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母なる証明(書籍) _(書籍) |
年代 | ||
2020 | ||
2019 | パラサイト 半地下の家族 監督・脚本 | |
2018 | ||
2017 | オクジャ/okja 監督・脚本 | |
2016 | ||
2015 | ||
2014 | 海にかかる霧 製作・脚本 | |
2013 | スノーピアサー 監督・原案・脚本 | |
2012 | ||
2011 | ||
2010 | ||
2009 | 母なる証明 監督・原案・脚本 | |
2008 | TOKYO! 監督・脚本 | |
ミスにんじん 出演 | ||
2007 | ||
2006 | グエムル -漢江の怪物- 監督 | |
2005 | ||
2004 | 20のアイデンティティ/異共 監督 | |
三人三色 監督・脚本 | ||
2003 | 殺人の追憶 監督・脚本 | |
2002 | ||
2001 | ||
2000 | ほえる犬は噛まない 監督・脚本 | |
1999 | ||
1998 | ||
1997 | ||
1996 | ||
1995 | ||
1994 | ||
1993 | ||
1992 | ||
1991 | ||
1990 | ||
1989 | ||
1988 | ||
1987 | ||
1986 | ||
1985 | ||
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ||
1981 | ||
1980 | ||
1979 | ||
1978 | ||
1977 | ||
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | 9'14 誕生 |
パラサイト 半地下の家族 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2019放送映画批評家協会監督賞、外国語映画賞、作品賞、アンサンブル演技賞、脚本賞、編集賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ソウルの路地裏にある半地下住宅に四人で住むキム一家。夫のギテク(ソン・ガンホ)をはじめとして一家全員定職もなく、アルバイトのようなことをして生活していた。金がなくて大学にも行けない息子のギウ(チェ・ウシク)はある日高校の同級生ミニョクからアルバイトを紹介してもらい、大学生として大金持ちのパク家の娘ダヘ(チョン・ジソ)の家庭教師になった。パク家の主婦ヨンギョ(チョ・ヨジョン)に取り入ったギウは、もう一人のパク家の息子ダソンのカウンセラーとして自分の妹ギジョン(パク・ソダム)を働かせ、その後次々と家族を送り込んでいく。 近年の韓国映画は極めて質が高いものを排出している。国内だけでなく世界市場を視野に入れたものとしても、世界のトップにまで上り詰めたと言っても良い。特に本作はアメリカのアカデミー賞でアジア映画初の(外国語でない)作品賞を受賞するなど、名実ともに世界最高峰の作品と言える。恐らく本作は韓国映画において語り継がれるべき記念的作品となっていくだろう(一切アメリカの資本を使ってない映画がアカデミー作品賞を取るのも恐らく初)。 ところでここまで何作かポン・ジュノ監督の作品を観ていて、気づいたことがある。 この監督が好む題材は、いわゆるB級作品と呼ばれるものが多いのだ。グエムル -漢江の怪物-は怪獣映画だし、母なる証明は強烈なオチの部分を強調するための、ほぼワンアイディア作品である。 こう言うB級作品は低予算で作るのが普通である。何故なら撮影の安っぽさが逆に良い演出になるから。なまじ金を掛けると演出過剰になったりして逆に痛々しいものになるものってこれまでいくらでもある。 例を挙げるならばアメリカのユニヴァーサル・ピクチャーズなんかは過去のホラー作品を金かけて映像化してことごとく失敗してるのは、これが最大の原因だと思っている。一方では低予算を逆手に取って演出にまでした作品は、ブレア・ウィッチ・プロジェクト(1999)とかパラノーマル・アクティビティ(2007)があるし、近年のスマッシュヒット作カメラを止めるな!(2018)も低予算演出だからあれだけ面白くなった作品である。 しかるに本作はどうだろうか? 作品としてはとてもシンプルである。貧乏な一家がチャンスに飛びつき、金持ち一家を騙して取り入り、家族ぐるみで寄生するというパターン。骨子は本当にシンプルそのものだ。 こういうシンプルな作品は予算をあまり掛けない方がソリッドなものができるものだ。