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日本国内よりも海外での評価が高い。 | |||||||||||||||||||||||
塚本晋也読本 SUPER REMIX VERSION(書籍) _(書籍) |
2023 | ほかげ 監督・製作・脚本 | |||||||||
2022 | ||||||||||
2021 | ||||||||||
2020 | ||||||||||
2019 | ||||||||||
2018 | 斬、 監督・製作・脚本・撮影・編集・出演 | |||||||||
2017 | ||||||||||
2016 | ||||||||||
2015 | ||||||||||
2014 | 野火 監督・製作・脚本・編集・撮影・出演 | |||||||||
2013 | 「また、必ず会おう」と誰もが言った。 出演 | |||||||||
小暮写眞館<TV> 出演 | ||||||||||
2012 | ||||||||||
2011 | KOTOKO 監督・製作・企画・脚本・編集・撮影・出演 | |||||||||
カーネーション<TV> 出演 | ||||||||||
坂の上の雲(3rd)<TV> 出演 | ||||||||||
2010 | 妖しき文豪怪談/葉桜と魔笛 監督 | |||||||||
ゲゲゲの女房<TV> 出演 | ||||||||||
坂の上の雲(2nd)<TV> 出演 | ||||||||||
2009 | 鉄男 THE BULLET MAN 監督・原作・脚本・撮影・出演 | |||||||||
2008 | 悪夢探偵2 監督・製作・原作・脚本・撮影・編集 | |||||||||
フルスイング<TV> 出演 | ||||||||||
2007 | クワイエットルームにようこそ 出演 | |||||||||
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2006 | 悪夢探偵 監督・製作・脚本・撮影・美術・編集・出演 | |||||||||
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2005 | HAZE ヘイズ 監督・製作・脚本・美術監督・撮影監督・編集・出演 | |||||||||
female フィーメイル 監督・脚本・撮影・編集 | ||||||||||
2004 | ヴィタール 監督・製作・脚本・美術・撮影・ | |||||||||
稀人 出演 | ||||||||||
恋の門 出演 | ||||||||||
2003 | ||||||||||
2002 | 六月の蛇 監督・製作・脚本・美術監督・撮影・編集・出演 | |||||||||
伝説のワニ ジェイク 出演 | ||||||||||
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2001 | 盲獣VS一寸法師 出演 | |||||||||
クロエ 出演 | ||||||||||
とらばいゆ 出演 | ||||||||||
殺し屋1 出演 | ||||||||||
連弾 出演 | ||||||||||
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2000 | 溺れる人 出演 | |||||||||
DEAD OR ALIVE 2 逃亡者 出演 | ||||||||||
犬木加奈子恐怖world 亡霊の棲む家 出演 | ||||||||||
さくや 妖怪伝 出演 | ||||||||||
1999 | BULLET BALLET バレット・バレエ 監督・製作・脚本・撮影・美術・編集・照明・出演 | |||||||||
双生児-GEMINI- 監督・脚本・撮影・編集 | ||||||||||
1998 | サンデイ ドライブ 製作・出演 | |||||||||
あ、春 出演 | ||||||||||
1997 | ドッグス 出演 | |||||||||
東京日和 出演 | ||||||||||
1996 | ロマンス 出演 | |||||||||
1995 | TOKYO FIST 監督・製作・原案・脚本・撮影・美術監督・編集・出演 | |||||||||
塚本晋也10000チャンネル 監督・出演 | ||||||||||
遥かな時代の階段を 出演 | ||||||||||
1994 | 119 出演 | |||||||||
我が人生最悪の時 出演 | ||||||||||
1993 | ||||||||||
1992 | 鉄男 II BODY HAMMER 監督・製作・脚本・撮影・美術・編集・出演 | |||||||||
1991 | ヒルコ 妖怪ハンター 監督・脚本 | |||||||||
1990 | ||||||||||
1989 | 鉄男 TETSUO 監督・脚本・撮影・美術・編集・出演 | |||||||||
1988 | ||||||||||
1987 | ||||||||||
1986 | 普通サイズの怪人 監督・脚本・出演 | |||||||||
