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コメディアンのビートたけしと監督の北野武を使い分けている。 | |||||||||||||||||||||||
全思考(書籍) 女たち(書籍) _(書籍) |
2023 | 首 監督・原作・脚本・出演 | ||||||||
アナログ 原作 | |||||||||
2022 | |||||||||
2021 | 浅草キッド 原作 | ||||||||
2020 | |||||||||
2019 | 二つの祖国 出演 | ||||||||
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2018 | 天才たちの頭の中 〜世界を面白くする107のヒント〜 出演 | ||||||||
2017 | アウトレイジ 最終章 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
破獄 出演 | |||||||||
ゴースト・イン・ザ・シェル 出演 | |||||||||
2016 | ドクターX 〜外科医・大門未知子〜 スペシャル 出演 | ||||||||
女が眠る時 出演 | |||||||||
2015 | 赤めだか 出演 | ||||||||
人生の約束 出演 | |||||||||
劇場版 MOZU 出演 | |||||||||
2014 | 龍三と七人の子分たち 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
黒い福音 〜国際線スチュワーデス殺人事件〜 出演 | |||||||||
2013 | キッズ・リターン 再会の時 原案 | ||||||||
2012 | アウトレイジ ビヨンド 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
あなたへ 出演 | |||||||||
2010 | アウトレイジ 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
歸國 出演 | |||||||||
検事・鬼島平八郎<TV> 出演 | |||||||||
2009 |
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2008 | アキレスと亀 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発 出演 | |||||||||
あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機 出演 | |||||||||
2007 | それぞれのシネマ 〜カンヌ国際映画祭60回記念製作映画〜 監督・出演 | ||||||||
素晴らしき休日 監督・出演 | |||||||||
監督・ばんざい! 監督・脚本・編集・出演 | |||||||||
点と線 出演 | |||||||||
菊次郎とさき(第三期)<TV> 原作 | |||||||||
2005 | TAKESHIS' 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
菊次郎とさき(第二期)<TV> 原作 | |||||||||
2004 | アラキメンタリ 出演 | ||||||||
ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム 出演 | |||||||||
血と骨 出演 | |||||||||
IZO 出演 | |||||||||
2003 | 座頭市 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
バトル・ロワイアル II〜鎮魂歌(レクイエム)〜 出演 | |||||||||
菊次郎とさき(第一期)<TV> 原作 | |||||||||
武蔵 MUSASHI<TV> 出演 | |||||||||
2002 | Dolls ドールズ 監督・脚本・編集 | ||||||||
浅草キッドの 浅草キッド 原作 | |||||||||
鬼畜 出演 | |||||||||
ビートたけしドラマスペシャル 張込み 出演 | |||||||||
明智小五郎 対 怪人二十面相 出演 | |||||||||
2000 | BROTHER 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
菊次郎とさき 原作 | |||||||||
三億円事件 出演 | |||||||||
百年の物語 第二部〜愛は哀しみを越えて〜 出演 | |||||||||
バトル・ロワイアル 出演 | |||||||||
1999 | 菊次郎の夏 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
ナニワの用心棒 出演 | |||||||||
御法度 出演 | |||||||||
残侠 ZANKYO 出演 | |||||||||
1998 | TOKYO EYES 出演 | ||||||||
1997 | HANA-BI 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
1996 | Kids Return キッズ・リターン 監督・脚本・編集 | ||||||||
1995 | GONIN 出演 | ||||||||
JM 出演 | |||||||||
1994 | みんな〜やってるか! 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
1993 | ソナチネ 監督・脚本・編集・出演 | ||||||||
教祖誕生 原作・出演 | |||||||||
説得 エホバの証人と輸血拒否事件 出演 | |||||||||
1992 | 銀玉マサやん 出演 | ||||||||
エロティックな関係 出演 | |||||||||
魚からダイオキシン!! 出演 | |||||||||
修羅の伝説 出演 | |||||||||
1991 | あの夏、いちばん静かな海。 監督・企画・脚本・編集 | ||||||||
金の戦争 出演 | |||||||||
1990 | 3-4X10月 監督・出演 | ||||||||
ほしをつぐもの 企画・出演 | |||||||||
ビートたけしの痛快時代劇 なめくじ長屋捕物さわぎ 出演 | |||||||||
斬殺せよ 切なきもの、それは愛 出演 | |||||||||
浮浪雲<TV> 出演 | |||||||||
1989 | その男、凶暴につき 監督・出演 | ||||||||
美空ひばり物語 出演 | |||||||||
1988 | 姐御 あねご 出演 | ||||||||
1986 | 続・たけしくんハイ!<TV> | ||||||||
コミック雑誌なんかいらない! 出演 | |||||||||
1985 | イエスの方舟 イエスと呼ばれた男と19人の女たち 出演 | ||||||||
たけしくんハイ!<TV> 原作 | |||||||||
夜叉 出演 | |||||||||
悲しい気分でジョーク 出演・主題歌 | |||||||||
1984 | ビートたけしの学問ノススメ<TV> | ||||||||
ビートたけしのこにくらじいさん<TV> | |||||||||
1983 | 昭和四十六年 大久保清の犯罪 出演 | ||||||||
みだらな女神たち 出演 | |||||||||
十階のモスキート 出演 | |||||||||
戦場のメリークリスマス 出演 | |||||||||
笑ってポン!<TV> 「紅白仮面」出演 | |||||||||
1982 | 夏の秘密 出演 | ||||||||
刑事ヨロシク<TV> 出演 | |||||||||
1981 | すっかり・・・その気で! 出演 | ||||||||
マノン 出演 | |||||||||
ダンプ渡り鳥 出演 | |||||||||
THEタケちゃん・マン 出演 | |||||||||
1980 | まことちゃん 声の出演 | ||||||||
1947 | 1'18 東京で誕生 |
