、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石森章太郎や藤子不二雄(藤本弘)などもベレー帽をかぶっていた。また、トキワ荘のマンガ家のあいだでよく用いられた「~氏」という敬称はもともと手塚が使っていたもので、相手の年齢にかかわらず用いられて便利ということで広まったと水野英子は証言している。
娘のるみ子によると、生前から「自分が死んだら、自分の作品は誰にも読まれなくなるんじゃないか」という不安をずっと抱き、「死んでしまったら作家は終わりなのだ」と恐れていたということで、「自分が死んでも、3年間は誰にも言うな」と周りに伝えていたことがあったという


永井豪
「私の少年時代、手塚作品と過ごす時間が最も幸せな時間だった。学校でイヤなことがあったときも、手塚漫画が私の心をいやしてくれた。自分も手塚先生のように漫画家になりたいと考えたのは自然の成り行き。そして私は漫画家になった。しかし手塚先生にはなれなかった・・・永井豪になってしまった」と語る。

水木しげる
「私は(手塚治虫を)ライバルだと思ってやってきた。若い時から漫画界に君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった」「手塚さんがコンクリート塗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきたようなものだ」と自著『水木さんの幸福論』で語っている。
「妖怪ブーム」が起こると、手塚はこれを意識して「どろろ」を発表している。
後に眞が制作した映画『妖怪天国』は水木の影響を受けており、手塚治虫・水木しげる両人ともゲスト出演している。手塚によると、この映画への出演は眞から「水木に特別出演してほしいが、個人的に知っているか?」という相談を受けたところから始まった。手塚はこれに対して「ああ、いろいろつき合って貰ってるよ」と返答した、と記しており、手塚と水木は漫画家としての交友は持っていたことがうかがえる。

富野由悠季
「アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」「週ペースでものを作ることにすでに現場は慣れていましたが、とにかく忙しく、演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロでマンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきたとき、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生が満足した作品はないと思う。」「映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオの社内募集にコンテを持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される。虫プロのコンテの基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって、映像的な評価を意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚先生がコンテを読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中が描いたコンテはなおすし、短編アニメのコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手でいらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソードを書いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実を貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない」
手塚は富野の監督作品『機動戦士ガンダム』について「機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。

りんたろう(林重行)
りんたろうは1963年に東映動画から手塚治虫の虫プロダクションに移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろうは念願がかなって「鉄腕アトム」の演出を務めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていたときのこと。地震みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると貧乏揺すりをするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつベートーベンの第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。

杉井ギサブロー(杉井儀三郎)
「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳のとき。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。」「手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生のころからファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、エンターテインメントというのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。」