1979 | 蓮の花飛べ 監督・製作・脚本 | |||||||||
1960 | 1'1 東京で誕生 |
ほかげ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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終戦後しばし。焼け残った小さな居酒屋に1人で住む女(趣里)がいた。飲み屋の体裁はあったものの、そこは生きるために身体を売るための小屋だった。ある日、焼け跡から一人の少年が食べ物を盗みに来て、何故か居心地が良かったために店に居座るようになってしまう。そんな中でも日は過ぎ、女を抱きに復員兵がやってきたり、少年に仕事を持ってきた男(遠山未來)がやってきたり… 近年の塚本晋也監督は昔と大きく変わった感じがある。特に2014年の『野火』からは顕著で、これまでのエンターテインメント性から、むしろ人間の内面に深く踏み入ろうとしていることが窺える。『野火』は太平洋戦争、『斬、』は幕末、そして本作は戦後というはっきりした時代の中の出来事として描いたことで、はっきりリアリティへの指向が見られるようになった。 時代のリアリティ。それは「後悔」であることが監督の方向性であったのだろう。ただしそれは単純な自己憐憫でも偽悪でも終わらせない。そこに生きた人間が、その場で感じた後悔と、そこから一歩進めることをテーマにしてる感じがある。 残酷な行為を無理矢理やされる場合、人の心は大きく傷つく。そして傷ついた心を癒やすには大変時間がかかるし、それ以上に治らない可能性もある。それは『野火』の場合は実生活に戻った後の田村が見つめている炎だったし、『斬、』は斬ってしまったという事実に直面した都築はもう動けなくなってしまい、そこからもう一歩を踏み出すまで。 前2作は、最後に主人公は傷を癒やすこともなく、ただ過去に責められたまま行き続けることとなっていたが、本作ではもう一歩それを進め、けじめの部分まで描こうとしていたようでもある。 そのけじめとは何か。 本作は終戦後を舞台にして、一人の少年が見た大人達を描いている。彼が見る大人は皆一様に戦争で精神を傷つけられて病んでいる。最初に登場した河野宏紀演じる復員兵の過去は明かされていないが、戦争によって完全に無気力に陥っていて、完全に未来を諦めきっている。ただ女を抱こうとする時だけ精気がみなぎり、それで女を無理矢理抱こうとする。これは生きようとする気力を作り出そうとする行為だろうが、それは他人を傷つけるだけだった。次に現れる、森山未來演じるテキ屋で、彼も復員兵で自分が戦争で無理な命令で戦友を殺した事をずっと気に病んでいるそして敢えてかつての上官の家の近くをうろつくばかり。そして最初に登場する趣里演じる女は、戦争で家族を失ったことをずっと悔やんでいながら、それでも商売で男に抱かれ続けている。 そんな彼らを見つめている少年は、彼らの運命を見る狂言回しのような役割を担う。 物語は淡々として流れ、誰も救われないまま終局を迎える。そのため一見虚しい話となってしまう。 ただ、要所要所に、決着を示す描写が出てくるのが本作の特徴で、そこが前二作とは異なる。一番分かりやすいのが遠山未来の復員兵で、彼は元の上官に向かって銃を撃ち、自らが行ってきた所業の責任を取らせている。その際拳銃を撃つのが印象的だった。 劇中、他にも銃が出てくることが何度かある。少年が河野宏紀の復員兵に突きつけるのが印象的だが、他にも銃声として何度か聞こえてくる。特にラストの銃声は、女が自らに決着を付けた音として印象深い。 その銃声一発一発が、一人一人の人間の決着を描いたものだとしたら。ただ鳴り響くだけに聞こえた何発もの銃声が、それぞれ誰かの人生の決着を付けたものと考えるならば、それは重い響きとなっていく。 直接的な描写はしないものの、病んでしまった人間が自分なりに決着を付けた話というものを本作では描こうとしていたと考える事も出来る。その意味では確かに一歩踏み出した作品と言っても良かろう。 |
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斬、 2018 | |||||||||||||||||||||||||||
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江戸時代末期。開国を巡って揺れ動く日本。そんな中、浪人の都築杢之進(池松壮亮)は、江戸の喧噪を離れて農村で手伝いのようなことをしていた。そんな時、剣の達人澤村次郎左衛門(塚本晋也)という侍が現れ、共に江戸に行こうと誘われる。折しも野伏たちがこの村を狙っていたのだが… 『野火』以来4年ぶりの新作がリアルタイムで劇場で観られる。内容は問わない。これだけで東京に住んでいることに感謝したくなる。 この4年間、監督は何もしなかったわけではない。役者としては国内外で随分活躍していて、そうやって充電期間を用いて自分の映画に着手するという、監督らしい作り方で作り上げた作品。 とにかく一通り観て思うのは、本当に自分が作りたいように作ったと言う感じ。商業ベースで考えるならこれは絶対に売れないし、物語としても成立していない。 