首 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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天下統一を目指す織田信長(加瀬亮)は配下の武将に対して激しい折檻を加えることでも有名だった。そしてそんな扱いに耐えきれなかった家臣の荒木村重(遠藤憲一)が反乱を起こしてしまった。怒りに燃える信長は家臣を集めて怒鳴り散らし、羽柴秀吉(ビートたけし)と明智光秀(西島秀俊)の二人に村重討伐を命じる。ついに城は落ち、こっそりと逃げようとした村重を捕らえる光秀だが、村重を献上することなく、何故か自らの城に留め置いていた。それを疑問に思った秀吉は、配下の黒田官兵衛(浅野忠信)に調査を命じる。 『アウトレイジ 最終章』から6年。この間に北野監督は事務所を辞めて新事務所を立ち上げたりと、色々話題になっていたが、褒められないことばかりやってるお陰で、映画作ろうにも金が集まらないのではないか?などと考えていたのだが、なんとこの年になって新作が観られるとは。公開されたという事実だけでも嬉しい。 事前情報で、これが監督が30年も温めていた企画だと聞いていたが、監督の場合、それはあんまり意味はないだろうと思ってた。優れた感覚を持つ監督は、深く考えるよりも感覚優先した法が良い作品が出来るし、むしろあんまり考えすぎない方が良いものが出来るものだと思っていた。 そう思ってた。 しかし、本作観て少し考えを改めた。 少なくても、本作はじっくり考えた上でなければ作られない作品だった。特に監督自らが演じた秀吉の姿を見ると分かる。 この当時の羽柴秀吉の造形は、作家によって随分異なる。信長が好きで、ひたすら信長に従うことを喜んでいる場合もあるし、逆に裏で画策して信長の裏を欠こうとしているずる賢い人物として描かれることもある。小者感溢れる場合も大物感を持つパターンもある。その辺をどう扱うかが重要なのだが、北野監督、この秀吉の役を自分自身だったら?という観点で考えていた。 北野武にとって、ビートたけしという存在は、ある種自らのアバターである。北野武とビートたけしは相似の関係にあるが、明らかにビートたけしというのは北野武によって作られた存在である。確かに若い頃は同じだったかも知れないが、おそらく漫才師を止めた辺りから、北野武自身は教養ある文化人へとシフトしていく。一方テレビの中に存在するビートたけしは破天荒な毒舌家であり、少しアウトローの立場で言いたい放題言う立場というものだった。 昔からその二つの姿にちぐはぐさを感じていたのだが、北野武がビートたけしという存在を自らのアバターとして作り出したと考えるとしっくりくる。 そして自分が作り出したビートたけしを、色んな世界で主人公にしたらどうなるか?というのをずっと考えていたのだろう。その一つとして、ビートたけしという存在を戦国時代に放り込んだらどのような反応をするのか。それが可能なのは誰なのか。その立場に立ってずっと昔から考えていたのだろう。そうなるとビートたけしにぴったりの役割は明らかに羽柴秀吉である。 本作における秀吉は、まさにビートたけしそのもの。毒舌家でアウトロー、ただし自分は安全圏内で言いたい放題を言うし、策略を巡らせて人と人を争わせる。かなり性格の悪いキャラとして描いているのだが、何よりものすごく即物的な立場を崩さない。「人間はどうせこんなものだ」という突き放した考え方をしていて、そこにある感情やら思いやらを一切斟酌しない。むしろ彼らの感情を利用して自らがのし上がる手段としか見てない。極めてドライであり、自らも含めて「糞みたいな人生」と位置づけている。 普通人間はそこまで達観できない。出来るとすれば相当なサイコパスだ。北野武自身もそんな達観は出来てないが、しかしアバターであるビートたけしならそれが出来る。そう言う人間として作り上げてきたのだから。 だから、本作における秀吉はビートたけし意外にあり得ない。他のキャラは代替えは利くが、秀吉だけは自分自身で演じなければならない。それこそ30年前であれば、まだ若い頃の秀吉として演じられた。もはや老人となった今、それでも秀吉を演じるのは自分しかいないという思いで作ったのだろう。 完全に人間をものとしか見てない秀吉は最終的に全てを手に入れることになる。一方、感情に飲まれた人間は次々に落伍していく。愛情を信じた荒木村重、信長が魔王であると信じて従い、それが裏切られたことで殺害しようとする明智光秀、そして自らが愛されているという思い込みで突き進む信長。全員が自らの感情に飲み込まれ、それを秀吉に利用されて死んでいく。 通常の時代劇は義理人情や野望と行った感情を重要視するのに対し、それらを完全に突き放し、打算だけでのし上がる人物を描いた本作は、大変ユニークな作品と言っても良い。この視点はとにかく気に入った。ここまでドライな秀吉を作り上げたことと、それがビートたけしそのものであったこと。これだけで充分面白い。 それでもちょっと不満だったのが、中村獅童演じる茂助がちょっと浮いていることと、木村祐一の曽呂利新左衛門の存在感をもうちょっと強く出していればとは思う。彼らの存在がストーリー上あまり有効に使われてなかった感はあり。そもそも曽呂利新左衛門がその存在感を出すのは秀吉が天下を取ってからのはず。なんでここで退場しなければならないのだ? |
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アウトレイジ 最終章 2017 | |||||||||||||||||||||||||||
2017日本アカデミー音楽賞、録音賞、編集賞 | |||||||||||||||||||||||||||
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山王会を壊滅させてしまった大友(ビートたけし)は、日本にいられなくなり、友人のつてを辿って韓国に渡り、済州島の歓楽街を仕切っていた。そんなある日、日本の最大暴力団である花菱会の幹部花田(ピエール瀧)が済州島で女を買い、もめ事を起こしてしまう。行き違いから組員を殺されてしまった大友は、因縁浅からぬ花菱会に乗り込むために帰国する。その頃花菱会は会長の野村(大杉漣)と、それに反発する若頭・西野(西田敏行)は敵意を燃やしていた。そんな中、西野は大友が帰国していることを聞き及び… 容赦ない暴力描写と暴力団の内部抗争を精緻に描いた『アウトレイジ』シリーズ第3作。まさか監督自身も三作まで続くとは思ってなかっただろうが、これにて完結を迎えた。 1作目『アウトレイジ』は「義理と人情」は名ばかりの暴力団組織の中で、古い価値観を持つ大友の苦難を描き、2作目の『アウトレイジ ビヨンド』では再び娑婆に舞い戻った大友による復讐劇が描かれている。最初の舞台となった山王会に関わる物語はこれですっきりと終わっているため、これ以上の作品は不必要だと思っていたものだが、いざ三作目の本作を観て、これまでの二部作で一つだけ足りなかったものがあったことに気づかされた。 1作目と2作目で作品としてはちゃんと完結しているし、描写も過不足なかった。それに3作目の本作でやってることは基本的に2作目と同じような展開になっていて、ほとんど目新しさは無かったのだが、前二作を受けての集大成を目指したのか、いくつか特徴はある。 まずは前二作の核となる部分をどちらも取り入れていること。 大友が再び古いタイプのやくざものに戻っていること。今回の殴り込みは大友にとって利は無いし、理も無い。確かに大友にとって花菱会は因縁浅からぬ相手ではあるが、そこになんら感情のこじれは無い。実際積年の恨みを持つはずの西野とあっさりと手を組んでいることからも推測できるだろう。 大友にとって今回の帰国はただお世話になっていた韓国の裏社会に対するけじめをつけるためだけの行為であろう。この古いやくざものというテーゼは1作目に現れるもので、今回の大友はそれに沿ってほぼ義理と人情だけで行動している。 一方、その義理人情は大友の中で完結したものなので、しがらみには捕らわれず、標的を淡々と処理しているのが二作目に通じるところである。 物語の終わりまで基本的にこの方向性で進むため、同じ事を繰り返してるだけか、と思わせる。 ところがこれがラストシーンでいきなり変化する。 ラスト。大友がなすべき事は二つあって、どちらを選ぶ?と思っていた。一つにはこれまで散々裏切り劇を演じてきた西野に対して牙を剥くパターン。流れからするとこれはあり得ないのだが、結局第二作から続いて西野の手のひらの上で踊ってるだけなので、花菱に一矢報いて欲しいという思いもあった。 そしてもう一つは、仕事人よろしくただ去って行くパターン。こちらの方向を取るのだろうと思っていた。 ところが、ラストシーンで大友はおもむろに拳銃を出すと自らに突きつける。まるで『ソナチネ』のラストシーンのように。 本人曰く、それが「けじめ」なのだそうだが、その必要性は無いようにも思える。ただ去って行くだけで何が悪いのか? しかし、大友は引き金を引いてしまう。 その理由は直後に分かる。 かつて大友が壊滅させた山王会は再びクーデターが起こるのだが、その際、組長を殺したのは大友に押しつけるというシーンが出てきた。 これは即ち、大友という存在が、日本の暴力団組織にとって、「伝説」に変わる瞬間だったのだ。 これから日本の暴力団で抗争が起き、人が死ぬ度、「大友がやった」という言葉がどこからでも聞こえてくるのだろう。それだけ大友という存在は大きく、伝説に足る存在であった。 ここが重要。 前二作でやり残したことが一つあったのだ。それが大友が伝説となると言うこと。彼が死ぬことによって、逆にその存在感が大きくなる。そこを描くためにこそ、本作は存在したのだろう。 最後で「ああ、なるほど!」と膝を打ったところがあり、ちゃんと三部作として閉じた作品になってくれていた。 ほぼラストシーンの一瞬だけで本作は一気に良作へと駆け上がってくれた。 |
