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リ・サンイル(Lee Sang-il)。在日2世。 | |||||||||||||||||||||||
悪人 シナリオ版(書籍) _(書籍) |
2016 | 怒り 監督・脚本 | |||||||||
2015 | ||||||||||
2014 | ||||||||||
2013 | 許されざる者 監督・脚本 | |||||||||
2012 | ||||||||||
2011 | ||||||||||
2010 | 悪人 監督・脚本 | |||||||||
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2009 | ||||||||||
2008 | The ショートフィルムズ/みんな、はじめはコドモだった 監督・脚本 | |||||||||
2007 | ||||||||||
2006 | フラガール 監督・脚本 | |||||||||
2005 | スクラップ・ヘブン 監督・脚本 | |||||||||
2004 | 69 sixty nine 監督 | |||||||||
2003 | ||||||||||
2002 | BORDER LINE 監督・脚本 | |||||||||
2001 | ||||||||||
2000 | ||||||||||
1999 | 青 chong 監督・脚本 | |||||||||
1998 | ||||||||||
1997 | ||||||||||
1996 | ||||||||||
1995 | ||||||||||
1994 | ||||||||||
1993 | ||||||||||
1992 | ||||||||||
1991 | ||||||||||
1990 | ||||||||||
1989 | ||||||||||
1988 | ||||||||||
1987 | ||||||||||
1986 | ||||||||||
1985 | ||||||||||
1984 | ||||||||||
1983 | ||||||||||
1982 | ||||||||||
1981 | ||||||||||
1980 | ||||||||||
1979 | ||||||||||
1978 | ||||||||||
1977 | ||||||||||
1976 | ||||||||||
1975 | ||||||||||
1974 | 1'6 誕生 |
怒り 2016 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2016日本アカデミー助演男優賞(妻夫木聡)、新人俳優賞(佐久本宝)、作品賞、主演女優賞(宮崎あおい)、助演男優賞(森山未來)、助演女優賞(広瀬すず)、監督賞、脚本賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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東京で夫婦の惨殺事件が起こる。現場に残された「怒」の血文字が残された以外はほとんど手がかりがなく、そのまま一年が経過した。捜査を続ける警察は、犯人の名前が「山神一也」ということと、事件後に整形手術を施している事を突き止める。その報道が流れるテレビを観た、日本各地にいる人達が、この一年の間にその地にやってきた周囲の人間に疑いの目を向ける。東京のゲイクラブで知り合った若い男大西直人(綾野剛)を疑う藤田優馬(妻夫木聡)。房総半島にある漁村にやってきて、娘の愛子(宮崎あおい)と同棲を始めたアルバイター田代哲也(松山ケンイチ)を疑う槙洋平(渡辺謙)、そして突然沖縄の離島で暮らし始めた田中信吾(遠山未来)を疑う知念辰也(佐久本宝)。それとなく彼らを見張り始めるのだが、事件報道が進むに連れ、それぞれの日常が変わり始めて… 6年前『悪人』で邦画の数々の賞を総なめにした同じ監督主演コンビが、再び吉田修一原作を今度は豪華出演陣を揃えて再び世界に問う犯罪の世界を描く作品。 本作は見事な作品ではある。豪華俳優陣の共演のみならず、心理描写にもしっかり配慮した緻密な脚本、意外性のある物語展開と、見所もふんだんにあるし、どっしりとくる見応えもある作品だった。『悪人』と較べてみても見応えは本作の方が上をいっている。 それで非常に素晴らしい作品ではあるのだが、一つだけ大きな誤算があった。 