しかし、作りたいものを作りたいように作るという監督のエゴを見事に体現しているし、気がついてみると、それにノッてる自分自身がいる。意外にこういう作品も自分なりにはいけることに気づいたというか、ATGっぽさが逆に新鮮な気分である。 ところであらゆる映画監督が理想とするものは何かと言うと、自分の作りたい映画を作る環境だと言われることがある。 現実にはそうはいかず。通常莫大な制作費がかかる映画作りは多くの出資者によって金が出されるものであり、映画制作も出資者の意向に従って作られることになる。 よくオフラインで話題にするのだが、例えばそれは『日本沈没』(1973)のリメイクが『日本沈没』(2006)になったことが挙げられる。「恋愛要素を入れろ」「ジャニーズを使え」「日本は沈没させてはならない」という出資者の意向を全部実現したらあんな作品になった訳だが、多かれ少なかれ、ほとんどの映画において、多かれ少なかれその影響が出てしまう。 その影響を受けないようにするために監督が出来ることはいくつかある。例えば精一杯言葉を尽くして説得するとか、何らかの見返りを約束するとかがあるが、一番理想的なのは、自分で制作費の大部分を担うというやり方がある。 そのやり方で成功した監督は世界的に見るとそこそこは存在する。 その中で、自分自身が高額の出演料の映画に出演して、それで資金を稼いで映画を作ったという人物がいる。それがジョン・カサヴェテスである。 塚本監督はそのカサヴェテスのやり方を真似て、それで自分独自の世界観で映画を作ってる。 その姿勢には惜しみない拍手を与えたい。 それではそこまでやって監督は本作で何を表現したかったのだろうか? それは観てる人が一人一人考えれば良い。監督の狙いはそこにあるのだろう。とりあえず思わせぶりな演出を多々使用し、「ほれ解釈してみろ」と投げつけているのだから。だから一人一人観てるものが違って良いのだ。それがこの映画の意味合いなのだから。 それで私自身が思うには、監督が本作をこのタイミングで作ったのには意味があると思ってる。 初期の塚本監督作品の大きな特徴は肉体の変容だった。それもより強靱な人間を越えたものとして。例えばそれは『鉄男 TETSUO』のシリーズであったり、『TOKYO FIST』であったり、それが少しずつエロチシズムへと傾向が変わっていった。元々が性欲過多のきらいがある作風なので、相当偏った精神世界的なエロが展開していたものだ。 それが2010年あたりを境に、更に作風が変化していった。精神世界には違いないが、それまで見えていたエロチックさが抜けている。そして前作『野火』に至っては、それまでの情緒的な描写を抜き、ソリッドな演出だけで見せようとしていた感じである。 その『野火』の後で作られた本作は、一見過去の性欲過多の物語に見えなくもないが、明らかに変化している点もある。 他でもない監督自らが演じている澤村が枯れ過ぎてるのだ。主人公の都築こそ生々しいが、それを導こうとする人物の中には性欲は残っておらず、効率的な思考だけで物事に対処する。こんなキャラは塚本監督らしくない。 都築をかつての監督自らの姿と考える事も出来るが、現実には澤村こそが監督の映しであるとするなら、おそらく塚本監督、老いを意識し始めたのではなかろうか? 本作を作った理由というかモチベーションは、自分の中で老いというものと対決し、それを解釈したいため。 そのようにも思えてしまう。 しかし、これは本来思考で止まるべきものであり、人前に映像として出せるものではない。 それを敢えて出してしまうという一種の露悪趣味にこそ本作の本当の意味合いがあるのではないかと思う。 |
野火 2014 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1945年。フィリピンの小島で最早敗色濃厚の中、それでも連合軍と戦い続ける日本軍。そんな中、肺病を病み、部隊を追われた田村(塚本晋也)は食糧不足のために野戦病院からも追い出され、最早行くべき所を失ってしまった。刻々と近づいてくる死の恐怖から逃れようと、ひたすら彷徨う田村だったが… 大岡昇平による戦争文学の代表作「野火」の2回目の映画化。残念ながら小説も、市川崑による1作目の映画も未見ではあるが、本当にとんでもないものを観てしまった気分になった。 沢山映画を観ていると、時に「何で俺、金出してこんなもん観てるんだろう?」と思うようなことがある。特に私なんかは恐がりだから、残酷シーンがある映画を劇場で観るってのは、大変なストレスを強いることになって、よっぽど席を立とうか?という思いにさせられる。 本作はそのストレスが極限まで高まってしまった。こんな思いになったのは『冷たい熱帯魚』(2010)の時以来だ。 ただし、観終えた時、もの凄く疲れはするのだが、日常生活に戻る際「観て良かった」と思えるのが凄い。こんな思いをさせてくれる作品は本当に少ないし、それを作ってくれた監督には今は感謝したいくらいだ。 物語は単純すぎるくらいに単純。何せ主人公はほとんど意志力がなく、流されるまま行動するだけ。「野戦病院に行け」と言われれば行くし、「帰れ」と言われれば帰る。そのどちらにもいられなくなった時には死のうとし、自分で命を終わらせられないから、ただ彷徨するしかない。