龍三と七人の子分たち 2014 | |||||||||||||||||||||||
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かつて“鬼の龍三”と呼ばれて恐れられたヤクザ高橋龍三(藤竜也)も、ヤクザ家業から足を洗い、息子夫婦の家で肩身の狭い思いをしながら暮らしていた。そんなある日、オレオレ詐欺に引っかかりそうになった龍三は、“京浜連合”を名乗る新型のヤクザ組織が出来ていることを知る。それが詐欺や悪徳商法で荒稼ぎしていることを知った龍三は、任侠の志を失った京浜連合を成敗するため、弟分のマサ(近藤正臣)を始めとする7人の元ヤクザ仲間を呼び集め、新たに“一龍会”を結成するのだが… 映画監督として様々なジャンルに挑戦してきた北野武だが、その原点であり、評価が高いのは暴力映画だった。その意味で前作である『アウトレイジ』および『アウトレイジ ビヨンド』で頂点を極めた感があったが、その次に作られた本作は、真面目さから一点。これまでに作られてきた任侠作品のパロディ満載のコメディ作となった。 その観点は楽しいし、コメディとしては確かに悪くないとは思う。 悪くないのだが、一本の作品の完成度で言うなら、そんなに笑えない。それは明確で、ジェネレーションギャップネタが下品で、これまで監督自身が培ってきたものをことごとく潰してしまったこと。 北野武というよりビートたけしとして自虐ネタを披露してる感じ。それを潔いと思えるなら本作は面白いと感じるだろうし、そうでなければ単なる下品な作品にしか思えない。 で、私が感じたのは後者でしかなかった。かつての任侠ものをパロディにしたのは良いが、そこで節操なく出したおかげでパロディ部が下品に感じ、どうにも笑えないまま。結局自虐的なギャグで、乗り切れないまま終わった。 |
アウトレイジ ビヨンド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012日本映画プロフェッショナル大賞第2位 2012キネマ旬報助演男優賞(小日向文世)、第3位 2012日本映画批評家大賞監督賞 2012毎日映画コンクール男優助演賞(加瀬亮) |
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関東一円どころか政治家まで取り仕切る巨大ヤクザ組織“山王会”の組長となった加藤(三浦友和)と、かつて大友組の一員でありながら加藤に付いて若頭ととなった石原(加瀬亮)。山王会はその勢力をさらに拡大させていた。しかし内部では、古参幹部の不満がくすぶり始めていた。そこに目を付けたマル暴の刑事・片岡(小日向文世)は、山王会の勢力を削ぐべく活動を開始していた。そのため関西の巨大やくざ組織“花菱会”を動かし、更に片岡自ら噂を広めて獄中で死んだことになっていた大友(ビートたけし)を仮出所させる。そして足を洗おうと考えていた大友を再び抗争の渦中へと巻き込んでいくのだが… 前作『アウトレイジ』で新境地…というか、元々の作風に戻した感じのある北野監督。この作品、とにかく暴力描写がきつく、それでむしろ「よく作ってくれた」と大満足したわけだが、その次の作品に『アウトレイジ』の続編を持ってきた。これはもう観るしかないだろう。という感じ。 それで正直な話、びっくりした。 前作はとてもまっすぐな話として仕上げられていた。突出した演出によって見せつけたが、基本的には暴力に生きる輩は、暴力によって死ぬというありきたりな話作りで終始していた感じだった。それについては既にレビューで書いたのだが、あの時に書いたもの自体、本作が投入されることによって、それ自体が上書きされてしまったほどに本作は面白い。 前作においてビートたけし演じる大友は、やくざの世界に身を置く以上、そこでの生き方を全うする。その意味でとても誠実な男だった。あれだけの暴力を使っていても、それはやくざ世界における親子関係を大切にしているため、親に逆らうこと自体が出来ないから仕方なくやってると言った雰囲気を持っていた。彼にとって暴力は楽しんでやってるのではなく、これはこのような世界の中にいるのだから仕方ない。と割り切ってやっていた人物であった。 しかし、彼がどれほど誠実であっても、否、誠実であればあるほど、その暴力は激しくなっていき、それによって、彼も多くの恨みを買うことになる。結果として、自分が誠実に仕えた人間によって裏切られ、一家は全滅。更に自分の育てた子によって売られ、最後は刑務所で刺される。 だからラストはとても虚しい。 この前提あってこそ本作は成立する。 それで彼は、完全にこの世界について絶望している。だから出所しても、もうこの世界に帰るつもりは無かった。少なくとも、同じ場所に戻るつもりは全くない。何人もの人間に恨みを抱いてしかりの男が、その恨みすら抱けないほどの絶望を抱いてしまっている。これを象徴的に表したのが、刑務所で彼の腹を刺した木村に謝られた時、「全く気にもしてない」と言っていたシーンで、あれは心から出てきた台詞であろうと思われる。 それでも再びこの世界に帰ってきたのは、自分が必要とされている間だけ、本来やる気の無かったけじめだけは付けるためにこの世界に帰ってきたと言うことになろうか。 実際の話、これだけでもきちんと話は成り立つ。それでも続編としてはきちんとした作品が作れただろう。 しかし監督はここで更に設定を増やした。 結果、本作は群像劇として作られることになり、基本一本道だった前作から世界が一気に広まった。 ここで主人公となるのはたけしの大友だけではない。かつて大友を裏切った加瀬亮演じる石原と、組長を殺害して自ら後がまに座った三浦友和演じる加藤。大阪からこれをコントロールしようとしている高橋克典演じる城と西田敏行演じる西野。古いタイプのやくざで、落とし前をつけ、再び一家を持とうとしている中野英雄演じる木村。そして彼らの間を渡り歩き、バランスを取ろうとしている小日向演じる片岡。 概ねこの4つの集団若しくは個人が、それぞれ主人公格で存在する。そんな彼らのぶつかり合いや駆け引きが同時並行に描かれ、その中で大友の出所により投じられた一石の波紋が広まっていくことが描かれていくことになる。 そして群像劇それぞれにちゃんとテーマがある。 かつて親分を裏切り、一家を広げた加藤と石原の二人は、前作からの設定を引きずる。この二人が前作からの直接的な続編を担った主人公となる。具体的には、前作のテーマであった「暴力に生きる者は暴力に死ぬ」となる。続編として描く場合、彼らの行く末は最初から決められていたので、彼らの生き方が続編の正しい話となる。 そして大阪やくざは、完全に損得勘定で動いており、自分たちに得があると見ると関与し、自分が何者かによって動かされていることを知ると、絶対関与しない。完全に自分自身で完結している組織として描かれる。最も非人間的であり、効率主義。そこには山王会とは違うが、やはり仁義は全く存在しない。感情の入る余地がない恐るべき固い組織である。 その狭間にいるのが木村。彼は古いタイプのやくざで、仁義を信じている。それはしつこいほど描かれていく。たとえばそれは自分の子が殺されたら、その復讐をすることがアイデンティティと考えている事とか、大阪に乗り込んだとき、自らの指を詰めたことでけじめを付けて、それが認められたと思いこんでたりする。そうでないのは前述の通りなのだが、それでも仁義を信じ続ける。 最後に警察の丸暴にいる片岡がいる。本人は自分自身をトリックスターと位置づけ、自分の手のひらでやくざ同士が抗争をしているのを眺めるのが好きな人間。彼にとって仕事はゲームの一つであり、時に自らの命の危険もありながら、それも含めて楽しんでいる。彼は仕事というよりゲーム的に物事を考えているようだ。 これだけの物語の広がりがある。よくもまあこれだけ広げて、しかもきちんとそれぞれを主人公として描くことが出来た。たいしたものである。 そしてそれらをすべて統括して眺めているのがたけし演じる大友であった。彼は全てに引いてものを見ているため、渦中にある他の主人公たちがどの位置にあり、どのような時に介入すれば良いかを心得ている。前作とは全く違った立ち位置である。でも前作のような出ずっぱりよりも遙かに主人公として存在感を出すことができた。 例えば大阪に行った時、大友は花菱会を前に不遜な態度を崩すことがない。これは花菱会が鉄砲玉として自分たちを使うことが最初から分かっていたので、どんな態度でも構わないと知っていたから(一緒に行った木村は指を詰めて、それが認められたと思っていただろうが、そうでないことも大友は知っていた)。そして大友が人を殺す時は冒険をしない。このタイミングで殺せば問題無いことを知った上での殺人を犯している。最後に片岡を殺した時はその真骨頂だろう。大友にとって片岡はどうでも良い存在であり、片岡自身がそう思っているから、たった一人でまるっきり無防備な姿で大友の前に姿を現した。それで大友は、そんな彼の姿を見て、今なら殺しても問題無いと判断したからなのだろう。あれは計算して行ったことではない。たまたまその機会が与えられ、そして今殺してしまった方が後々のためになると判断したからに他ならない。 結果として、前作で誠実だった主人公が、明らかに枯れて変質し、そして北野武本人を思わせるキャラになっていた。本人だけに、はまり具合も高い訳だ。 |
