1899'8'13 |
レインストーンで誕生 |
1913 |
13歳で聖イグナチウス・カレッジを修了 |
1914 |
通信ケーブル会社に就職する |
1915 |
仕事をしながらロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強する |
1917 |
王立工兵連隊(英語版)の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加する |
1919 |
ラスキーの字幕デザイナーとして映画業界入り |
1921'4 |
ラスキーの正社員となる |
1922 |
自主製作で初監督作に挑むも資金が切れて挫折する。 |
1923 |
マイケル・バルコンの独立プロダクションで助監督となる。 |
1924 |
バルコンがイズリントンのスタジオを買収してゲインズボロー・ピクチャーを設立する |
1925 |
ドイツのEmelkaとの共同製作で『快楽の園』で監督デビューする。 |
1926'12'2 |
記録係だったアルマ・レヴィルと結婚する。 |
1927 |
ゲインズボロー・ピクチャーを辞め、BIPに入社する |
1930 |
ヒッチコックの広報活動を担う会社「ヒッチコック・ベイカー・プロダクションズ」を設立 |
1933 |
ロンドン・フィルムと短期契約を結ぶ |
1934 |
『暗殺者の家』が大ヒットし、イギリス映画の第一人者と言われる |
1935 |
『三十九夜』が大ヒット。アメリカでもヒットする |
1937 |
ゴーモンの製作部門が閉鎖され、BIPで『第3逃亡者』を監督する |
1939 |
デヴィッド・O・セルズニックと契約を結んで渡米し、『レベッカ』を監督する。以降アメリカで製作を続ける |
1940 |
セルズニックから派遣され、ウォルター・ウェンジャー・プロで『海外特派員』を監督する。 |
カリフォルニア州スコッツバレー近く別荘「コーンウォール牧場」を購入 |
1941 |
『断崖』でフォンティンがオスカーを得る。 |
1942 |
セルズニックからユニヴァーサル・ピクチャーズに出向させられ『逃走迷路』を監督する |
セルズニックから20世紀フォックスに出向させられ『救命艇』を監督する |
1943'12 |
戦争努力に貢献する必要性を感じてイギリスに帰国し、短編プロパガンダ映画を撮影するが採用されず |
1944 |
バースタイン製作のナチス・ドイツの強制収容所に関するドキュメンタリー『German Concentration Camps Factual Survey』にアドバイザーとして参加した |
セルズニックのスタジオで、戦時国債販売促進のためプロパガンダ映画『The Fighting Generation』を撮影 |
1947 |
『パラダイン夫人の恋』をもってセルズニックとの契約を打ち切る |
1948 |
バーンスタインと共に独立系製作会社トランス・アトランティック・ピクチャーを立ち上げ、『ロープ』を監督・製作する |
1949 |
ワーナー・ブラザーズと自らがプロデューサーとして題材や配役などを自由に選べるという条件で契約する |
1953 |
パラマウント・ピクチャーズと契約し、製作・監督した作品の利益に対する歩と最終的な所有権を得る |
1954 |
『裏窓』でアカデミー監督賞にノミネートされる |
1955'4'20 |
アメリカ市民権を取得する |
1955 |
ワッサーマンから自身のテレビシリーズを依頼され、CBSで30分のテレビシリーズ『ヒッチコック劇場』を製作開始
テレビ用製作会社シャムリー・プロダクションを設立し、シリーズを自らのコントロールで行う
合計18エピソードを自ら監督する |
1956 |
HSD出版社から犯罪と探偵小説専門の月刊雑誌「アルフレッド・ヒッチコック・ミステリー・マガジン」刊行 |
1963 |
愛犬の名前にちなんで名付けた新しい製作会社ジェフリー・スタンリー・プロダクションを設立 |
1968 |
映画芸術科学アカデミーからアービング・G・タルバーグ賞を受賞 |
1979 |
大英帝国勲章を授与される |
アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)から生涯功労賞を受賞 |
引退を決めユニバーサル・ピクチャーズのスタジオ内にある自分のオフィスを閉鎖した |
1980 |
大英帝国勲章のナイト・コマンダー(KBE)の勲位を授与された |
1980'4'29 |
死去 |