誰からも命令されることなく、しかし自由とはほど遠い位置にいる。彼が生き残れたのは、単純に運が良かっただけである。だからそこにはドラマは生まれない。 だが、どんなに主人公に意志力が無くても戦いは続き、否応なしに生死の境を彷徨うことになる。そしてその描写があんまりと言えばあんまり。戦闘機の機銃掃射によって、目の前にいる人間の頭がぱっくり割れたり、待ち伏せにあって脳漿を巻き上げて死ぬ人間とか、全身皮膚が焼けただれ、最早ゾンビ状態になっても動いてる人間、もげた腕を這いまわって探している人間、「猿狩り」と称して人間を殺す人間。ただ耳障りだから、黙らせるために現地の人を撃ってしまう主人公…よくもまあここまでやるもんだという描写が目白押し。これ大画面で見せ続けられるのは、掛け値無しに精神的な拷問に近い。正直、これ見せられたら「戦争になんて絶対行きたくねえ!」と強く思う。 それでは本作は単なる残酷なだけの反戦作品なのか。と言われると、さにあらず。 本作で極めて強く描かれているのは、自分自身が何に寄りかかっているのか?というものだと思う。 主人公田村は、本来部隊に属する人間で、命令があればその命令に従う普通の兵士だろう。だが、その命令系統が無くなってしまった時に何をすればいいのか?そこでアイデンティティを失う。誰か自分に命令してくれる人を探し、それをしてくれる人がいれば喜んでついていく。だが次々と上官は死に、その度ごとに自らのアイデンティティは崩れていくことになる。 ここで主人公が、すがるべきものとは?と考えるならば文学的にも哲学的にも物語は展開するが、それを本作では拒否した。あくまで頼るべきものを求めつつ、それが見つからないまま彷徨するのみである。 そして田村に対して、「頼るべきものを見つけた人間」として青年永松(森優作)の登場が本作の大きな意味合いであろう。彼は田村の目から見ても駄目人間である伍長(中村達也)を甲斐甲斐しく面倒を看、彼の言うことを聞いていく。劇中それは「何故?」と思わせるのだが、彼こそが本当に生きるべきよすがを見つけた人間として考える事が出来る。自分には生きる甲斐がある。そう思っているから彼は生きる事に執着できるのだ。最後に永松が伍長を撃ったのは、彼が自分を殺そうとしていることを知り、その先手を打ったこと、そして実は伍長を助けていたのは、最終的に自分の食料にするためだったと分かってくる。 そこまでの執念で生き残ろうとする人間を配することで、田村の生き残りが本当に偶然でしかなく、ここまでして何にも寄りかかることが出来なかった田村は、最後に幻想的な火を観続けていくだけになる。 彼が見ている火とは、生きるためにしてしまった行いにより自らの心の中に灯ってしまった野火であろう。それが一生精神を蝕んでいくことを暗示する。戦争とは、生き残った人にも救いを与えないと言うことをまざまざと示した一瞬とも言える。 |
KOTOKO 2011 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鉄男 THE BULLET MAN 2009 | |||||||||||||||||||||||
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東京の企業に勤めるアンソニー(ボシック)は、妻ゆり子(桃生亜希子)と息子トムとともに幸せな生活を送っていた。だがある日、トムが謎の男によって轢き殺されてしまう。そして怒りに我を忘れたアンソニーの肉体は、鋼鉄へと変化していくのだった。息子が殺された理由を追って、父ライドが関わっていた“鐵男プロジェクト”へと辿り着く… 丁度20年前に第一作目が登場した『鉄男 TETSUO』は、低予算ながら、そのハイセンスな映像によって塚本晋也の名前を全世界へと轟かすこととなった。その後、ある程度の予算が付き、その拡大版である『鉄男II』を経て、今新たな形で三度『鉄男』が眼前に現れた。ファンとしてはとても嬉しい作品であり、楽しみにしていた作品だった。 そしてその出来はと言うと… まず一言。「うるせー!」 事前に本作は“爆音ムービー”と言う事を聞かされてはいたし、真偽の程はともかく、映画館のスピーカーがぶっ壊れるほどだとも聞いていた。しかし、実際に観てみると、聞きしに勝る轟音。と言うより、騒音。あまりの音の大きさに、途中からヘッドフォン取り出して耳栓代わりにしていたほど。それでも充分音がでかい。そのまま聴いていたら、終わった辺りで耳鳴りしてたんじゃないか? 何考えてんだ。こんな売りはいらん! …と、まあ最初からネガティヴな事を書いてしまったが、作品そのものは、紛うことなく『鉄男 TETSUO』だった。主人公がそれまで2作で主演した田口トモロヲに代わって外国人になったけど、それ以外は物語も演出も『鉄男』そのもの。“ヤツ”も一貫して監督が演じているのも同じ。 物語は簡潔。一人の男がある日を境に突然金属になってしまう。本当にそれだけだが、この三作品は細部が随分違っている。特にヤツの立ち位置は三作品全部異なっている。 一作目『鉄男 TETSUO』に登場したヤツは、主人公を変質させたのみならず、自ら進んで機械と融合し、やがて主人公と合体してモンスターとなる存在。