家とかもありもので良いし、実際に人が住んでいる家を撮影した方がリアリティが出る。 ところが本作はそこに手を抜かなかった。一流の役者を割り振り徹底的に金を掛けてセットを組んで、とても豪華な映画を作り上げてしまった。 それでバランスが悪くなったのかというと全く逆。これだけの金を掛けて作るだけの強度を持ったものとして仕上げてくれた。まさかここまでのものができるとは予想外。 考えてみたらポン・ジュノ監督作品のグエムル -漢江の怪物-も母なる証明もそもそもが低予算向きの作品だったのを、ほぼ全力で金を使って作り上げていた。これらの経験からバランス感覚を培ってきたのだろう。本作はその結晶とも言える。 本来安っぽい設定を、どのようにして豪華に仕上げるのか。その事を少々考えてみたい。 まず一つに役者の演技の質があるだろう。低予算の作品は役者の魅力を最大限に引き出すことができるが、一方では一人の演技者にすべてを負わせることで危ないバランスの上に作品が作られることになる。たった一人が狂気じみた演技をすることでとんでもなく面白い作品が出来る事もある。 ただそれは低予算だからこそ映えるし危険性が高すぎる。演技のアンサンブルを楽しむ大作ではそれはやるべきではない。だから本作のキャラは全員きちんとコントロールされた演技をしている。だからいろんな伏線を動作に出すことができるし、誰かが突出して目立つことがないため物語全体のパーツとしてしっかりはまっている。荒唐無稽の設定を徹底したコントロールで強度を持たせてる。 もう一点重要なのは、本作は完全に娯楽作品なのに、社会背景がはっきりしているという点である。どこかの時代どこかの国の出来事ではない。2010年代も終わろうとしている韓国社会の今の現実を描いていると言うことである。 本作のタイトルにもなっているけど、半地下という不思議な家の構造がある。これは韓国ソウルに特有の部屋で、調べてみるとソウルの建物の2%ほどにはこれが付いているそうだ。何故こんな不思議な構造の部屋があるのかというと、これは歴史的背景がある。 実は朝鮮戦争で一度ソウルは北朝鮮によって火の海になったことがあった。その時はアメリカの助力で押し返すことはできたもののいつ再び韓国が戦乱に巻き込まれないとも限らないため、当時の朴正煕大統領は1970年に建築法を改正して、それぞれの家に防空壕の役割を果たす地下施設を作ることとなった。本来なら完全な地下室を作る方が良いのだろうが、金がかかるため、建築法上許されていた安価な半地下を作ることとなった(物語後半にこの地下室の構造が重要になっているのは観れば分かるとおり)。 その後戦争状態も遠くなり、経済発展を果たした韓国にとって必要性の薄くなった半地下だが、それを安価な賃貸物件として扱うようになり、そこを借りて住む世帯が出てくるようになった。「半地下」とは貧乏人を意味する暗喩にもなっている。 本作は朝鮮戦争からの流れを受けてという歴史的背景がしっかりしているから、歴史を踏まえた上で「今」の物語としてはっきり受け止められる。 そして現在の韓国の大問題となる格差社会についてもはっきり言及している。特にソン・ガンホ演じる父親ギテクが本当に見事に今を言い当てている。 運転手として起用された時に雇い主のパクに運転の上手さを言われる位なので、器用だし仕事もできる人物に思える。ああ見えて家族をきっちりまとめているので、ちゃんと仕事さえあれば立派な一家の大黒柱となっていたはずの人物である。だが、どんな能力を持っていたとしても、それで努力することを放棄している。息子のギウが底辺から這い上がろうとしているのを否定はしないものの、言葉の端々にこの世界で生きる事の無意味さをにじませている。 多分彼はこれまでいろんな努力をしてきたんだろうと思う。その度ごとにへこまされてきてこんな風になった。でも自暴自棄にはなってない。かなりギリギリのところで踏みとどまっている人物である。 それだけ今の韓国は格差が広がってしまったという事を示している。そしてこの格差社会は韓国だけでなく日本でも、世界でも広がっている。ギテクの厭世的な台詞は全部世界の貧困社会の人々の言葉に通じるのだ。 これを下敷きにすると、ギテクが最後に行った行動が分かってくる。彼は理不尽に長年さらされ、それをただ無感動に受け流すだけの人生を強いられてきた。一見超然としているその姿はほとんど全てを諦めてしまった姿でもあるのだ。だがそんな彼にとって自分の家族だけは最後の感情の拠り所だった。その家族がないがしろにされていると感じた瞬間、これまで押さえつけていた全ての感情が吹き出してきてしまったということになる。やっていることは凶行だが、彼が人間性を取り戻す話でもあったのだ。 ある意味で、閉塞的な韓国社会と伝統的な儒教的価値観のぶつかり合いを描くものでもあるし、もう社会は我慢の限界に来ているというメッセージとも取れる。