それは公開時期の間違いである。 2016年の夏は邦画がとにかく熱かった。なんせ日本では12年ぶりとなる庵野秀明監督作品『シン・ゴジラ』(2016)があり、若年層の圧倒的な支持を受け、歴代邦画興行成績10位に食い込んだ新海誠監督の『君の名は。』(2016)があって、この夏はほぼこの二作品の話題で終わってしまった。私としてもこの二作はとても良い出来だと思ってるし、『シン・ゴジラ』は今年の最高作品だとも思ってるが、それと同じ時期に、もっとアダルティな本作はちょっとそぐわなかったようだ。 スマッシュヒットした『悪人』以上の話題作になれたところが、投入時期の間違いによってたいして話題にならずに終わってしまった。作品の出来にヒットが追いつかなかったというのは返す返すも残念である。 とは言え、本作の出来そのものはとても素晴らしいもの。 李監督がここ近年に作った『悪人』、『許されざる者』と本作を続けて観ると、その傾向が明らかになる気がする。 この三作品に共通するのは、罪を犯した人が赦されるのか?と言う点に注目していることが分かる。 前2作においては、主人公は過去殺人を犯してしまい、その重みに耐える描写に力を入れている。そして主人公はその罪の重みに対してどう決着を付けていくのかを描いてみせた。『悪人』ではそれを逃亡という形にとり、『許されざる者』においては、殺した以上の数の人を助けることでその罪に対して自分なりの決着を付けようとしていたかのように見える。 対して本作での面白いところは、殺人を犯したのが誰だか分からないと言う点。登場する三人の男達は、過去に何らかの罪を犯して、逃亡の末に今の町に住んでいる。周囲からすればそれが不気味な存在に映り、誰が犯人であっても説得力を持つ。 その罪とはそれぞれ重さは異なるが、その罪の重さを感じているのは客観的事実ではなく、本人の心の中である。他の人達がどれだけ彼らを温かく迎えようと、あるいはその罪は赦されたと口にしようと、彼らはそれぞれの心に重さを抱えて生きていくしかない。 例えば大西は自分の命がもう長くないことを恋人である藤田に告げることが出来ない事を。田代は親の借金から逃げていることを。そして本当に人を殺してしまった田中。彼らはそれぞれ重みを抱え込んでいる。 そしてその重さに耐えられなくなった時、彼らはどうなるか。 大西は幼なじみの女性に全てをぶちまけた上で姿を消す。その結果として彼を殺人犯として疑ってしまった藤田は悶々としてしまい、余計な罪を抱え込むことになるが、やがてそれは涙というカタルシスによって浄化される。 田代は愛子と洋平という父娘の本物の愛情によって、自分は愛されるに足る存在である事を初めて知ることによって、自らに追わせていた罪の軛を外す。 そして田中は、誰かに断罪されることを願い、周囲の人間に挑発行為を繰り返す。その結果、彼が本当に望んでいた死という断罪を手に入れる。 この罪というのは、当人で終わるものではない。大西は藤田という理解者を苦しめることになるし、田代は彼を本当に心配してくれる親子に迷惑をかけないよう逃げた結果、余計に重さを背負わせてしまう。田中に至っては、自らの断罪ために使った知念に殺人犯という余計な軛を負わせることになる。 それぞれの罪は、あるところでは収束し、あるところでは拡散していく。それぞれが罪というものを見つめた結果である。 基本的に本作は三つの全く関係のない事件を描いたものだが、どれも罪の償いという重さを正面からぶつかった姿となる。『悪人』、『許されざる者』とも共通する真摯さを感じる事が出来る。 |
許されざる者 2013 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2013日本アカデミー撮影賞、照明賞、新人俳優賞(忽那汐里)、主演男優賞(渡辺謙)、美術賞 2013ヨコハマ映画祭第8位 |
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明治初期。幕府軍に人斬り十兵衛という異名を取る一人の男がいた。だが五稜郭での幕府軍敗北により、その存在意義を見失った釜田十兵衛(渡辺謙)は蝦夷の地で愛する女性と出会い、家族を作って農夫として生きる道を選ぶ。そんな彼の元に、かつての仲間馬場金吾(柄本明)がやってきた。彼の話では、明治政府から町の統治を任されている官僚大石一蔵(佐藤浩市)が、政府の目の届かぬ事を良いことにやりたい放題やっているというのだ。