2作目『鉄男 II BODY HAMMER』では、主人公とは敵対する存在として、主人公を変化させた上で自らの肉体を鍛えまくり、敵として登場。 そして三作目となる本作では、ヤツの存在は前2作と同じく主人公に変化を促す役割を持ち、そのシナリオ通り主人公はヤツの求める破壊に向かって動いているが、そこでの反応が少し異なっている。破壊を求めているのはヤツだけであり、これまでの二作と異なり、主人公はその怒りの解放を最後の最後に押さえ込んでしまう。前2作ではヤツの思い通りになっていった主人公が、この作品に関しては、最後の最後にヤツに逆らう。それによって物語も平和に戻ってめでたしめでたし。 しかしながら、なんでこんな終わり方になったのかが今ひとつ理解出来ない。大体根本的に何にも解決してないとしか。あれだけ迷惑な事をやって、人死にもばんばんでて、どこかの組織から目を付けられて、いつ又暴走するか分からない存在が、元に戻れるものなのか?そもそもあのラストシーンは必要だったか?と、色々考えてしまう。 強いて言えば、これが20年という時間の重みなのかもしれない。塚本監督の初期作品は大抵が主人公があっちの世界に行ってしまってもう帰ってこないのが多かったけど、近年のものは、それがどんなきつい現実でも帰ってくることが多くなった。塚本晋也という人物の思考の変化がこんな所にも現れてるのかな? |
悪夢探偵2 2008 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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悪夢探偵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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都内で不可解な事件が連続して起こる。被害者はどちらも、ベッドの上で眠ったまま自らを切り刻み死んでいたのだ。自殺とも取られるが、2人は死の直前に携帯電話から「0(ゼロ)」と表示される人物に電話していることが判明した。捜査に当たる女性刑事・霧島慶子(hitomi)は、これは「0」による何らかの暗示によるものではないかと思い捜査を進める。そして「0」は夢を操るのではないかと推測を立てた慶子は他人の夢の中に入る特殊能力を持ち、"悪夢探偵"と呼ばれる影沼京一に協力を申し出る… 塚本晋也監督自らが書いた小説を自ら脚本化し映画化した作品。人の夢の中に入り込み、そこから情報を取り出すなんて、夢枕獏の「サイコダイバー」っぽくもある作品だが、それを塚本監督の独自世界に引き込んで作り上げている。 ただ、私としてはこれはかなり痛し痒しの内容。諸手を挙げて「大好きだ」と叫びたい一方、「こりゃ駄目だ」と言いたくもあり。難しい。 『六月の蛇』とか『ヴィタール』で、精神的なエロティックさに走り、これまでに無かった塚本監督の新境地か?と思わせておいて、本作がストレートな特撮ホラーにしてしまったのは、ちょっと意外と言えば意外で、どこか安心感も感じられる一方、もうこう言うのを作らなくても良いよ。という気にもさせられたのは事実。 この世界観と言い、作りと言い、いかにも昔の特撮ファンには受けが良いのは分かるし、わたし自身もこれにはとても心地よさも感じてしまうのだが、一方、現代でこれ作るのは、いかにも古すぎはしないか?という気もちらほら。特にいわゆるJホラーが始まってから、精神にじわじわ来るホラー作品が量産されるようになった今、ストレートすぎるこの描写は今ひとつというか、何故今更?としか思えず。大体その精神にじわじわ来るような作品は塚本監督自身が始めた作品群からだったのに。 最後は結局戦って終わりというのも、あまりにもストレートすぎだ。今まで培ってきた不安を煽るようなカメラワークは健在だが、やっぱり『鉄男』レベルに後退してる気もする…原点に戻ろうとしたと言うよりは、単にこう言うのが好きだから作ってみました。的な意味しかないのかもしれない。 それと、語り部としての主人公に何故hitomiなんて歌手を使ったのかもちょっと謎。いや、確かに綺麗だし、絵にはなるんだけど、なんせセリフが完璧棒読みで、興が削がれることおびただしい。なまじ周囲が上手いだけに、彼女が喋ると浮いて仕方なし。この人使ったのはやっぱり失敗だったんじゃ?一方、松田龍平にとっては久々に良い役作りが出来たんじゃないかな?あの無表情さが、人と関わることで傷つけられ続けられてきた男の表情になってるし、不気味さがいかにも“怪しげな”悪夢探偵という存在に直結出来てるから。少なくとも、この主役は不動だろう。意外なところで『46億年の恋』でその松田龍平と張り合ってた安藤政信が小物役で登場してる。この人も器用なものだ。 |
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ヴィタール 2004 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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六月の蛇 2002 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