アウトレイジ 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010カンヌ国際映画祭パルム・ドール 2010ブルーリボン助演男優賞(石橋蓮司) 2010日本映画プロフェッショナル大賞第9位 2010ヨコハマ映画祭助演男優賞(石橋蓮司) |
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巨大暴力団組織山王会の池元(國村隼)の指令によって、最近ヤクの取引で勢力を広げている村瀬組が標的になった。その実行を求められた山王海の下部組織である武闘派暴力団の大友組。大友(ビートたけし)は、「貧乏くじを引かされた」とぼやきながらも、村瀬組にちょっかいをかけ、組員を一人一人潰していく。村瀬組のシマを少しずつ手中に入れ、そこでビジネスを展開していく大友組だったが… このところ様々な形の映画を作り、挑戦を続けてきた北の監督が、デビュー作である『その男、凶暴につき』以来の原点に戻って作った、暴力を主体にした作品。 ところでこの作品、どんなジャンルにカテゴライズできるだろう?東映流で言うなら任侠映画…ではないな。深作欣治が確立した実録ものでもないし、Vシネでのメインとなる暴力団の映画…どれもしっくりこない。いや、暴力団を描写した作品には違いないのだが、どっちかというとこの作品は暴力を主体としたファアンタジーに近い。 …というと、結局最も単純に”暴力映画”と言ってしまうのが一番よかろうか? とりあえず本作の設定はかなり酷い…とは言い過ぎかもしれないけど、相当無茶苦茶。いくら”仁義なき”暴力団組織と言っても、簡単に人を殺しまくってるし、やってることも子供の喧嘩に近い。言うなれば「あいつは嫌いだから殺す」を繰り返した結果、ジェノサイドになってしまった。というもの。欲得づくで考えたとしても、人を殺すことはほとんどの場合損するばかりなので、よほどの見返りない限り、いくらやくざでも簡単に人を殺したり、それを命令したりはしないだろうし、警察との癒着もここまで露骨には出したりしない。ましてや大使館の賭博がこんな脅迫じみたやり方をしてるなんてやりすぎ。 でも、この作品の場合はそれが飲める。簡単な話で、これは極端を描いたファンタジーであり、暴力の連鎖の中にある人間を観る作品なのだから。極端なリアリティで話が出来ているならば、こんな短い時間でこれだけのものを描くことは出来ないし、ぎりぎりにある緊張感も“独特の世界観”と言う事が分かってしまえば問題なし。ある意味では本作はコメディとして観られる。 脚本を書いている北野監督自身もそんな事百も承知だろう。ここで監督が描こうとしているのはリアルではなく、暴力性をとことんまで描くファンタジーであり、そうすることによって物語性の方を高めようとした結果だ。 そしてここで描こうとしている暴力は単にキャラクタが暴れ回ってる類のものではなく、特殊な倫理で成り立っている小さな社会の中で、為さねばならない暴力についてとことん描こうとしているようだ。 普通の社会に生きていると、“為さねばならない暴力”なるものとは無縁でいられる。暴力は悪いものであり、為してはならないものとされる。しかし、この世界では暴力は義務として振るわねばならない。 この前提にあってこの作品は成立する。いわばこの作品の舞台は一般人が見ることが出来ない社会の裏側そのものであり、ある意味において“日本にあって日本ではない場所”異界と言っても良い(化け物の出てこない魔界都市<新宿>と言った感じだろうか)。 この世界にあって、強者は常に暴力を振るう側に立ち、震われた弱者はそれを甘んじて受ける以外の選択肢がない。仮に仕返しをしようものなら、倍の仕返しを覚悟しなければならない。民主主義やハンムラビ法典が入り込む余地がない世界なのだ。しかも強者の言葉は嘘ばかり。言葉を信じる人間は馬鹿を見るばかり。言葉や仁義といったものを全く信じず、人のためではなく自分のためだけに暴力を振るう人間だけが上に行ける。 そんな中、たけし演じる大友はこの世界では珍しい誠実な人間だった。口は悪いが仁義は重んじる男であり、だからこそいつも貧乏くじをひかされる。劇中自嘲的に言っていた「貧乏くじ」は全部自分が招いたことだ。 本作は馬鹿げた世界で馬鹿を信じる人間。そんな男の生き様を、ある意味で笑うための作品と言えるのだろう。信じてはいけない人間を信じ、信じてはいけない仁義を信じる。そんな男は滑稽であり、そしてもの悲しい。 その意味で、本作は監督が追求し続けているコメディの一つの形としての位置づけされるべきだろう。 |
アキレスと亀 2008 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008映画芸術ワーストテン第6位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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裕福な家庭に生まれた倉持真知寿は、幼い頃から絵を描くことが大好きで、画家になる夢を抱いていた。しかし、父の会社が倒産したことにより生活は一変する。芸術に無理解な叔父の家に預けられ、孤独な少年時代。画家になるために働きながら美大に通う青年時代。そんな時に真知寿は幸子と出会い結婚する。理解者を得た真知寿はますます芸術に傾倒していくが、全然芽が出ないまま中年になってしまう。そして夫婦揃って成功を掴むため様々なアートに挑戦していくのだが… 「自分の好きなものを作る」宣言後、北野監督は二本の映画を作ったが、そのどちらも見事にコケ、「もう一本」という願い虚しく、一般にも理解できる作品を作るというコンセプトで作られた本作。 確かに随分分かりやすくなったし、その中で北野監督にしか作れない作風をしっかり継承しているのは分かる。かなり不思議で、そして楽しい作品に仕上げられている…ただ一般受けするかどうかはちょっときつい内容かも?事実私の住んでる地方では上映期間は極めて短く、一日一回のみ上映。しかも入った客は10人にも満たないというこの状況は、全般的に興行的にはかなり厳しいことが予想される。 実際バランスは決して良い訳じゃない。本作は少年時代、青年時代、中年の今という三つの時間軸に分かれ、それらが順序よく描かれていくことになるが、全部の物語にあまり一貫性が感じられず、特に少年時代、青年時代の「悲惨な中で黙って自分の好きなことをやろうとしている」姿勢が中年になってから完全に浮いてしまい、所々出てくるギャグシーンが笑えなくなってしまったという問題もあり。それにやっぱり音楽がなあ。なんで久石譲引っ張ってこれなかった?わざわざ似せようという気が満々なだけに、どうしても違和感感じてしまう。 ただ物語そのものを俯瞰してみると、三つの時代全てを貫き、非常に冷静な視点で自分自身を見つめているのが分かる。どんな悲惨な状況にあっても、人物への感情移入を拒否し、あるがままを黙って受け入れさせようとする視点は完全に北野監督に特有のもの。少なくとも、どんな作品を作っても自分のものにしている監督の姿勢がよく分かる。 ところでこのタイトル「アキレスと亀」のたとえをファーストシーンに挿入し、ラストシーンで「アキレスは亀に追いついた」という言葉を出したことは、一体何を意味したのか。内容はともかくも、私はラストのこの言葉がどうしても気になってしまった。 これはいろんな解釈が可能だろうが、以下は私なりに考えたもの。 「アキレスと亀」は古代ギリシアの“ゼノンのパラドックス”と呼ばれる有名な哲学の問題。どれほどアキレスの足が速くても、対象物が動いている限り、亀には到達することが出来ない。というテーゼである。 しかし、これは現実では考えれば分かるとおり、アキレスはただ一歩踏み出しさえすればいい。亀を簡単に抜き去ることが出来る。 だがそのパラドックスに陥ってしまうと、どうしても目的のものに手が届かない。後ほんの少しで手が届くはずのものが、どうしても捕まえることが出来なくなる気にさせられるものだ。 これは人間が集まったところでは必ず起こること。特に専門的に世界が狭くなればなるほど、その中でどうしても答えが出なくなってしまうという問題が起こるようになってしまうのだ。後で過去の自分を振り返ってみると、「何を馬鹿なことを」と思えるようなことが、狭い世界にいる時の自分には全く分かっていない。当人は精度を高めようと必死に努力しているのだが、高めれば高めるほど分からなくなってしまう。