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勝つために戦え

「勝つために戦え!」
2006
エンターブレイン
 「勝負論」と題し、様々な事柄に対する「勝ち」と「負け」を押井監督なりの理解の上、対談形式で語り尽くした作品。
 内容となる「勝負論」は多岐に渡るが、そのほとんどは押井氏が今興味を持っているサッカーについてのものが圧倒的に多い。特にヨーロッパリーグとなると興味がない私としては、分からないことも多いのだが、「勝負論」という概念はかなり興味深い。何事につけ、勝負を念頭に置くと、色々物事が分かることも多い。参考になった。
 正直、今の自分の立場からして、短期的、中期的な勝ち負けは明確にしておいた方が良いみたい。

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「勝つために戦え!(監督編)」
2010
徳間書店
1.常勝監督の悲劇
2.キャメロンの冒険
   前著「勝つために戦え」の続編。前巻が主にサッカーの勝敗論に終始していたが、こちらは映画監督について語る…と言うか、言いたい放題インタビューに答えた作品と言って良い。
 ここで語られているのは、基本的に前作を踏襲し、「自分にとっての勝利」をどこに設置し、そこに至るための努力が出来るのか。と言う事。個々の監督達がどのような立場で勝利の基準を置き、そしてその勝利を得る事が出来たのか?その事を中心に語る。
 監督が話の中心となるので、以下細かく。

1.常勝監督の悲劇宮崎駿、鈴木敏夫)

   押井は宮崎駿の天空の城ラピュタの興行成績が目標に届かなかったと言う事を聞いた時に、監督が勝負に勝つというのは興行との戦いと言う事をしみじみ思ったのだとか。実際前作である風の谷のナウシカよりは客は入っているにも関わらず、そこで設定した興行成績があまりにも高すぎたから。
 ちなみに自分自身の作品に関しては「大ヒットはない」と断言。最高で観客動員は80万(意外なことにこれはイノセンスではなく、うる星やつら オンリー・ユーうる星やつら2 ビューティフル・ドリーマーの2本)
興行成績に関しては仕掛け人が鈴木敏夫なので、ひとしきり文句をたれてる。
 映画監督にあって、勝ち負けは監督の数だけある。
 例えばそれはどんなに赤字を出したとしても撮り続けられる事であったり(例を挙げているのがジャン=リュック・ゴダール。『勝手にしやがれ』以外全部赤字でも撮り続けている)、俳優がこぞって使われたがる監督になることである(例として挙げているのがテレンス・マリックティム・バートン)。彼らは一種の名誉職にあると言っている。
 日本でそう言った名誉職となるものと考えられるのは海外の評価。北野武塚本晋也石井總亙是枝裕和、そして押井守自身。これは望んで出来るのではなく、日本では受け入れられないような作品が、たまたま外国で受けてしまったため。 
ちなみにティム・バートンはヒットメーカーであり、現にこれが書かれた後のアリス・イン・ワンダーランドは大ヒット。この認識は少々ずれている。
 押井自身がカンヌで受けた分不相応の歓迎ぶりを語り、今日本で監督で勝負するのは、自分で見つけたそれぞれの戦略でやるしかない。と結論づける。
 宮崎駿という監督はビジネスと名誉を両方手に入れた希有な監督。しかし、それ以外の全てを失ってしまい、結果は不幸になってしまった。あれは
完全におかしくなってるとのこと。
 本人曰く、天使のたまごで危うく帰り道を見失いかけたが、最後はなんとか帰ってこられた。とのこと。
 宮崎に対して高畑勲は、もはやクリエイターではなくインテリになってしまった。地位はあるものの、もはや戦うことは出来ない。ジブリの鈴木と宮崎がジブリに飼い殺しにしているのがその証拠。あるいは御輿として持ち上げる日は来るかも知れない。
 そもそも高畑は有能なプロデューサが一緒にいない限りは作品を作る事が出来ない人物。それは自分自身で管理することをしないのに、完全主義者だから。
 
ただ、ファンとしては、宮崎が不幸なら、押井はもっと不幸だった方が良い作品が作れただろう。と夢想もしてる。
 勝利条件を満たすためには騙しもするし、恨まれもする。それが出来ないと監督にはなれない。ただし、押井はスタッフを裏切ったことだけは無いと語る。
 富野由悠季と庵野秀明を例に挙げ、一本の大ヒットを出したことにより、いかにそれに縛られるようになるか。一回大勝ちした場合、勝利条件は相当に狭まってしまう。
 その上で、「僕は大ヒットを飛ばしていない」と開き直ってる。むしろそれだから作り続けられていることを語る。
 