ある種同じくオスカーを争ったジョーカー(2019)と通じるテーマがある。 本作が世界的に受け入れられる理由とは、まさしく世界を覆う閉塞感を描く作品だからで、最も今の時代に即した作品だからとも言える。 ジョーカーの時も感じたが、本作のメッセージはネットワーク(1976)と同じである。すなわち、「私は怒っている。もう我慢しない」というメッセージそのもの。本作は実はとても危険な作品なのかも知れない。 低予算向きの作品を大作として完成させられたのはこれらの配慮がきちんとなされていたことからだろう。 似たパターンの作品は作られやすいので、本作は映画の一つの指標となる作品となるだろう。 |
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スノーピアサー Snowpiercer |
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母なる証明 2009 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
2009インディペンデント・スピリット外国映画賞 2009キネマ旬報外国映画第2位 2009映画館大賞第7位 2010LA批評家協会女優賞(キム・ヘジャ) 2010オンライン映画批評家協会外国語映画賞 2010ボストン映画批評家協会外国語映画賞 2011サターンインターナショナル賞 |
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グエムル 漢江の怪物 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006キネマ旬報外国映画3位 2006サターンインターナショナル映画賞、若手俳優賞(コ・アソン) 2006アジア映画作品賞、男優賞(ソン・ガンホ)、撮影賞、視覚効果賞、編集賞 2007allcinemaONLINEユーザー投票第8位 2007ゴールデン・トマト・アウォーズ小規模公開作品第4位、外国語作品賞 |
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ソウルを流れる漢江の河川敷で三代で売店を営むパク一家。家長のヒボン(ピョン・ヒボン)、愚鈍で兄弟からも馬鹿にされる長男カンドゥ(ソン・ガンホ)、アーチェリー国体選手の長女ナムジュ(ペ・ドゥナ)、かつて学生運動の闘士であり、今は無職の次男ナミル(パク・ヘイル)。カンドゥには中学生になる一人娘ヒョンソ(コ・アソン)がおり、彼女が一家全員の愛情を一身に受けていた。そんなある日、河川敷から突然正体不明の巨大な生き物が出現し、驚く人びとを次々に襲う。ヒョンソを連れて逃げようとしたカンドゥだったが、怪物に追われる人びとの中でヒョンソの手を離してしまい、ヒョンソは怪物に連れ去られてしまうのだった。その後、怪物は強力なウィルスの宿主であるとした政府によってパク一家は強制的に隔離されてしまう。そんな時、カンドゥの携帯に死んだと思われたヒョンソから助けを求める一本の電話が入る… 韓国では記録を塗り替える大ヒットを記録し、興奮そのままに日本に乗り込んできた韓国製モンスター作品。事前情報でもかなりの高評価を得ていたし、友人などはこの作品が日本の特撮作品の屋台骨を揺るがすのでは?などとも言っていたし、結構楽しみにしていた。 それで一見。 まずはっきりしているのは、これは日本の怪獣作品と較べるべきものではないと言うこと。 日本の怪獣映画は『ゴジラ』(1954)を頂点とし、独特の進化を遂げてきた。それは一種の“伝統芸能”というか、“粋”の領域に入り込んでいるのかもしれない。日本の怪獣ものにとって重要なのは“タメ”の部分。つまり怪獣を出さずにどれだけ人間で持って行けるか。と言う演出である。最後のカタルシスへとつなげていく重要な“間”という奴である。ある映画批評家は「怪獣映画では、怪獣が出た時点で物語は終わる」と言っていたが、それはその通りで、今の日本で怪獣映画を作ると、怪獣が出た時点でプロレスになってしまい、物語そのものが意味をなさなくなってしまうのである。 これには構造的な問題もある。 円谷英二が世に送り出した空前絶後の怪獣映画『ゴジラ』は多くの影響を映画界に残してくれたが、同時に負の遺産も残してしまった。それもいくつか挙げられるが、その一つが、“怪獣は巨大である”というテーゼを作り出してしまったことにある。 巨大怪獣は、その巨大さ故に人間と断絶する。 その断絶をいかにして埋めていくか。これが以降の日本怪獣映画における最大の命題となった。これには様々な方法が考案されたのだが、何故か最も肝心な部分。