私だっていろんな専門的な会議に出ると、いつもその惨めな感じを受けてしまう(後で友人と飲み食いしながら憂さ晴らしをするのだが、根本的に、何故その時こう思えなかった?という問題を常に抱え込むことになる)。 これはまさしく芸術とはそんなものに過ぎない。という達観と見ることも出来るだろう。真知寿は芸術を作ろうと必死に努力し、反社会的な行為までしているが、決して本当の芸術というものを捉えることが出来ないまま終わる。自分のスタイルを捨て人の言うことを聞いたり、人間として突き抜けたところにゴールがあるものと思い込み、自殺一歩手前まで自分を追い込んでみたりする。まさしく決して追いつけない亀に近づこうと躍起になるアキレスの姿そのままだ。 だが、最後に「アキレスは亀に追いついた」とある。 観終えたとき、それはひょっとして真知寿は芸術を追い続けていた自分自身が実は芸術そのものだった。と言う事に気づいたのか?と思ったのだが(そう言う解釈にしても良かったんだが)、ちょっと時間が経ったら、考え方が変わった。 現実的に考えれば、アキレスが亀を追い抜けないはずはない。たった一歩踏み出しさえすれば亀を捉え、しかもそれを抜き去ることが出来るのだ。ちょっと現実的にものを考えればそれで全ては終わる。 芸術に追いつけないまま苦悩し、最後まで芸術を諦めきれない真知寿。だが最後に彼の前に現れる人物がいた。自分から離れていった幸子が目の前に帰ってくれ、寄り添って歩き出した瞬間、真知寿は“芸術”という虜から自由になったのだ。と考えるなら、確かにアキレスは亀に追いついたと言っても良いかも。最後に“芸術品”と思いこもうとしていたものをゴミのように投げつけたのは(いや事実ゴミなんだけど)、これまでの生き方から完全に決別できた。という満足感を意味するのかもしれない。 |
監督・ばんざい 2007 | |||||||||||||||||||||||
2007文春きいちご大賞第5位 | |||||||||||||||||||||||
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暴力映画でそこそこの定評を受けている監督キタノ(北野武)は突然「もう暴力映画は撮らない」と宣言。次々に新しい映画を撮り続けるが、ことごとく失敗。苦悩の中、作り続けた映画の出来を描く。 前作『TAKESHIS'』に続き、売れることを考えずに監督の作りたいように作った。という印象の作品だが、本作の場合の特徴は、芸能人ビートたけしではなく、監督北野武として、自分自身を客観視して観ていると言う点。それをダシにやりたい放題。ものとしても小津風、昭和30年代の風景、忍者作品、ホラー、SFと様々なジャンルに手を伸ばしている。 自分自身を客観視してるという視点は面白いし、こう言うメタ的作品は私は大好きなので、どうしても点数は甘くなってしまうのだが、実際少なくとも前半部分に関しては実験的作品としてかなり面白く仕上がってるのは確かだろう。様々なジャンルに手を出し、ことごとくそれが外れてしまい、その合間合間に面白くなさそうな北野監督の顔が挿入され、あたかも監督自身が本当に悩んでいるように見せている。最初から売れるはずのない。と言う前提で映画が作られているので劇中映画もやりたい放題。それはそれで大変面白かったと思うし、監督の狙いも良かったとは思う。つなぎで入る伊武雅刀のナレーションも絶妙。挿入の実生活も、キタノ監督が何もしゃべらず、ただ自分の分身と言える人形を虐待することで、彼が何を考えているのかを観ている側に推測させようとしているのだろう。 ただ、全体として観ると、映画自体があまり面白くない。と思えてしまったのは、やはり監督が最後に自分を出すことを恐れてしまったことと、最後にこの作品を「映画」として仕上げようとしたことが問題だったのではないかと思える。 劇中映画を複数出す場合、メインストリームとしての現実界の物語をしっかり作る必要があるのだと思うのだが、その現実の物語にはほとんどドラマがない。ただ監督と人形がたたずむだけ。ただ、前半では少なくともそれは間違ってなかったし、ここから物語が展開していくとばかり思っていたところ、後半部の詐欺師母娘の物語は完全に物語になってしまっていて、メタ的展開を拒否してしまった。ここにも監督は登場するけど、キタノ監督ではなく、芸人ビートたけしになってしまってる。 監督はここでとうとう現実世界の自分を出さなくしてしまった。前半の路線で突っ走り、どんどん現実世界へと物語が浸食していくのか?と言うメタなオチを期待していたこっちとしては完全に肩すかし。 最後の物語にもいくつかのメタ的描写はある。端的なものとして井手らっきょの「私はウッチュージンです」があったけど、これは架空の物語ではなく、実生活の方でやるべきネタだったんじゃないのか? この現実の中で行うべき交流とかドラマをすべて最後の物語に集約させてみたのだが、完成度が低く、ギャグも滑り気味。これだったらほとんどノリだけで作った『みんな〜やってるか!』の方が遙かに完成度高い。 『TAKESHIS'』とは違ったものを作ろうとしていることは伝わってくるが、出来ればあの完成体としての作品を見せて欲しかった。 |
TAKESHIS’ 2005 | |||||||||||||||||||||||
2005文春きいちご賞第2位 | |||||||||||||||||||||||
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売れっ子スターのビートたけしは、ある日テレビ局で自分そっくりの俳優志望の北野武という男を目にする。北野はしがないコンビニ店員で、オーディションにも落ち続けている男だった。安アパートの中で北野の見る夢が徐々に現実世界のたけしをも巻き込んでいく… 北野武久々の新作。前作が完全に娯楽に徹した『座頭市』に対し、本作は題名通り武とたけしという二人の男が主人公で、二人の夢が現実をも浸蝕していくという、いわばメタ映画として作られてる。テレビではいくつかの試みはなされていたものの、初めてのメタ作品をきちんと仕上げられた監督の引き出しはとにかく多いことに改めて気づかされる。 出来としては決して悪くない。とにかく卑小な存在である武はたけしに憧れつつ、自分の現実が変えられることをただただ願う。それでオーディションを受け続け、その度に罵倒を浴びてすごすごと引き返す。夢の世界は、彼にとっては一種の理想郷だったはず。だが、その夢自体が自らの現実を浸蝕し始める。自分はこれまでの卑小な存在なのか、それとも売れっ子のたけしなのか、それとも両者とも全く違った存在に変わっているのかという… 極論を言わせてもらえれば、第一の世界と第二の世界は現実の監督自身の立場そのものを表し、この第三の立場こそが、監督の常に思い描いている虚構の世界そのものなのかと思える。下積み時代が長く、「売れてる自分がおかしい」と思える自分と、「それなのに現実に売れてるのに戸惑ってる」自分。この二者は今もなお監督を監督たらしめているジレンマではないだろうか?監督が時折自暴自棄な事件を引き起こすのも、この両者のジレンマによるものであり、そのとまどいこそが第三の自分自身を作り出し、それが映画作りのモチベーションとなっているように思える。 逆に言えば、本作は監督が映画作りをする過程というものを、そのまま描いた作品とも言えよう。監督の映画は監督自身をひたすら描いていくものが多いが、そうやって第三の自分を作り出し、それに演技させることによって自分のスタイルで映画を作れる。表層部分ではない、深層心理を画面に出せると言うことで、彼はユニークな監督たり得る。その意味で本作は、最も彼自身を良く表した作品だとも言え、だからこそメタ作品としての理由を持つ。 演出面で言えば、本作は徹底した北野映画だ。彼の映画、特に暴力ものの作品は、静から動への展開が突然に行われる。普通に談笑していたのに、突然銃を抜き出して回り中の人間を殺しまくる。静から動へと移る際、キャラに逡巡が全くないのだ。これからどうなるとか、罪悪感とか全く過程をすっ飛ばして直感だけで行動し、その結果どうなろうとも、その運命をただ受け止める。状況と行動があるだけで過程が無いのが彼の作品の演出であり、本作は見事にそれに適合してる。なんだかんだ言っても、本作は徹頭徹尾、北野映画に他ならないのだ。 そう言う意味では面白い要素はたくさん揃ってるのだが、ただちょっと本作には問題がある。 次に何が起こるか分からないというのは魅力ではあるのだが、演出で考えるならば、盛り上げ方が不自然すぎた。実際に前半の方が盛り上がったような感じだったし、映画全般にわたり、盛り上がる部分とためる部分が変な具合に出てくるため、観ていて疲れるだけでなく、後半飽きてくる。こういう作りだからこそ、その点を顧慮に入れて欲しかった。 大丈夫。監督はまだまだ自分のスタイルで映画を作り続けてくれる。それを感じられただけでも充分。 |