2002ヴェネツィア国際映画祭コントロ・コレンテ部門審査員特別賞(塚本晋也) 2003日本映画プロフェッショナル大賞7位 2003ヨコハマ映画祭第5位 |
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辰巳りん子(黒澤あすか)と重彦(神足裕司)の夫婦はセックスレスながら、共働きでそれなりにゆとりのある生活を送っていた。ある日、りん子は勤め先の電話相談室で自殺予告の電話を受ける。彼女は電話の男を懸命に励まし、自殺を踏みとどまらせた。その翌朝、りん子のもとへ1通の封書が届く。その中身は彼女の痴態を写した写真であり、差出人は昨日電話をしてきた道郎(塚本晋也)という男だった… 何度か書いたが、私は悪夢を題材とした映画が大変好き。悪夢と言っても実際に眠って夢を見る場合もあるが、現実世界が徐々に崩壊していき、自分が一体どこにいるのか、何をやっているのか分からずに彷徨うと言う感じのも好き。どこかこの現実の表層をめくってみたら、変な世界がのぞき込んでいたというパターンが好きなんだろうと思う。 それで現代の監督の中でそう言う世界を作ってくれる監督というと、あまり数は多くないのだが、日本で一番はなんと言っても塚本監督だろう。この人の描き出す世界はエロスと暴力、そしてフェティシズムに溢れているが、ただそれだけではなく、それらの奥底にある人間の極限の痛みと世界のドロドロした部分を描き出そうとしているようで、しかもその世界観がたまらなく私には合う。 ここで登場するのはセックスレスだがそれなりに幸せな夫婦。平穏無事に過ごしており、それで良いのだと割り切っているように見える。しかし、一皮むけば…と言う構造になっている訳だが、その堕落へと誘うまでと、あっけなく墜ちて、そこから周りへ波及していく過程が見事。『鉄男 TETSUO』から一貫して変わらぬ塚本監督の姿勢がここにも貫かれているが、これまでの堕落に誘う存在が“訳の分からない存在”だったのに対して、本作ではかなり明確に描かれているのが特徴だろう。ここでの蛇とは堕落のメタファーだろうが、明確に“人間の形をした人間”であることが分かる。訳の分からない存在でない分、日常のどこにそう言う存在が潜んでおり、自分自身を狙っているかも知れない。と言う危うさを演出できていたと思う。 ここで妻のりん子は淫欲な自分の本性が蛇によって暴かれ、泥沼のような変態への道へと足を踏み入れることになるのだが、面白いのは夫の重彦の方。当初、彼は目隠しされているかのように思われるのだが、やがて彼自身が真実を知ることによって、りん子と道郎の行為を“視る”ことによる興奮を知ることになる。結局二人は同時に変態的な道に堕落していくことになるのだ。何を考えてるのか今ひとつ捕らえられない神足裕司(恨ミシュランを思い出すなあ)の分からない表情を見事に画面にはまっていた。顔の表情を変えなくても、置かれているシチュエーションによって、真面目そうな顔になったり、助平そうな表情に見えたりする。そう言う意味では見事に映えていた。役者としても塚本監督は登場しているが、ここでも『鉄男 TETSUO』の“ヤツ”同様、人を堕落に導く役を演じているのも興味深い所。 そして素材だけ見るならばAVになってしまいそうな素材をここまできちんと映画としての完成度に持って行ったのは、他にも演出の見事さ。本作において、画面はとにかく青く、金属の質感を持っている。その冷たさの中にあるからこそ、情感を徹底的に抑え、あくまでそれを単なる“行為”にしてしまうことが出来た。 表層的な暖かさを拒絶し、冷たい金属の殻の中に情念を封じる。外に出てくるのは熱ではなく火花。こういうケレン味こそが私が塚本監督に求めているものであり、それが与えられたのがとても嬉しい。 …そう言うことで、ストーリーに関しては敢えて目を瞑ろう。 |
BULLET BALLET バレット・バレエ 1999 | |||||||||||||||||||||||||||
2000日本映画プロフェッショナル大賞第10位 | |||||||||||||||||||||||||||
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ほぼ完全な自主映画。拳銃を渡すシーンは普通の新宿の雑踏で撮影される |