高橋良輔
高橋の監督作品「装甲騎兵ボトムズ」の主人公キリコは手塚の作品「ブラック・ジャック」の登場人物から取られている。

宮崎駿
漫画作品に関しては後の2009年のインタビューにおいて、7歳のときに読んだ『新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かし、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」と語っている。また、その後のSF3部作(『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』)の虜になっていたことも認め、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。当初、漫画家を目指していた宮崎がアニメーターに転じたのは、絵が手塚の亜流に見えてしまうことが理由のひとつにあったという。また、手塚のアニメについて、従来の評価は変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている。
雑誌の寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて…。」と語り、その後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義』だけれど、そんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません」とも語っている。
宮崎は東映動画に入社した年である1963年に手塚治虫が原案を務めた『わんわん忠臣蔵』にアニメーターの一人として参加している。1977年には同じく手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。
1981年には手塚と宮崎との合作『ロルフ』も予定されていた。手塚はアニメージュの紙面上で次のように語っている。「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さんが長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『じゃりン子チエ』の追い込みも終わった前後のことで、どうしてもこれだけは国際的アニメに作り上げたいという夢を、大塚康生氏とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現を目ざして、どんなに時間がかかっても成就したいと思っています。それにはT社の社長および原作者の強力なご援助がなければできないことです。コケの一念で実現させたいと思います。宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画に作り上げられることでしょう」。この合作は実現しなかったが、ロルフの企画は名前と形を変え『風の谷のナウシカ』となった。
Wikipediaより引用
経歴
1928'11'3 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。
1933 一家で兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面に引っ越す
1939 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする
1944 体の弱い者が集められる強制修練所に入れられ、軍需工場で格納庫の屋根にするスレートを作った
1945'6 勤労動員中6月の大阪大空襲に遭遇
1945'7 大阪帝国大学附属医学専門部入学
1946'1'1 在学中に『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画4コマ漫画『マアチャンの日記帳』で漫画家デビュー
1947'1 「新寶島」発刊。当時としては異例のベストセラーとなる
1950'4 新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に『タイガー博士の珍旅行』を初連載
1950'11 雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始
1951 『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載
1951'3 大阪帝国大学医学専門部を卒業。毎日放送開局時のアナウンサー採用試験に合格。
1952 宝塚から東京に移住する
1952'3 第十二回医師国家試験に合格
1953 『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始
『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区のトキワ莊に入居
1953'9'18 医籍登録
1954 『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始
1955 漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表
1957 東京都渋谷区代々木初台に借家
1958 東映動画の演出家白川大作から請われて嘱託となり西遊記(1960)の原案構成を受けもつ
1959 松下井知夫が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加
1959'10 岡田悦子と結婚。
1960 練馬区谷原町(現・練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる
1961 手塚プロダクションに動画部を設立。当初は6人のスタッフから始まった
奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される
1962 動画部は「虫プロダクション」と改名する
1963 自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ]鉄腕アトムを制作
「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。
1964 長女・るみ子が誕生
1965 日本初の1時間枠テレビアニメ新宝島を1月3日に放送
日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』放映開始
1966 実験漫画雑誌『COM』を創刊する
虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する
1967 『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞
1968 漫画制作のための手塚プロダクションを設立
1970 『火の鳥』で第1回講談社出版文化賞の児童まんが部門で受賞
日本万国博覧会(大阪万博)にて「フジパンロボット館」をプロデュース
『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する発売禁止を受ける。
1971 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作る
1972 『ブッダ』を連載開始
1973 自らが経営者となっていた虫プロ商事と虫プロダクションが倒産し、個人的に1億5000万円の借金を背負う
『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で『ブラック・ジャック』連載開始
1975 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。
『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。
1977 『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。
1978 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長に就任する
日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組100万年地球の旅 バンダーブックを放送。
1979 児童漫画の開拓と業績により巖谷小波文芸賞受賞
1980 サンディエゴ・コミック・コンベンション・インクポット賞受賞。
国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。