そしてそこで奴隷のように扱われている女性達が、大石の首に賞金を賭けたという話をし、一口乗らないかと誘いをかける… 1992年のアカデミー受賞作で監督としてのイーストウッドの名前を不動のものにした『許されざる者』(1992)の、舞台を変えて制作された作品。オスカー作を日本映画としてリメイクするのは初めてとなる。 オリジナルであるイーストウッド版はオスカーまで受賞した名作ではあるのだが、それを観た当時私はどうにもピンと来なかった。作品全体を覆うイーストウッドのナルシズムが当時はどうにも馴染めず鼻についてしまったような部分があったのだ。ただ、時間経過と共に私の中では徐々に評価は上がってきていて、今は普通に良い作品だと思えている。実際、今自分の書いたレビューを見てみたが、今だったらこんなことは書かないだろうと思えるくらい(敢えて変えてない)。 そんな作品がリメイクされることになったのだが、どうせ物語は同じだからと言う事で劇場に行かずにいたのだが、むしろこれだったら劇場で観ても満足いったのでは?と言う出来に仕上がってた。実際相当良質な作品である。 勿論それは元の作品の質が高かったというのが一番の理由になるが、設定的に、実はオリジナル版よりもこちらの方がしっくり来るという所が重要である。 かつて『七人の侍』(1954)が『荒野の七人』(1960)にリメイクされた時は、どうにもやるせない気分にさせられたものだ。それは西部劇としての質は高かったものの、本来『七人の侍』が持っていた階級闘争的な部分がすっぽり抜け落ちていたということが重要で、農民が武士を雇うという設定の面白さが無くなってしまうと、魅力が一気に減ってしまう気分を感じていた。 そして改めてこの作品を観てみると、オリジナル版である『許されざる者』(1992)よりも時代背景や設定などがしっくりきてしまい、とても面白い作品に仕上げられていた。 何より本作の時代背景を明治に取ったのが素晴らしい。本作の設定からすれば、どの時代を取っても構わないかと思うのだが、敢えて明治。しかも蝦夷という地を選んだことによって、リアリティが格段に増した。 黒船来航から怒濤の経過を過ぎてあっという間に日本は近代化を果たすことになる。だが急速な近代化は社会的なひずみももたらすことになった。これまで幕藩体制の規則が徹底されていたのが、ほとんど革命によって秩序が瓦解してしまった状態である。政府がなすべき事は山積状態であり、細かいところまで手が回らない。当然藩から県に変わったところで、県としても何をして良いのか分からない状態なので、ひずみというのはどうしても起こってしまうものである。だからどんなに非人道的な事が行われていても、それが黙認されてしまう時代でもあったのだ。 本作はそのことをよく知った上で作られている。 江戸時代にも搾取の構図は取られていただろうし、女性が虐げられることも多かっただろう。それを扱った時代劇は山ほどある。だが、そこではリアリティは不必要だし、悲惨な人間を虐げる人間と、その配下をばっさばっさ斬り倒すシーンの方が重要視される。そして視聴者の方もそれが当たり前と思ってしまう。 ところが明治にその舞台を設置することによって、近代化の背景に、こう言うことがあったんだろう。と言うリアリティにもつながるため、非常に新鮮な思いにさせられる。主人公が倒す人間を最小限度にするのも、この時代性のリアリティにちゃんと適合している。 結果として、イーストウッドが作り上げた映画の設定よりも遥かにこちらの方が説得力を持つことになった。むしろこっちの方が面白いし、主人公の行動にも納得がいく。面白い逆転現象である。 そしてリメイクに当たり、今やアメリカ人にとって最もポピュラーな日本人である渡辺謙にするのは外せなかっただろう。本作は世界配信を前提としており、しかもそれにちゃんと担うだけの強度を持っている。何より日本という国を描く、とても優れた世界観を持った話となっている。 |
悪人 2010 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010日本アカデミー主演男優賞(妻夫木聡)、主演女優賞(深津絵里)、助演男優賞(柄本明、岡田将生)、助演女優賞(樹木希林、満島ひかり)、音楽賞、作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞、照明賞、美術賞、録音賞、編集賞 2010ブルーリボン主演男優賞(妻夫木聡) 2010キネマ旬報日本映画第1位、日本映画監督賞、日本映画脚本賞、助演男優賞(柄本明) 2010報知映画作品賞 2010ヨコハマ映画祭第3位 |