座頭市 2003 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003日本アカデミー音楽賞、撮影賞、照明賞、録音賞、編集賞、作品賞、助演男優賞(浅野忠信)、助演女優賞(大楠道代)、美術賞 2003ヴェネツィア国際映画祭監督賞(北野武) 2003ヨーロッパ映画インターナショナル作品賞(北野武) 2003ブルーリボン助演女優賞(大楠道代) 2003キネマ旬報日本映画第7位 2003毎日映画コンクール日本映画優秀賞、男優助演賞(柄本明)、女優助演賞(大楠道代) 2003ヨコハマ映画祭第3位 |
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朱塗りの仕込み杖を持ち、常に刺客に狙われる居合いの達人・座頭市(ビートたけし)。かつて殿様の元で師範代をつとめながら、自分のプライドをずたずたにした浪人と決闘するため自らも浪人となった服部源之助(浅野忠信)とその妻おしの(夏川結衣)、かつて盗賊団に家族を皆殺しにされ、旅芸者に身をやつして仇を求めるおきぬ(大家由祐子)とおせい(橘大五郎)。この3組の旅人がとある宿場町にやってきた。彼らは皆、訳ありで幾人もの人間を殺してきた人間だったが、それぞれが早速この宿場町を根城とする銀蔵一家と一悶着起こしてしまう… 特に劇場で観る場合、私はなるだけ事前情報をカットして出かけるようにしてる。変な前知識がない方が映画に没入できるし、その方が後々こういったレビューを書く際自分の感性を大切に出来るから。 だけど、本作の場合は事前に二つ気にしていた事があった。 一つ目は不快語のあるなし。特に今はテレビだと「目の不自由な人」と言う表現でないと座頭市を語ることが出来ない。しかしかつてのテレビシリーズでははっきり言ってたから、これはどうなんだろう?と思ってた。 二つ目はたけしが「全く新しいチャンバラを作る」と言っていたこと。時代劇は今まで散々作られてきたんだから、もう作り尽くされた観があり、その上で新しいものが出せるか?と言う疑問。 一つ目に関しては、本当に全くそのまんまの言葉が出てきた。たけしはそう言った不快語を抑える現代の風潮をとても嫌っていたし、敢えてやるんじゃないかと思ってたが、本当にやってしまってた。 そして肝心なのはもう一つの方だが、こいつは参った!って感じ。 日本の時代劇はそもそも西部劇からの影響がとても大きい(相互影響と言うべきか?)。拳銃を刀に変えてしまうと、ほぼ同じ設定で劇が出来てしまう。 しかし、拳銃と刀とでは魅せ方は違っている。刀は間合いが非常に近いし、斬った感触というのがある。腕を斬り落とすなんて表現も出来るし、血糊が斬った本人に飛んでくる事だって表現としては重要。 その表現は今までの時代劇で充分表現してきたんだと私なりに思っていたが、本作を観ていて、そんなことはない。いや、むしろ今までは不十分すぎたと思えてしまった。本作品では上手くCGを用いて血の表現を出してたし、斬られた部分をアップにすることで、はっきり「斬られた」事を表現していた(オープニングで間違って仲間を斬ってしまう所とか、斬られた指がふっとぶ表現とか、非常に映画的なリアリティを感じられる)。今までの時代劇ではやられ役のオーバーアクションでそれを表現しようとしていたのだが、ちゃんとそれが映像に出来るんだって事だけでなんか「おおっ!」ってな気分。確かに今までにない表現が出来ていたよ。 あと、たけし映画に特有の間もきちんと表現されていたのも嬉しいところ。たけしの映画ではとにかく“静”が“動”に変わる一瞬の表現が上手いんだけど(と、言うより彼以外にこんな表現が出来る監督は今のところ私は知らない)、座頭市ってのは本当にそれに適合した役だな。 黒澤映画ばりに望遠を多用したカメラ・ワークも特筆すべき所だろう。映像表現については満点。 それに勝新太郎の座頭市は映画で26本更にはテレビ版も含めると実に長いシリーズとなっているので、本作もその期待がかかるが、多分それを見越して監督はラストの座頭市が実は…ってオチを付けたんだろう。「俺はもうこれは一本きりだぞ」という自己主張のように思える。その潔さも評価点。 だが、褒めすぎばかりって事じゃない。本作は致命的な部分も持ってる。 ストーリーと設定が無茶苦茶に悪い!あんまりにもいい加減な設定。先が読めてしまうストーリー(伏線が見え見えな上にネタ晴らしの仕方が下手すぎ)。3組の殺し屋が来てるってのに、その過去の描写はなおざりすぎ。あれだけ時間あったらそのくらいちゃんと表現して欲しい。人物描写もたけし本人以外全然ダメ。ラストのラップも乗り切れず。監督は本作を時代劇ではなく、新感覚のSF的な意味で作り上げようとしたのかも知れないが、上手く機能したとは思えず。 褒める部分はとにかく多い作品なんだが、それにも増して悪い部分がどうにも気になって…でもなあ、監督の表現したかった所は余すことなく表現できてたし、衝撃も与えてくれたし…これから時代劇が又流行ってくれることを願って、点数はそれなりに甘めに。 ところで、本作で市をかいがいしく見守る大楠道代はかつて「座頭市海を渡る」(1966)のヒロインだったけど、構図的に似ている部分が多いのは北野監督のお茶目だったのだろうか? |
Dolls ドールズ 2002 | |||||||||||||||||||||||
2002日本アカデミー音楽賞、撮影賞、照明賞、美術賞 2002報知映画助演女優賞(菅野美穂) |
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近松門左衛門の『冥土の飛脚』に出演した文楽人形が見つめる3つの愛の物語。赤い紐で体と体を結んだ精神を病んだ佐和子(菅野美穂)と、彼女に責任を感じる松本(西島秀俊)の物語。老境にさしかかったヤクザの親分(三橋達也)が思い出の公園で、今も彼を待ち続けている良子(松原智恵子)と出会う物語。交通事故で左目を失い、芸能界引退を余儀なくされたアイドルの春奈(深田恭子)と、熱心なファンで、彼女の気持ちを知りたいあまりに自らの視力を奪った温井(武重努)の物語。 最早世界的な監督として広く知られるようになった北野武監督が投入した、美しくも残酷な愛の物語。エンターテナーとして知られる人なのに、『あの夏、いちばん静かな海。』とか、本作とか妙な…と言っちゃ悪いが、非常に芸術的な静かな作品も作ってくれる。特に本作は海外に向け、日本の美を紹介する。という側面もあってか、美術的に極めて高水準の作品として仕上げられている。 本作は本当に分かりづらい物語で、ストーリーも全て悲劇。しかも台詞が極めて限られてる。いや、そもそも監督の映画には台詞をとにかく限定するものが多い。 これを考えてみると、喋ることが仕事の監督だからこそ、台詞の間合いというのをよく知っているからこそなのだろう。会話の中に間があるのではない。間の中に会話があることを、この監督ほどよく分かってる人はない。 しかし、これは凄い。限定された台詞を観てる側はいつ出るかと固唾を飲んで待つことになるのだが、その待ちの間に流される映像美と音楽の素晴らしさ…台詞が少ないからこそ、観客の目は画面に釘付けにされ、集中して観ることになる。四季折々の美しさが画面に出ているが、その中で、四季それぞれに、一回は凄まじいカメラワークと、息をのむシーンが登場する。これがこの映画の醍醐味だろう。春のシーンではマジで映像の奇跡が起こったかと思ったよ。私は。まるでタルコフスキーを観てるよう(褒め過ぎか?)。 「桜の木の下には死体が埋まってる」とは梶井基次郎の言葉。人の死を吸い取るからこそ、自然は美しくなる。そして命がないからこそ、虚ろであり、それが美しさとなる浄瑠璃人形。それに被さるように、心が壊れてしまい、虚ろさと命が混在するキャラクター達…そりゃ勿論観方によってそれぞれだろうけど、死…と言うより「虚ろさ」の持つ美しさが混在した、いわゆる北野流のチャレンジと遊びに溢れた作品だと言える。 本作は退屈さに耐えられる精神が必要なのは事実(笑)で、誰にでもお勧め出来る作品ではないけど、鳥肌の立つほどの美しさを感じ取ることは出来るはず。 |
BROTHER 2000 | |||||||||||||||||||||||