1983 『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞
1984 実験アニメーション『ジャンピング』がザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリおよびユネスコ賞を受賞
1985 『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞
東京都民文化栄誉章受章。
講談社漫画賞特別賞受賞
フランスで開催された「日仏文化サミット85」に参加。
1986 『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞
1987 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める
1988 「日本昆虫倶楽部」を創設し初代会長に就任する
戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞
実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞
ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞
1988'3'15 進行性のスキルス胃癌が発見される
1989'2'9 死去
没後に日本政府から勲三等瑞宝章叙勲[268]。日本SF作家クラブ主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。
1994'4'25 兵庫県宝塚市に、宝塚市立手塚治虫記念館が開館
2002 米アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入り
2004 漫画『ブッダ』の英訳版がアイズナー賞の最優秀国際作品部門を受賞
2014 バルセロナのコミックサロンで、手塚治虫作「人間昆虫記」が外国作品部門で受賞
2020 アメリカの漫画の賞ハーヴェイ賞で"Harvey Awards Hall of Fame"受賞
5+
4+
新宝島
3+
100万年地球の旅 バンダーブック
ブレーメン4 地獄の中の天使たち
2+
個人的感想
2014 BUDDHA2 手塚治虫のブッダ―終わりなき旅― 原作
2013
2012
陽だまりの樹
<A> <楽> 原作
2011 手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく 原作
ブラック・ジャック カルテXII 美しき報復者 原作
ブラック・ジャック カルテXI おとずれた思い出 原作
人間昆虫記
<A> <楽> 原作
2010
2009 ジャングル大帝 勇気が未来をかえる 原作
MW-ムウ- 第0章 ~悪魔のゲーム~ 原作
ATOM 原作
MW-ムウ- 原作
2008
2007 どろろ 原作
2006
ブラック・ジャック21
<A> <楽> 原作
2005 ブラック・ジャック ふたりの黒い医者 原作
Dr.ピノコの森の冒険 原作
ASTRO BOY 鉄腕アトム 10万光年の来訪者・IGZA(イグザ) 原作
2004
ブラック・ジャック(1~3Y)
<A> <楽> 原作
火の鳥
<A> <楽> 原作
2003 ブラック・ジャック 命をめぐる4つの奇跡 原作
ASTRO BOY 鉄腕アトム
<A> <楽> 原作
2002
2001 メトロポリス 原作
2000 ブラック・ジャック カルテIX 人面瘡 原作
陽だまりの樹
<A> <楽> 原作
1999 ガラスの脳
ブラック・ジャック VIII 緑の想い 原作
1998 ブラック・ジャック VII  白い正義 原作
1997 ジャングル大帝 原作
1996 ブラック・ジャック3 ふたりの黒い医者 原作
ブラック・ジャック2 ピノコ愛してる 原作
ブラックジャック 原作
ブラック・ジャック カルテVI  雪の夜話、恋姫 原作
1995 ブラック・ジャック カルテV  サンメリーダの鴞 原作
ブラック・ジャック カルテIV 拒食、ふたりの黒い医者 原作
1994
1993 悪右衛門 原作・キャラクターデザイン
ブラック・ジャック カルテIII マリア達の勲章 原作
ブラック・ジャック カルテII 葬列遊戯 原作
ブラック・ジャック カルテI 流氷、キマイラの男 原作
マグマ大使 原作・キャラクターデザイン
1992
手塚治虫の旧約聖書物語
<A> <楽> 原案・構成・キャラクターデザイン
1991 アニメ交響詩ジャングル大帝 原作
安達が原 原作
1990
三つ目がとおる
<A> <楽> 原作
1989 2'9 死去
手塚治虫物語 ぼくは孫悟空 原案・キャラクターデザイン
ジャングル大帝
<A> <楽> 原作・キャラクターデザイン
青いブリンク あなたが夢をつかめる世界なら
<A> <楽> 総監督・原作
1988
1987 森の伝説PART-1 監督・原案・構成・キャラクターデザイン
PUSH おす 監督・原案・構成・作画
村正 監督・原案・構成
火の鳥 宇宙編 原作
火の鳥 ヤマト編 原作
1986 山太郎かえる 監督・原作
銀河探査2100年 ボーダープラネット 監督・原案・脚本
妖怪天国 出演
ワンダービートS
<A> <楽> 原作
1985 おんぼろフィルム 監督・原案・構成
るんは風の中 監督・原作
ラブ・ポジション ハレー伝説 原案
悪魔島のプリンス 三つ目がとおる 原作・構成
1984 JUMPING 監督・原作・脚本
大自然の魔獣 バギ 演出・原案・構成・作画・キャラクターデザイン
1983 雨ふり小僧 監督・原作
緑の猫 監督・原作
タイムスリップ10000年 プライム・ローズ 原作・構成・キャラクターデザイン
ユニコ 魔法の島へ 原作・構成
1982
ドン・ドラキュラ
<A> <楽> 原作
1981 ブレーメン4 地獄の中の天使たち 監督・作画監督
ユニコ 監修・原作
加山雄三のブラック・ジャック
<A> <楽> 原作
1980 火の鳥2772 愛のコスモゾーン 総監督・原作・脚本
フウムーン 製作・原作
ヒポクラテスたち 出演
鉄腕アトム(2nd)
<A> <楽> 原作
1979 ユニコ 黒い雲と白い羽 監修・原作
海底超特急マリン・エクスプレス 演出・原案・構成
北極のムーシカ・ミーシカ 監修
海のトリトン 原作
1978 100万年地球の旅 バンダーブック 演出・原作・構成
火の鳥 原作
世界名作童話 おやゆび姫 キャラクターデザイン
1977 瞳の中の訪問者 原作
草原の子テングリ 原案
ジェッターマルス
<A> <楽> 原案
1976
1975
1974
1973
ミクロイドS
<A> <楽> 原案
ワンサくん
<A> <楽> 原作
1972
海のトリトン
<A> <楽> 原作
1971
ふしぎなメルモ
<A> <楽> 原案・構成・作画監督
1970 クレオパトラ 共同監督
やさしいライオン 製作
1969 海底都市の出来るまで 監修・原案
ワンダーくんの初夢宇宙旅行 脚本・原案
千夜一夜物語 製作総指揮・脚本・構成
どろろ
<A> <楽> 原作
1968 創世記 製作
バンパイヤ
<A> <楽> 原作・出演
1967 マグマ大使 原作
リボンの騎士 
<A> <楽> 総監督・演出・原作
悟空の大冒険 
<A> <楽>
1966 展覧会の絵 総監督・原案・脚本
ジャングル大帝 原作
マグマ大使
<A> <楽> 原作
W3 ワンダースリー
<A> <楽> 原作・総監督・演出
1965 しずく 演出・原案・構成
新宝島 演出・脚本
タバコと灰 製作
ジャングル大帝(1st,2nd) 
<A> <楽> 原作・演出・脚本
1964 めもりい 演出・原案・構成
人魚 演出・原案・構成
鉄腕アトム 宇宙の勇者 原作・構成
ビッグX
<A> <楽> 原作
1963 わんわん忠臣蔵 原案・構成
鉄腕アトム(1~4Y) 
<A> <楽> 総監督・演出・脚本
銀河少年隊
<A> <楽> 原作・キャラクターデザイン
1962 ある街角の物語 製作・原案・構成
おす 製作
アラビアンナイト シンドバッドの冒険 脚本
1961
ふしぎな少年
<A> <楽> 原作
1960 西遊記 演出・構成
ピロンの秘密
<A> <楽> 原作
1959
鉄腕アトム
<A> <楽> 原作・総監督・脚本
1958
1957
1956
1955
1954
1953
1952
1951
1950
1949
1948
1947
1946
1945
1944
1943
1942
1941
1940
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928 11'3 誕生