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長崎のさびれた漁村に生まれ育ち、年老いた祖父母の面倒を看るだけの孤独な清水祐一(妻夫木聡)。人とのつながりを求める祐一は携帯の出会い系サイトで知り合った福岡の保険外交員・石橋佳乃(満島ひかり)と交際中。だが佳乃にとって祐一は小遣い稼ぎの対象でしか無く、それが元でかっとした祐一は勢い余って佳乃を殺害してしまう。苦悩と恐怖を押し隠し、いつもと変わらぬ生活を送る祐一のもとに、一通のメールが届く。それは、かつて出会い系サイトを通じてメールのやり取りをしたことのある佐賀の女性・馬込光代(深津絵里)からのものだった。孤独に押しつぶされそうな毎日を送る光代と惹かれ合う祐一だが… お恥ずかしい話。本作を観に行ったきっかけは、単に“話題だから”というのに過ぎない。まあ李監督だったら外れはないだろうし、これだけ話題になっているのだから、観て損はあるまい。そんな気分だった。 で、観始めてから少々困った。この手の人間の情念渦巻くような話って、実は無茶苦茶苦手だったんだ。こんな物語だったら、わざわざ観に来るような必要は無かったような… …ところが、すいすいと観られてしまった。苦手なはずなのに何で? 少しその理由を考えてみたい。 2000年代に入り、邦画の質が上がり、コンテンツとしてもかなり客も入るようになってきた。今や国内の劇場では洋画よりも邦画の方が上映してるのが多いくらい。80年代から映画観始めた身としては、これは隔世の感がある。 この2000年代(以降ゼロ年代)の邦画というものを俯瞰してみると、“空気感”というものを大切にする作品が随分増えた感じがある。むしろ人との間の“距離感”と言った方が良いのかもしれないが、つかず離れず、近いようで遠いような微妙な人間関係が物語の最初から設定され、そこに波紋を投げかけることによって(多くは“死”という出来事を用いるが)物語を進行させ、新たな距離感を作り出す。そんな感じの作品が多く作られているように感じる。もっと言えば、“好き”と“嫌い”の間にある部分を大切にしている、と言えるのかも知れない。 でも、2010年になって、少々それとは異なる作品が作られてきはじめた気がする。空気感のある作品を無視するのではなく、一旦その“空気感”を作ってしまった上で、敢えてそれをぶち壊すような、そんな作品が出始めた。 例えば井筒和幸監督の『ヒーローショー』(2010)なんかは、まさしくそれで、もっと人間的で、より動物的に“生きる”と言う事を問い直そうとしていた作品のように思える。あれ観た時は“古くさい”と思ってたけど、改めて考えてみると、実はあれこそが本当は新しい作品だったのかも知れない。 人間を極限状態に放り込み、そこに与えられるより原始的なもの、理不尽な怒りを越えたところにある、より情動的な、“人を殺したい”とか“人を愛したい”とか、原初的な感情を揺り動かし、これらを剥き出しにした人間関係を改めて造り上げていく。たとえば本作の場合、空気感を作り出してるのは、殺された石橋佳乃であり、金持ちで学生生活を満喫してる増尾圭吾であったりするのだが、そんな二人の存在感を描いた上で、その命を奪ったり、あるいは暴力に巻き込んでみたり。そんな空気感を、傍らで我慢できずにいる人間というものを中心に描いているのが本作の特徴だろう。 “空気感”の中でエゴを出来るだけ軽く見ようという方向性から、今度は、“空気感”を破壊し、エゴを出していく。そんな方向へと向かいつつあるのかも知れない。 ゼロ年代とは、何となく日本は悪くなっていくだろう。と思い、ぼんやりした不安の中で穏やかな退行期を思わせる時代だったが、10年代に入ると、目に見えて日本が悪くなってきているので、より暴力的に、より感情的な時代への揺り返しが来始めてるのかもしれない。 そんな事を思わせる。 本作が一見80年代のドロドロした邦画のような体裁を取りつつも、全く異なる雰囲気で見せてくれるのは、そう言った“空気感”を大切にする時代を通り過ぎてきたからからであり、その空気感の中で監督を続けてきた李監督だからこそ出来た作品だろうと思う。 実際、わたし自身はそう言ったゼロ年代映画が嫌いじゃないのだが、本作を全く抵抗なしに見られたって事は、そこに理由があったのではないだろうか? |