 ここで「COMICリュウ」の付録についた「女立喰師列伝 ケツネコロッケのお銀パレスチナ死闘篇」に言及。編集者には「200万で作る」と言っておいて、実際にはその倍以上はかかったという。
 これは決して損はしてないことを強弁。この作品もきっちりとフィルモグラフィとなっているので、映画を作り続けている限り、この作品もちゃんと生き残り続けると断言。
 映画を作るには「発明」が必要。一本一本の映画で何かしらの「発明」をしてきたことが押井にとっての勝負であり、これからもそれを続けていくことを宣言している。
 特に近年の押井の発明とは、原作権をいかに自分のものにするのかが大切であることを学んだという(ちなみにこれはイノセンスを作った時、印税は全部I.G.の方に持って行かれ、押井個人にはほとんど入ってこなかったと言う事が反省点になっているのだとか。
 
この付録はその後単独でDVD化、その後真・女立喰師列伝の映画化と、確かに面白い展開を見せた。
原作権に言及してる割にはこの時点で作っているのが森博嗣のスカイ・クロラ The Sky Crowlersという原作付きなのは矛盾してる。
 勝敗論とは相対論が必要であり、その相対論を掴んだ人間だけが勝利条件を理解することが出来る。
 例えばビジネスマンは金という分かりやすい目標があるが、それで得た金が政変によってあっという間にむしり取られることもある。そのためにこそ勝敗論はきちんと見据えていなければならないと語る。
 

2.キャメロンの冒険ジェームズ・キャメロン

 『タイタニック』以来監督としては沈黙を守ってきたキャメロンが突然投入した『アバター』が国際的大ヒット。押井自身も認めるこの監督は、押井曰く、「日本でも三回くらい、来日する度に会ってた。アイツん家にも二回行ってる」そうである。
 初期の頃は映画を撮ること自体が楽しく、そこで新しい発明を次々していったのがキャメロン。その頃が一番面白かった。これは心底監督をすると言う事を楽しんでいたから(ここでちらっと「スピルバーグの良さっていうのはそれだけだもん」とかとんでもない事を言ってる)。 
演出家か、プロデューサーか。それが問題だ!?
 ただ、キャメロンの場合、『タイタニック』を作ってしまったことが、一種の不幸。これ以上のヒットは不可能だったから。その後、プロデューサに転向したのは、押井も「気持ちは分かる」と言っている。これは「映画を仕掛ける」事が楽しいから。どこに金を使い、それで何が出来るか。理詰めで考える事が出来るから。
 だから制作もこなすようになった。とは本人の言。
 一方、監督は時として誇大妄想に陥るため、それを抑えるのもプロデューサの役割。『タイタニック』にはその抑える人がいなかったため、徹底的な作り込みがなされていた。
 
本文中にも少し書かれているが、監督から製作者に転向して良い作品を作っている人は多い。スピルバーグ然り、コッポラ然り、面白いところだとデヴィートも優れた製作者として知られている。
押井監督のレイアウトシステム
 ハリウッドの監督は編集権を持たないため、現場の演出家に過ぎない。だから自分の映画を作るために必ずプロデューサを目指している。
 ただし、キャメロンはそれで止まることなく、自分の思い描く映像を作るため、自分の映画を作る条件そのものの開発から始めた。もし今のシステムで作れないなら、作れるようにシステムを開発していくことになる(『アバター』はその典型的な例で、構想自体は20年前にあったが、この映像を手に入れるまでお蔵入りさせていた)。
 押井自身はAvalonでやった。日本ではどう考えても撮れないので、撮れる場所まで行った。
 与えられた脚本で、与えられた枠の中で、演出家として機能するのなら、監督だけで構わない。しかし映画それ自体を作り出そうとするのならば、監督はある程度プロデューサ的な動きをせざるを得ない。
 