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レビュー
大自然の魔獣 バギ
<A> <楽>
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★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1984
製作会社
ジャンル
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関連
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ブレーメン4 地獄の中の天使たち
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笹川ひろし(共)
秋山勝仁
笹川ひろし
手塚治虫(演)
武井英彦
堀越徹
佐藤光雄
松谷孝征(製)
手塚治虫(脚)
岡本茉利
富山敬
京田尚子
石丸博也
野沢那智
冨田耕生
菅谷政子
井上真樹夫
谷口節
大塚周夫
弥永和子
宗形智子
辻村真人
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物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1981
製作会社
ジャンル
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原作
歴史地域
関連
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100万年地球の旅 バンダーブック
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西村緋禄司(動画監督)
手塚治虫(演)
坂口尚
都築忠彦
吉川斌
武井英彦
金田啓治(製)
水島裕
小山まみ
大平透
冨田耕生
伊武雅之
家弓家正
武藤礼子
小林恭治
二階堂有希子
肝付兼太
岡真佐子
永井一郎
勝田久
千葉耕市
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
製作年 1978
製作会社
ジャンル
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原作
書籍名 <A> <楽>
著者名 (検索) <A> <楽>
歴史地域
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新宝島
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手塚治虫(脚)
加藤武
藤岡琢也
田上和枝
若山弦蔵
北原隆
★★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 港町に住むウサギの少年ジム(田上和枝)は、いつも冒険の航海を夢見ていた。そんなジムの元に、父親の知り合いという航海士が訪ねてきた。父親の遺品がないかというその男をあしらったジムが家を探してみると、そこには古びた地図が見つかった。ジムが敬愛する鹿のリプジー先生(北原隆)にその地図を見せたところ、それは宝の地図だと見抜く。町長を説得し、宝探しに出ようとするリプジー先生は、町外れにする引退した航海士で狼のシルバー(加藤武)に船を見てほしいと願うが…