フラガール 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006日本アカデミー作品賞、主演女優賞(蒼井優)、助演女優賞(富司純子) 2006ブルーリボン作品賞、主演女優賞(蒼井優)、助演女優賞(富司純子) 2006日本映画批評家大賞助演女優賞(フラガールズ) 2006キネマ旬報日本映画第1位 2006毎日映画コンクール日本映画優秀賞、女優助演賞(蒼井優)、美術賞、録音賞 2006報知映画作品賞、助演女優賞(蒼井優) 2006ヨコハマ映画祭主演女優賞(蒼井優)、第2位 2007allcinemaONLINEユーザー投票第9位 |
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1965年福島県いわき市。ここはかつて“黒いダイヤ”とまで言われた石炭採掘でにぎわっていた町だったが、社会が石油エネルギー中心になっていくにつれ、炭坑の閉山が相次いでいた。そこで起死回生のプロジェクトとして、温泉を利用したレジャー施設“常磐ハワイアンセンター”が計画された。そして、目玉となるフラダンスショーのダンサー募集が地元の少女たちに対して行われる。炭坑から一生抜け出せない運命に逆らおうと考えた早苗は幼なじみの紀美子を誘って説明会へと向かう。ところが説明会で流れたフィルムに映ったセクシーな衣装で踊る姿に大半の応募者が逃げ出してしまう。残った紀美子と早苗、そして初子と小百合の4人だけで始めることになり、東京から先生としてプロのフラダンサー平山まどかを招くのだが、まどかにほとんどやる気がなく、しかも教える相手が素人と分かり、完全にやる気を失ってしまう… 常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアン)の誕生話を描いた作品で2006年日本アカデミー受賞作。 常磐ハワイアンセンターといえば、同じ郷里出身の私にはかなり馴染み深いのだが(実際は一度も行ったことはないけど(笑)、子供の頃は散々TVのCMで観たものだからねえ。「日本のハワイ」っていうキャッチフレーズとラストのフラダンスのタンタンタンツタンタンタタンタン…と言う音楽は毎日のように聴こえたもの)、その内実がこんなに切実なものだったとはまるで知らなかった。我が故郷にある施設の理解が深まったと言うことでも勉強になった。方言も結構耳馴染みが良い(同じ福島でも地域が違うので分からない部分も多々あるが)。 物語そのものは事実を元にしているとは言え、なるだけプラスの部分だけを抽出した結果、ウェルメイドのサクセスストーリーとして仕上げられているのが特徴。目新しさはさほど無いにせよ、その分安心して物語に浸っていられるし、何より演出が良く、フラダンスに対する批判的な目線に耐えての練習、やむにやまれぬ涙の別れなどを経て、最後のハワイアンセンター設立に向かっての疾走感、フラダンスシーンのカタルシスなど手堅くまとめられていて、大変心地よし。重い部分も多々あるが、悲惨になりすぎないようにうまくコントロールできてるのがバランスの良さだろう。 2006年は観客動員数が久々に邦画が洋画を超えるなど、邦画には朗報が多かったが、本作が日本アカデミー賞を受賞したことも2006年における邦画界のトピックとなった。日本アカデミー賞はその名の通り、アメリカのアカデミー賞に準じるものとして日本で作られた賞だが、日本映画界の層の薄さを如実に示すものとしても知られる。かつて日本には5つの大製作会社があり、悪名高い五社協定などと言う弊害を生んできたが、時代が変わっても大会社中心体制はあまり変わってない。今も尚、東宝、東映、松竹のほぼ三社で日本アカデミーは独占されていた。 対して本作はシネカノンという、いわば中小製作会社による製作で、上映館数も少なく、ほぼミニシアターのみで上映された作品であった。それが日本アカデミーの作品賞を取ったと言うことは、一種の快挙であり、日本の映画界も良い意味で変わってきていることを思わせてくれた。 |
スクラップ・ヘブン 2005 | |||||||||||||||||||||||
2005ヨコハマ映画祭主演男優賞(オダギリジョー) | |||||||||||||||||||||||
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69 sixty nine 2004 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2004報知映画主演男優賞(妻夫木聡) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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助監督に武正晴。 |