日本とハリウッドの作り方の違いがここにははっきり現れており、ハリウッドの場合編集権を持つ事が「製作者」となることとなる。日本と違い、なかなか「私の映画」と言えないのがハリウッド。
映画監督たるもの、常に発明家であれ
 押井自身も数々の発明をしている。その一つとしてレイアウトシステムがあるが、そこに至るためにもかなりの苦難があった。その結果としてMETHODという本まで出した。これは確立した世界を作るためには必要な事と考えてやっていたこと。イノセンスでは2Dと3Dのマッチングという試みもやった。
 押井自身としては、実際に自分で手を出して映画を作るよりも、映画のデザインに全力投球したいという思いがある。これはこれまでプロデューサーの仕事だったが、本人の希望では資金まわり以外はこう言う仕事をしてみたいので、現在はその挑戦中。
 同じような意味でプロデューサー的資質を持つ監督と考えると、やはりジェームズ・キャメロンであり、あるいはジョージ・ルーカスとなる。
 でも、押井に言わせるとそれは普通。自分でプロデュースすることによって作品的な成功と社会的な成功を合わせて初めて「勝ち」を意識出来る。
海の底にいる神様
 それでは大ヒットを飛ばしたキャメロンは幸せなのだろうか?しかし何故か不幸に見えてしまう。それは未だに楽しそうに映画を作っているスピルバーグと較べてみると分かるという。スピルバーグにとっては、「代表作は?」と聞かれて即座に出てこない。この人は場外ホームランは無いが、コンスタントにあたりを繰り返しているから、今も作るモチベーションが落ちない。対してキャメロンは『タイタニック』で場外ホームランをかっ飛ばしてしまったため、常にそれを持ち出される結果となる。これは映画作りのモチベーションを下げてしまう。

 そして押井自身の代表作とは何か?観た人にとって、それは全く異なってしまう。つまり代表作が絞られないからこそ、今も映画を作っていられると言う。

 最早キャメロンは普通の意味での映画作りには情熱は持っていないのだろう。むしろ海に潜るドキュメンタリーの方が遥かに楽しいに違いない。ただ、この方向性はかつてのD・W・グリフィスと同じで誇大妄想に陥りかねない。
 つまり、今キャメロンは勝利条件を見失ってしまった状態にある。

 ここで押井は自分にとっての勝利条件を語る。それは「次回作を撮る権利を留保すること」。
スピルバーグについてそれを言ったのはこの人くらいだろう。
【キャメロン補講】
 『アバター』公開後、改めてインタビューを行った内容。この作品をわざわざ監督が観に行ったと言う事が凄いという言葉に対し、CGや特撮をやってる人間にとってはこれは大事件であるという。
 ここで監督は完全に敗北宣言を出し、日本の映画はハリウッドの真似をしても仕方がない。と語っている。
 物語について少しだけ語っているが、海兵隊というのはアメリカの意志そのものなのに、この映画では悪役であることに驚いている。
「力業じゃなくて演出力で」
 『アバター』の面白いところは、ラブロマンスであるに関わらず、キャラクターは青い馬面。これを可能とさせたのは、圧倒的な演出力でパンドラの世界観を見せたから。背景の中で違和感を感じさせないように作っていた。
 特にパンドラ人を自然に見せるため、細かいところで徹底して演出していることに感心している。
「高い勝利条件をさらに高く」
 これを観た上で、最初の質問「キャメロンは勝利したのか?」が再び繰り返されるが、「結論は変わらない」とする。ただし『タイタニック』が最後の勝利ではなかったと言うだけで、『アバター』でますます勝利条件を上げてしまっただけ。
 ここで本来押井がやろうと思っていた
『ガルム戦記』は実写の情報量を持ったキャラクタを使い、実写素材を駆使してアニメーションで描く。と言う事をしたかったと明かしている。
 ただし、この企画が実現していたら、今のような一日三時間働いて後は遊んでいるような生活は手に入らなかった。と漏らしてもいる。
瞬間的に殺意を覚えるようなことを平気で言うようになったな。この人は。
3.押井守の発明品
 かつて映画界にも新案特許があったが、それは廃れてしまった。
 そもそも映画はエジソンが作ったとされるが、フランス人に言わせれば、リュミエール兄弟だし、イギリスであればウィリアム・フリース=グリーンとなる。その辺の曖昧さが初期の映画業界にはあって、それに興味を持った押井は「映画の創生期は呪われた歴史である」話を『トーキング・ヘッド』でやった。
「映画の革新には二種類ある」
 映画の発明とは、初期には純粋に技術的な発明。最初が音声、二回目は色彩、そして三回目はデジタル。
 押井的には、そこにソフト的な革命も入れなければならない。それは劇映画の誕生。映画にとっての本当の革新はそこにあったのではないかと提言している。
 更にそこにスターの誕生があって、映画産業は成り立ったと言っている。
この辺もトーキング・ヘッドで語られている事。