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日本での抗争の果て、ついに日本にいられなくなってしまったヤクザの山本(ビートたけし)は、ロスにいるという弟のケンを頼って渡米してきた。だが、やっと捜し当てたケン(真木蔵人)はしがないドラッグの売人に落ちぶれており、しかもドラッグ絡みのトラブルに巻き込まれていた。ケンを助けることから始め、山本は持ち前の無謀さと度胸によって、マフィアを相手にのし上がっていくのだった。カリスマ性を持つ山本の元にはいつの間にか日本やアメリカから多くの兄弟分が出来ていくが… 日本の映像作家でむしろ海外での評価が高い監督というのが何人かいる。最近では逆に海外で評価され、初めて日本でも評価されるというパターンも増えてきたが、その最も顕著な例は監督だろう。ビートたけしとはお笑い芸人であり、彼にとって映画は素人の手すさびにしか過ぎないという評価を国内で叩かれながら、次々に海外で受賞。そしてようやく監督北野武という存在に気づくという… …人のことじゃない。これは私自身の事だ。「たけしの映画?お笑いだけじゃ満足できないのかよ。どうせ素人の撮った作品じゃねえか」観もしないうちにそんなレッテルを貼っていたのだが、偶然にTVで観てしまった『キッズ・リターン Kids Return』(1996)で思い切りはまりこみ、全く正反対に大ファンになってしまった自分。遅すぎたはまり方で、実は劇場で観たのは本作が最初だった。 しかし、これはちょっと失敗。最初の劇場鑑賞作としてはこれは適切な作品ではなかったようだ。 話自体は監督の得意とする暴力もので、『ソナチネ』(1993)あたりの演出と似通っている作品。相変わらず“静”→“動”の一瞬の切り替えは監督特有の演出で、それがここでもきちんと出来ているのだが、問題はそれがアメリカで行われると、単なる行きすぎた暴力ものとなってしまい、日本特有のハラキリシーンも、なんか全然締まらず。 北野監督の暴力作品というのは一つ似通った部分がある。このたとえが適切かどうかは分からないが、相手が相撲を取ろうと土俵に上がってきた所を、剣道着姿で現れ、相手がぎょっとした所をいきなり面を打つみたいなもの。要するに相手と自分との間にある暗黙のルールを簡単に破ってしまうと言う点があるんじゃないかと思う。『レイダース 失われた聖櫃』(1981)でジョーンズが、段平をぶんぶん振り回す敵に対し、いきなり銃を引き抜いてぶっ放すシーンがあったが、それが連発して出てくるようなものだ。それが北野監督作品の最もユニークな部分であると共に、魅力でもある。 多分、その部分がこの作品では上手く機能してくれなかったのが本作の最大の失敗点。 思うに、ギャング映画とヤクザ映画というのは根本的に撮り方が違うんじゃないかな?遠距離から銃で多数を狙撃するギャングものと、顔つき合わせて一対一でドスで応酬するものの違いと言うべきか(だから北野映画には拳銃だけしか用いられないことが多い。しかもほとんどゼロ距離射撃ばかり)。やはり北野監督は、日本を舞台としてこそ、その真価を発揮できると再認識。監督もその辺割り切ってくれたからこそ、この後で『座頭市』(2003)という傑作が撮れたのでは?(チャンバラこそ、一対一のゼロ距離の応酬だし)。 本作は初の海外製作と言うこともあって、ここではそれを敢えて日本的なユニークさとして割腹させてみたり、アニキを立てるために自殺して見せたり。と言う所に置いてみたんだろうけど、それもユニークさというよりはギャグに見えてしまう所がなんともかんとも… それと北野映画ではこれまで絶妙のはまり具合を見せていた久石譲の音楽もここでは上滑りしっぱなし。哀愁漂うメロディが見事にかみ合ってない。特に成り上がっていくシーンが何故かもの悲しい調べとなっているため、違和感を感じさせる。腕組みしてふんぞり返ってるシーンの何が哀愁なんだか。 それでもストーリーと言い、演出と言い、概ねはこれまでの北野映画を踏襲してるため、安心して観られる作品であることは確か。監督作品が好きだというのなら、抑えておくべき作品ではあろう。 |
菊次郎の夏 1999 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
1999カンヌ国際映画祭パルム・ドール 1999日本アカデミー助演女優賞(岸本加世子)、音楽賞、作品賞 1999キネマ旬報日本映画第7位 1999毎日映画コンクール日本映画優秀賞 1999ヨコハマ映画祭第5位 |
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絵日記を見せて物語を開始する手法は前作『HANA-BI』でも用いている。今度のは監督の自筆のものではない。 |
HANA−BI 1998 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1997ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(北野武) 1998日本アカデミー音楽賞、作品賞、主演男優賞(北野武)、主演女優賞(岸本加世子)、助演男優賞(大杉漣)、監督賞、脚本賞、撮影賞、照明賞、録音賞、編集賞 1998インディペンデント・スピリッツ外国映画賞 1998ブルーリボン作品賞、主演男優賞(北野武)、助演男優賞(大杉漣)、監督賞(北野武) 1998キネマ旬報日本映画第1位 1998毎日映画コンクール日本映画優秀賞、男優助演賞(大杉漣)撮影賞 1998報知映画作品賞、監督賞、助演男優賞(大杉漣) 1998ヨコハマ映画祭第3位 |
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数ヶ月前に幼い子供を失い、妻美幸(岸本加世子)は余命幾ばくもないと知らされる刑事の西(ビートたけし)。更に妻を見舞いに行っている間に同僚の堀部(大杉漣)は凶悪犯に撃たれ、西のミスで後輩の田中は命を落としてしまった。責任を取った西は職を辞し、妻の看病にかかりきりになる。その生活費のため、借金を繰り返し、ついには思いあまって銀行強盗までやる事に。そして全てから逃げるため、西は美幸を連れ、最後の旅へと出る… 先日、友人と話をしていた折、日本のロードムービーに傑作はあったか?と言う話になった。しかしいざ考えてみると、海外作品だったらいくらでも思いつくものだが、いざ日本では?となるとなかなか思い浮かばない。実際その時の話では「無いなあ」とか喋っていたのだが、改めて考えてみると、本作が日本におけるロードムービーの傑作の一本なのではないか?と思えるようになった。 『その男、凶暴につき』(1989)以来、物議を醸す作品を次々に世に送り出してきた北野武監督だが、これまでの総決算とも言えるべき作品が本作といえよう。 これまでの北野監督作品のように、台詞を極力廃し、短絡的に事件を起こしていく主人公という構図は変わらないが、本作の場合は主人公の無口さは輪をかけて激しく、劇中ほとんど喋ることをしない。しかもやってることは計画性も何もない。目の前にある障害を排除するだけ。はっきり言ってしまってもの凄く短絡的な作品である。しかし、それが先の読めない展開となって常に画面に緊張感を出させることに成功している。それに言葉を無くすることによって、かえって雄弁に伝えたいことが伝わってくる。言葉を失い、感情を手に入れたのが本作の最大の強味と言えるだろう。TVコメンテーターとしてはあれだけ雄弁な監督だからこそ、沈黙の強さというのをよく知っているのかも知れない。 その演出を裏付けるのは、間の良さとカメラ・ワークの凄さ。特に静から動に突然変わる演出は監督独特のものだが、その完成形を本作で見た。キタノ・ブルーと言われる青を基調とした演出の中、静かに静かに展開していって、本当に予告無しの一瞬でアクションへと転換する間の取り方は一種の名人芸と言っても良い。それと、静かな中に緊張を挿入するカメラ・ワークも凄い。これは監督よりは撮影の山本英夫の巧さ。久石譲のくどい音楽の使い方も妙にはまる。 見事ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを取ったのは、ストーリーそのものよりも演出の良さによるものではないかとも思える(審査員の中に塚本晋也監督がいたからという話もある)。 |
キッズ・リターン Kids Return 1996 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1996日本アカデミー新人俳優賞(金子賢、安藤政信)、音楽賞 1996ブルーリボン新人賞(安藤政信) 1996日本映画プロフェッショナル大賞監督賞、ベスト2 1996キネマ旬報日本映画2位 1996毎日映画コンクール日本映画優秀賞、スポニチグランプリ新人賞(安藤政信) 1996報知映画新人賞(安藤政信) 1996ヨコハマ映画祭第1位、助演男優賞(石橋凌)、最優秀新人賞(安藤政信) |
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これまでの暴力描写から、それを超えて生きていこうとする姿を描く。 |
みんな〜やってるか! 1994 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