双生児 -GEMINI- 1999 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1999日本アカデミー主演男優賞(本木雅弘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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明治末期。かつて従軍医として活躍し、勲章までもらった大徳寺雪雄(本木雅弘)は、今や大徳寺医院の若き院長としての地位と名誉を手にし、そして若く美しい妻・りん(りょう)に囲まれて幸せの絶頂にあった。だが、最近誰かに見られていると言う感じをどうしても拭えなかった。そして彼の回りに次々に不幸が襲う。 見事な作品だった。監督にしか出来ない独特な雰囲気をしっかり確立しつつ、登場人物の立ち居振る舞いや会話の間で明治という時代をしっかり表していた。何より流れるようなカメラ・ワークが、これぞ邦画というものをしっかり踏まえた上で作られているのが見事。監督の並々ならぬ才能に終始驚かされる。そもそも近年に作られた乱歩作品は耽美性ばかりが強調されて辟易していたが、むしろこういう雑多性を含んだ方が遙かに乱歩らしく、その意味でも新鮮に観られた。 本木雅弘は『RAMPO』(1994)に続き二度目の乱歩作品主演となったが、この人に二役を演じさせたのは大正解。きまじめで神経質そうな雪雄と、人間としての最低の生活をふてぶてしく生きる捨吉の性格の違い。そしてその二つの性格が融合した姿をしっかり演じ切れていた。りょうに関しても、二重人格とさえ思える全く違った人格を見事に演じていたし…ところで塚本監督は文筆家に役を振る事があるんだけど(最新作『六月の蛇』では神足裕司に演らせてたし)、筒井康隆に演らせる必要って、あったの? それに雰囲気がこれ又良い。眉無しの人間の顔ってこんなに不気味なのか?と思わせる一方、これが明治という時代の格好に微妙な線で見事に合ってる。 ストーリーに関しては、前半部分と後半部分で3人の関係が見事に変化していて(雪雄はエリート→全ての真実を知り、生への執着へ、捨吉は野獣のような生き方→自分が得ていたかも知れない高貴な暮らし。この二人は全く逆のベクトルで互いに近づいている。そしてりんは装い→仮面を脱ぎ捨てて)、その描写も良し。特にラストの、今までの暮らしに戻ったはずの雪雄が眼光、無表情のまま貧民街へでかける毅然とした態度と言う点で見事に捨吉と融合した姿が現れていた。りんの赤ん坊が一体どちらの子供か。そんな事はどうだって良いのだろう。二人は融合してしまったのだ。 カメラ・ワークに関してだが、しっかり邦画的な撮り方をしている一方、どこか不自然な印象を受けるのが本作の特徴。まるで邦画好きの海外の監督が撮ったかのような雰囲気をまとわせるのだが、逆に江戸川乱歩という、どこかバタ臭さを匂わせる作家の映像化には、これ程マッチした撮り方はなかろう。もしそれを意識的にやったとすれば、塚本監督という人材に心底惚れ込んでしまいそう(元々好きな監督だけど)。 |
TOKYO FIST 1995 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2005キネマ旬報日本映画第10位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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平凡な会社員の津田(塚本晋也)は、高校の後輩でボクサーの小島拓司(塚本耕司)に恋人を奪われてしまった。小島のいるボクシングジムに殴り込みに行くも、あっさり返り討ちにあった津田は、復讐のために小島の通うジムに入門し、復讐のために体を鍛えはじめるのだが… 「あしたのジョー」の大ファンだという監督が、その原点に立ち返り、自らを主人公にして作り上げたボクシング映画。 形は様々に変わろうとも、これまでも、そしてこれからもボクシング映画は作られ続けていくだろう。それだけボクシングというのは創造意欲を増させるものがある。特に最低の暮らしの中、ルサンチマンの塊の人間が、腕一本で栄光を勝ち取る。これだけで充分映画になるのだから。 本作も、基本路線で言えばそう言ったストレートな物語形式で捉えることが出来るのだが、なんせ作ったのが塚本晋也。一筋縄に行くはずがないのは最初からわかりきっている。 物語自体はとても単純。ボクサーに恋人を寝取られてしまった主人公が自分もボクシングを始め、特訓の末、同じリングに立つ。まあこれだけを書いてしまうとどこにでもある設定に見えてしまうのだが、本作の面白さはそこではない。なんせこのストーリーフローは、本当に表面的なものに過ぎない。物語自体でも、恋敵を倒すために、その当の恋敵と同じジムで訓練をするって事自体がまともな精神で出来ることじゃないけど、出てくる人間が大概イカレていて、サディズムとマゾヒズムを同時に満足させてるような部分がある。 それで、本作の趣旨は、やはり肉体改造の快感となるだろう。最初こそ恋敵をぶち倒すために始めたボクシングが、あっという間に目的を変えてしまい、もう女なんてどうでも良い。俺の身体を見てくれ、状態になっていく過程がねちっこいほどしつこく描かれていく。 人間の肉体は鍛えれば鍛えるほど見た目が変化していく。その変化は恐ろしいほどで、それを「美」として捉える人もいるが、その改造の過程そのものをフェティシズムたっぷりに描いた作品なのだ。本作に現れるナルシズム、自分の肉体がみるみる変わっていくことの快感は、ボクシング映画を越え、ほぼ変態映画に近づいている。 ボクシング風景も極端なカットバックと早送りを駆使し、スポーツと言うよりもほぼマンガか特撮のレベルで、楽しんで作ってるなあ。って感じ。 かつて塚本監督は『鉄男 TETSUO』で人間の肉体が機械によって改造されてしまうと言う変な設定の作品を作ったものだが、実は本作もその延長線上で捉えることが出来る。これこそ、実際に出来る人間の肉体改造そのもの。『鉄男 TETSUO』→『鉄男 II BODY HAMMER』→本作と順番に観ていくと、かなり本作の作りは納得が出来てしまう。 何にせよ、この人のこう言う作品を観ていると、自分自身の中にあるフェティシズムに目が向いてしまう。だからこそこの人の作品は止められない。 |