何故怪獣を人間サイズにしなかったのか?と言うごくごく単純なものを作ろうとしなかったのか。そこに問題があるのだと思う。 作れる要素はあったはずなのだ。少なくなくとも30年前にだったら、それを作ろうと思った人間がいてもおかしくなかったんだが…多分諸般の事情があるのだろうが、お陰で日本における怪獣映画とはすなわち巨大怪獣の出る、怪獣プロレスの作品になってしまった(アニメだったら結構あるんだけどねえ)。東宝や円谷、東映大映といったメジャーがそう言う呪縛に捕らわれているんだったら、松竹か日活辺りが出してみても良かったと思うんだよな。 しかし、海を隔ててそれを考えている人がいたわけだ。何も慧眼というわけではない。日本映画が取り残してしまったものをすくい上げただけだ。 ただ、その分、色々考えられている。怪獣のサイズがあの大きさだからこそ、最初遠目になんだか分からない存在というシチュエーションが活きるのだし、特に怪物が人間を“下からすくい上げる動作”が多いのも感心できる点。あまつさえ怪物を踏み台にするシチュエーションまで用意されている。あのサイズだからこそ出来ることを最大限に活かした演出は見事と言おう。 それに、本作は怪物そのものよりも人間ドラマの方に力点が置かれている。 それに関してはクリアしてると言って良いんじゃないかな?無力なはずの一家族が、家族を助けるために命がけで戦う!というのは、燃えるシチュエーションだが、実はこう言うのは結構少な勝ったんじゃないかな?彼らに怪物と戦う使命のようなものは無い。あるとすれば、ただ家族が無事でいればいい。というだけの実に単純な動機に突き動かされているに過ぎない。当然特殊装備なんぞ無く、おじいちゃんの持っている財産や、へそくりまで導入して何とか怪獣に近づいて、何とか子供を救おう。と言うもの。必死なのは分かるが、ただ必死なだけ。しかし逆にそれが妙なリアリティとなっているのが面白い。少なくとも、これだけ人間よりのストーリーが展開する怪獣ものは日本にはなかった。近いのを挙げればハリウッドのモンスター作品だろうけど、家族を助けると言うシチュエーションをここまで出したものは記憶がない。本当に家族を大切にする、韓国という土壌の上にこそ成り立った物語なのだ。 それと、本編を貫くブラックな笑いも重要。最初にホルムアルデヒドを漢江に流したという事件は事実を元にしたそうだが(2000年に起きたいわゆる「メックパルレンド事件」がそれで、米軍の指示により、古くなった死体霊安室に置かれていたホルムアルデヒド25箱を漢江に流したというもの)、これでアメリカと韓国の関係を端的に示しただけでなく、軍と民間人の軋轢や、金で転ぶ友情など、どことなく滑稽に、しかし痛切に批判して見せている。この作品が韓国国内で大受けしたというのは、結局怪獣そのものよりも、こういった批判精神の方に共鳴する人が多かったと言うことなんじゃ無かろうか? ただし、一応褒める部分は多いのだが、同時にこの作品には問題も多く、実は最後までどうしても乗り切れないものも感じてしまう。怪物と人間との対決は緊張感があるんだが、肝心な人間同士の問題で、あんまりにも簡単に軍の病院から脱走する主人公とか、いくら金がものを言うと言っても、あんまりにも簡単に買収されてしまう人間のいい加減さとか、これは笑うべきなんだろうか?それとも韓国的なリアリティなんだろうか?その辺が斟酌できなかった。何より、怪物が何故生まれてきたのか。本当に怪物は一体だけしかいないのか?その辺が綺麗にスルーされているのはいただけない。怪獣映画では、そう言ったケレン味があってこそ楽しいんだから。 それにしてもシチュエーションは結構古くささを感じるんだよなあ。次男のナミルは学生時代は闘士であり、それ故にまともな就職も出来ない上、手慣れた動作で火炎瓶まで作ってる。あまつさえ「俺たちが民主化に貢献したのに」とまで言ってる。これって朴 正煕軍事政権の時代の話じゃないのか?朴政権が転覆したのって、1979年。今から30年前だよ。ポン監督、その時からこの作品を考えていたんだろうけど、設定の大枠を変えないのは問題じゃないか? 結論言わせてもらうと、本作は決して傑作ではないが怪獣好き以外の人間にも広くお薦めできる面白い作品には違いない。 |
殺人の追憶 2003 | |||||||||||||||||||||||||||
2004キネマ旬報外国映画第2位 | |||||||||||||||||||||||||||
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パク刑事は任務に忠実なあまり、拷問やでっち上げも辞さないが、一方のソ刑事は冷静に事件を受け止める。冤罪が許されていた時代の韓国を描く。 |