1995日本映画プロフェッショナル大賞10位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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ある朝、いい男といい女がカー・セックスをしているところを夢に見て起きた朝男(ダンカン)は、いい女とセックスをしたい。と考えた。それで簡単に女を引っかける方法を成り行き任せに考えては行動に移すのだが、やることなすこと上手く行かず、それどころかいつの間にか次々と犯罪に巻き込まれてしまう… これまで暴力的な作品を作っては随一の演出力を見せた北野監督が自分の土俵であるギャグの領域で映画に挑戦した野心作(自分の土俵が野心作ってのも不思議な気がするが)。 ここまでの北野作品に共通するのは、著名なコメディアンであるにもかかわらず、コメディを映画で作るとことごとく失敗すると言うこと。真面目な作品を作ると評価され、不真面目な作品を作ると全然見向きもされないという事に監督自身も忸怩たる思いを持っているらしく、事ある毎にコメディを作るのだが、その全てが失敗に終わっている。 そう言う意味で本作は“挑戦”と言われることも多いが、ちょっと違うんじゃないかな?監督本人は売るつもりで作ったのだろうと思う。実際ビートたけしとしてテレビでやってることをそのまま映画にしてみました。という、あからさまに受ける要素を出してみたのだから、「これなら売れる!」と本人は確信してたんじゃ無かろうか?むしろ監督の本意ではなく、売るために作ったという姿勢が明らかなのだが… 残念ながら本作は全然受けなかった。 いや、面白くない訳じゃない。脈絡無く成り行きでギャグを作るというライブ要素の強い作風は新鮮で、テレビサイズで観るにはかなり笑える。ただ、やっぱりこれは映画じゃなくてテレビなら。という注釈が付いてしまう(最後半の特撮パロは特撮ファンには結構楽しいのだが)。基本無料で流れていて、横目で見ながら笑うテレビと、金を出して真剣に観る映画とでは、観客の姿勢がまるで違う。思いも何も入ってない意味のないギャグの連発を求めて金を払う人間はいないと思う。少なくともそう言う人間に対する裏切り行為とも取られてしまいかねない作品である。その部分を監督は読んでなかったんじゃないか?…まあ、読んだからと言っても、後のギャグ作品がやっぱり売れなかったという事実があるので、北野ギャグはやっぱりテレビか生で観なければ面白くないのだろう。 これがもし監督第一作だったら、今の“世界の北野”は存在してなかっただろう。監督生命さえ脅かすほどの爆弾でもあった。事実この作品の後、北野監督はバイク事故を起こし長く入院することになったので、やっぱり相当にストレスを溜める作品だったんじゃないだろうか? |
ソナチネ 1993 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1993日本アカデミー音楽賞 1993日本映画プロフェッショナル大賞新人奨励賞(国舞亜矢) 1993キネマ旬報日本映画第4位 1993ヨコハマ映画祭第3位 |
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純化された暴力を突き詰めた作品。 |
あの夏、いちばん静かな海。 1991 | |||||||||||||||||||||||
1991日本アカデミー音楽賞、新人俳優賞(大島弘子)、作品賞、監督賞(北野武)、脚本賞、編集賞 1991ブルー・リボン作品賞、監督賞(北野武) 1991キネマ旬報日本映画第6位 1991毎日映画コンクール日本映画優秀賞、録音賞 1991報知映画監督賞 1991ヨコハマ映画祭第1位、監督賞、音楽賞、最優秀新人賞(大島弘子) |
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前作から一転。音楽に重要性を置いた作風となる。 |
3−4×10月 1990 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1990日本アカデミー編集賞 1990キネマ旬報日本映画第7位 1990ヨコハマ映画祭4位 |
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音楽を一切排した静けさが暴力描写と相まって狂気を演出する。 本作から“キタノブルー”と呼ばれる独特の撮影法となる。 |
その男、凶暴につき 1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1989キネマ旬報日本映画8位 1989ヨコハマ映画祭監督賞、第2位 |
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凶暴で署内からも異端視されている刑事我妻諒介(ビートたけし)。凶悪犯罪を憎む彼は犯人と目星を付けた人間には容赦せずに暴力で対していく。そんな無茶苦茶な彼が新米刑事の菊地(芦川誠)と組んで担当したのは麻薬の売人殺害事件の捜査だったが、この事件は彼が思っていた以上に複雑な様相を呈し始める。警察内に蔓延る麻薬組織の手。そしてついには諒介の妹である灯(川上麻衣子)にまで手が伸びていく… ビートたけしが本名の北野武名義で初監督した作品で、後に“世界の北野”と呼ばれるようになる彼の初監督作。そもそもは主演のみで深作欣二監督作品となるはずだったが、スケジュールの都合で自らメガフォンを取ったらしい。お陰で鮮烈すぎるデビューを飾ることが出来た。 想い出の話からさせていただこう。 私は子供の頃「8時だよ全員集合」が大好きだった。小学校ではみんな観ていて、厳しい親だったのでなかなか観させてくれず、お陰で月曜日の朝友達との話題について行けずに寂しい思いをしたものだ。そんな「全員集合」を追い落としたのが「オレたちひょうきん族」という番組。それまでの、蓄積と練習によってなされる芸ではなく、即興とライブ性を重視し、下らないことを繰り返すことによって笑いに昇華していくという、新しいタイプのお笑いバラエティだったが、こちらは実は当時私は嫌いで、ほとんど観ておらず、特にその原動力となったビートたけしは大嫌いだった(実名を挙げて人をクサす芸というのが大嫌いだったのもある)。中学生当時、私が嫌いなタレントのナンバー・ワンを挙げろと言われたら迷い無くビートたけしの名前を挙げただろう。 その後、大人気を得たたけしは芸能界でもやりたい放題。暴力沙汰を起こしてみたり事故を起こしてみたりと、その度毎に私は「そら見たことか」と暗い快感を覚えてみたりもした。映画監督をやってるのは知ってたけど、どうせタレント業の手すさび。片手間でやってるものを観る事もない。と長らく観ることもなかったのだが、偶然テレビでやってた『Kids Return キッズ・リターン』観た途端衝撃を受け、以降それまでの気持ちが全く逆転。すっかり監督北野武のファンになってしまった。少なくともそれだけの振れ幅のお陰で北野監督作品は私にとっては忘れがたい印象を与えてくれた。 本作は何本か監督作品を観た後で出会ったのだが、それは私にとっては幸福な出会い方だった。80年代の邦画嫌いビートたけし嫌いの私だったから、多分本作の公開時点で観ていたら、本作の良さは全然分からなかっただろうから。 それで何本か監督作品を観た後で本作を観ると、以降の作品に通じる手法やテーマなどがしっかり盛り込まれていることが分かる。いや、むしろ原点を観ることによってかえって驚かされることも多かった。 一つには、主人公は決して超人ではない。ただ彼はリアルな意味で強い。ということ。それは彼が今の一瞬以外を考えてないから。人は普通将来のことを考える。暴力を振るったら後で始末書を書かねばならないとか、殴る相手の人生や家庭のことなんかを考えたら普通拳は鈍る。だけど、その瞬間しか考えず、後は何とかなる。としか考えてないとすれば…要するにマジで狂ってるから強いのだ。 ここでの諒介の行動は無茶苦茶で一貫性がないように見えるし、事実その通りなのだろう。それは彼がただ「今」しか観てなくて、後は何とかなる。という割り切りで出来ているからだと思われる。そんな生き方を描いた作品ってこれまで無かった。仮にこれをもっと早く観ていたら、これは物語の欠陥にしか見えなかったはず。 しかし、以降の監督の作品はこの特殊なモティーフが繰り返し登場するので、これは作風だと分かる。 その特有な演出を“間”として使用するからこそ北野監督作品は特異的なのだ。改めて思うが、この間の取り方は他の監督には真似出来ない。緊張感を持たせて相手に近づき、相手の反応を全く待つことなく、いきなりの一方的なバイオレンスシーンが展開。普通この手の間の取り方は緊張感を持続させておいて、頃合いを見てアクションシーンにはいるのだが、その間を全く無視してしまい、観てる側は呆気にとられている間に事が終わってしまう。ライブ感覚を大切にする芸人だからこそ得た独特の間の取り方なんだろうけど、これは誰にも真似出来ない。北野監督作品は暴力シーンがきつすぎるという評も聞くが、暴力シーンそのものが残酷とかではない。暴力が一方的で相手を完膚無きまでに叩き伏せてしまうから、それが観ていてきついのだろうと思える。 それといわゆるセックス描写もその感覚に則って行われるのも特徴か。あくまで一方的に責めるシーンが多く、お色気と言うよりもこれまた暴力シーンにしか見えなかったり。 いずれにせよ、既存の確立された演出を否定し、誰にも真似の出来ない独特の間の取り方がデビュー作から既に確立してたというだけでも本作の凄みを観ることが出来る。 |