鉄男II BODY HAMMER 1992 | |||||||||||||||||||||||||||
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国際的に評価されているにもかかわらず、ほとんど一人で撮影をこなした。 50年代以降日本映画が遠ざかっていた海外映画祭への再進出の礎を築く。 |
ヒルコ 妖怪ハンター 1991 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
1991日本映画プロフェッショナル大賞9位 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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古代の日本には今の日本人とは違う古代人がいたという学説を唱え、学会から追放状態にある若き考古学者稗田礼二郎(沢田研二)の元に義兄で中学校教師の八部高史(竹中直人)から、古代人が悪霊を静めるために造った古墳を発見したという手紙が届く。自分の学説の正しさを証明できると喜び勇んで現地へと向かう稗田だったが、なんと八部は教え子の月島令子(上野めぐみ)と共に謎の失踪事件を起こしていた。息子の八部まさお(工藤正貴)は友達と共に一方、夏休みでだれもいない学校では、八部の息子のまさおは高史が学校で消えたという噂を信じ、友達を連れだって父親の行方を探していた… 塚本晋也による特撮ホラー作品。一応ホラーには違いないのだが、かなりの変化球。どっちかというと『死霊のはらわた』タイプかな?作り方からしてあまり怖がらせようとはしてないっぽい。特撮はかなりチープで、怖いよりも笑ってしまうシーンが多々。でも低予算の中でもしっかり個性を出しているのが塚本監督らしさってところだろうか。 物語の方はかなり無茶があり、「なんでこうなるの?」的な要素が多いのだが、意外にもラストはすっきりとまとまり、“らしい”と言えば“らしい”。“らしくない”と言えば“らしくない”作品に仕上がってしまった。下手に怖がらせるよりもこういった無茶苦茶な方がカルト作品っぽくて好きだぞ。 本作の場合、無茶苦茶な物語と設定の中、それでも俳優陣が良い味を出しているのが特徴で、一途になればなるほど痛々しさを増す中年男を沢田研二が意外な好演ぶりを見せている。この人は格好良く撮るよりも、むしろこういう痛々しい役がうまい。あと意外な掘り出し物として工藤正貴が良い美少年ぶりを見せていたりもする…工藤夕貴の弟なんだね。知らなかったけど。 それにしても塚本監督って、普通の作品を作るとやけに怖くなるのに、ホラーを作ると笑えてしまうというのが不思議な矛盾だ。 |
鉄男 TETSUO 1989 | |||||||||||||||||||||||||||
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金属と肉体の融合を夢見、自らの身体に金属を埋め込んでいく“ヤツ”(塚本晋也)。事故でそいつを轢いてしまい、保身のために放置したサラリーマン(田口トモロヲ)が体験する悪夢のような現実の世界。全身が金属へと変化していく自分の身体。迫り来るヤツの姿… 塚本監督が先に作った18ミリ作品『普通サイズの怪人』をもとに、全身が金属に変化していく男の恐怖を描いたサイバーパンク・ホラー。塚本晋也という名前を内外に響き渡らせた怪作(むしろ国内より海外で受け入れられたのが皮肉だが)。 私にとっても本作品が塚本晋也初体験作品だが、これは色々な意味で“酔った”。 カットバックの多用と、塚本監督の特徴とも言える画面せましと動き回る“線”の描写は観る者の平衡感覚を失わさせ、劇中で男が味わっている悪夢を同時に私まで味わった気がした。いや、ちょっと引いて観れば大丈夫なのだろうが、映像の世界に引き込まれていた私は完全に乗り物酔いしてしまった。 本作品はビデオで観たが、普通のSFっぽい作品を期待し、食事しながら観ようと思って借りてきた。結局ビデオ観終わった時点で半分以上食事を残してしまった。こんな事は滅多にないんだが、鑑賞中、とてもじゃないが何か食べようと言う気にはなれなかった。大失敗だった。 物語そのものは単純なのだが、一体“ヤツ”が何者なのか、何故こんな物語になってしまうのか、観客を完全に置いてけぼりにしまっている。それだけ監督が本当に好きなように撮ったと言うことだけはよく分かった。 これを“映像美”と言うべきか、単なる“悪趣味”と言うべきか、それを判断するのは難しいが、この作品は間違いなく傑作であり、恐るべき才能を世に送り出した記念すべき作品だと言うことは確かだろう。 |