 手塚治虫が初めて漫画化として評価された作品が1947年に刊行された「新宝島」だった。スティーヴンソンの「宝島」をベースに、何でもありのアクション大作となっており、まさしく以降の日本の漫画のベースとなった偉大なる作品である。ただ、「宝島」はあくまでベースで、内容はナンセンスギャグあり、擬人化あり、活劇ありで、手塚治虫の原点そのものそして日本の漫画全てのベースと言って良い極めて質の高い作品だった。
 ただ、この作品は映像化されたことはない。本作は同じタイトルを持つのだが、手塚の漫画の映画化ではない。
 本作は純粋にスティーヴンソンの「宝島」をベースに手塚治虫の創作として作られた物語となる。
 手塚の解釈は、登場人物全員が動物というものだった。しかも単に人間を動物に置き換えただけでは無い。動物にした必然性というのも本作ではしっかりと描いているのが特徴である。
 その特徴は、理性というものを話の中心にしたこと。登場人物は皆理性を持った動物だが、激情に駆られ理性のたがが外れると野獣化してしまい、そうなってしまうともう戻らなくなってしまう。そのため、野獣かしないように、できるだけ感情を抑えて行動しなければならない。この設定はとても面白く、宝を目にした時に誰もが目の色を変えすぐに野獣化してしまう。それはいつも冷静なリプジー先生も同じで、宝というのは誰もが理性を失う可能性があると言う設定にしたことで、単なる冒険譚とは随分趣が異なる。
 理性を保つという一点をしっかり設定に組み込んだお陰で大人が観ても感心出来る内容に出来ているのが良い。
 それに自らの内なる獣の欲望を最も抑える事が出来るのがシルバーというのが面白い。原作では単なる悪人だったのが、本作では悪人ではあるものの、頼れる大人になっており、原作とは随分造形が異なる。これは後の出崎統の「宝島」に少なからず影響与えたのではないかと思っている。

 後は、言うまでもないが、手塚治虫のフェティッシュな描写も映える。初監督作と言うことで思い入れも強かったんだろうけど、ちょっと自分を出し過ぎたのでないかと、今になるとそう思う
製作年 1965
製作会社 フジテレビジョン
虫プロダクション
ジャンル 動物(擬人化)
売り上げ
原作
宝島 <A> <楽>
ロバート・ルイス・スティーヴンソン (検索) <A> <楽>
歴史地域
関連
キーワード
めもりい
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富岡厚司(製)
★★★
物語 人物 演出 設定 思い入れ
 人の記憶や思い出と言った、脳内での作用をアニメーションや実写コラージュを駆使して描く実験的アニメーション。手塚治虫自身が、原案、構成、演出、作画の四役を担当している。

 手塚治虫がアニメーションを作った理由はいくつかあると言われるが、大きなモチベーションとなっているのは、アニメーションによる多彩な表現方法による、映像革命にあったのだろうと思える。
 だから様々な形での実験的アニメを作っていた。それはアニメーターを限界までぶん回して超絶技巧の作品を目指していったり、作品に文芸的な意味合いを持たせるようなもの。オペラのような環境映画など、方向性は多岐にわたるし、それを長い時間に少しずつ作り上げていった。
 本作もその実験の習作みたいなもので、様々な雑誌のコラージュなどを用いて時事ネタを絡めて人の内面に入るというもので、後の「空飛ぶモンティ・パイソン」で使われる手法の先取りになってる。
 あくまで習作なので、完成度は低いし。やってることも悪ノリに近いが、それでも本作が作られた理由は確かにある。
製作年 1964
製作会社 虫プロダクション
ジャンル 芸術(アニメーション)
売り上げ
原作
書籍名 <A> <楽>
著者名 (検索) <A> <楽>
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