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トニー・スコットの兄 | ||||||||||
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リドリー・スコット―期待の映像作家シリーズ _(書籍) |
2016 | ||
2015 | ||
オデッセイ 監督 | ||
2014 | エクソダス:神と王 監督・製作 | |
ヘイロー:ナイトフォール<TV> 製作総指揮 | ||
クロンダイク・ゴールドラッシュ<TV> 製作総指揮 | ||
グッド・ワイフ 彼女の評決(6th)<TV> 製作総指揮 | ||
2013 | 悪の法則 監督・製作 | |
リンカーンを殺した男 製作総指揮 | ||
SPRINGSTEEN & I 製作総指揮 | ||
イノセント・ガーデン 製作 | ||
ビトレイヤー 製作総指揮 | ||
グッド・ワイフ 彼女の評決(5th)<TV> 製作総指揮 | ||
2012 | プロメテウス 監督・製作 | |
昏睡病棟-COMA- 製作総指揮 | ||
JAPAN IN A DAY [ジャパン イン ア デイ] 製作総指揮 | ||
THE GREY 凍える太陽 製作 | ||
グッド・ワイフ 彼女の評決(4th)<TV> 製作総指揮 | ||
2011 | LIFE IN A DAY 地球上のある一日の物語 製作総指揮 | |
グッド・ワイフ 彼女の評決(3rd)<TV> 製作総指揮 | ||
2010 | ロビン・フッド 監督・製作 | |
特攻野郎Aチーム THE MOVIE 製作 | ||
ダークエイジ・ロマン 大聖堂<TV> 製作総指揮 | ||
グッド・ワイフ 彼女の評決(2nd)<TV> 製作総指揮 | ||
2009 | 汚れなき情事 製作総指揮 | |
チャーチル 第二次大戦の嵐 製作総指揮 | ||
グッド・ワイフ 彼女の評決(1st)<TV> 製作総指揮 | ||
NUMBERS 〜天才数学者の事件ファイル(6th)<TV> 製作総指揮 | ||
2008 | ワールド・オブ・ライズ 監督 | |
アンドロメダ・ストレイン 製作総指揮 | ||
NUMBERS 〜天才数学者の事件ファイル(5th)<TV> 製作総指揮 | ||
2007 | アメリカン・ギャングスター 監督 | |
ジェシー・ジェームズの暗殺 製作 | ||
NUMBERS 〜天才数学者の事件ファイル(4th)<TV> 製作総指揮 | ||
2006 | プロヴァンスの贈りもの 監督・製作 | |
トリスタンとイゾルテ 製作総指揮 | ||
NUMBERS 〜天才数学者の事件ファイル(3rd)<TV> 製作総指揮 | ||
2005 | それでも生きる子供たちへ 監督 | |
キングダム・オブ・ヘブン 監督・製作 | ||
ドミノ 製作 | ||
イン・ハー・シューズ 製作 | ||
NUMBERS 〜天才数学者の事件ファイル(1st、2nd)<TV> 製作総指揮 | ||
2004 | ||
2003 | マッチスティック・メン 監督・製作 | |
2002 | チャーチル/大英帝国の嵐 製作総指揮 | |
2001 | ブラックホーク・ダウン 監督 | |
ハンニバル 監督 | ||
2000 | グラディエーター 監督 | |
ラスト・デシジョン 製作総指揮 | ||
ゲット・ア・チャンス! 製作 | ||
1999 | ザ・ハンガー(2nd)<TV> 製作総指揮 | |
1998 | ムーンライト・ドライブ 製作 | |
1997 | G.I.ジェーン 監督・製作 | |
ザ・ハンガー(1st)<TV> 製作総指揮 | ||
1996 | 白い嵐 監督・製作総指揮 | |
1995 | ||
1994 | 明日にむかって… 製作 | |
1993 | ゆかいな天使(ペット)/トラブるモンキー 製作総指揮 | |
1992 | 1492・コロンブス 監督・製作 | |
1991 | テルマ&ルイーズ 監督・製作 | |
キング・オブ・アド 監督 | ||
1990 | ||
1989 | ブラック・レイン 監督 | |
1988 | ||
1987 | 誰かに見られてる 監督・製作 | |
1986 | ||
1985 | レジェンド 光と闇の伝説 監督 | |
1984 | ||
1983 | ||
1982 | ブレードランナー 監督 | |
1979 | エイリアン 監督 | |
1978 | ||
1977 | デュエリスト 決闘者 監督 | |
1976 | ||
1975 | ||
1974 | ||
1973 | ||
1972 | ||
1971 | ||
1970 | ||
1969 | ||
1968 | ||
1967 | ||
1966 | ||
1965 | ストレンジ・ワールド「少年と自転車」 監督 | |
1964 | ||
1963 | ||
1962 | ||
1961 | ||
1960 | ||
1959 | ||
1958 | ||
1957 | ||
1956 | ||
1955 | ||
1954 | ||
1953 | ||
1952 | ||
1951 | ||
1950 | ||
1949 | ||
1948 | ||
1947 | ||
1946 | ||
1945 | ||
1944 | ||
1943 | ||
1942 | ||
1941 | ||
1940 | ||
1939 | ||
1938 | ||
1937 | 11'30 サウスシールズで誕生 |
オデッセイ 2015 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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火星探査船アレス3による火星探査が行われていたが、折からの大嵐で乗務員のマーク・ワトニー(デイモン)は行方不明となってしまう。船長のメリッサ・ルイス(チャスティン)は、マークが死んだものと判断し、船を緊急発進させる。だが怪我を負いつつもマークは生き残っていた。火星に残されてしまったマークは、なんとか生き残るための食料の生産を始めとするサバイバル生活を開始する。一方、地球では、火星から送られてくる画像に違和感を感じ、火星に人が生きていることを知る… アンディ・ウィアーの小説「火星の人」の映画化作。一人の宇宙飛行士の生き残りをかけた、宇宙への挑戦が描かれていく。 本作は“SFサバイバル”と呼ばれる。“サバイバル”という言葉を見ると、なんとなくモンスターと人間の戦いというイメージがあるが、実際は“文明社会から離れた場所での生き残り”という意味だから、本来的な意味での“SFサバイバル”という言葉は本作にこそ与えられるべきだろう。 本作はたった一人の人間を生かすため、そして地球に帰らせるための惜しげない努力が描かれる事になり、傾向としては実話を元にした『アポロ13』(1995)に近い話になっている。勿論大きな違いがあり、『アポロ13』は数日という限られた期間のドラマだったのに対し、本作は数年という単位で物語が展開する。この違いは、単純に無事地球に送り届けるだけでなく、火星という場所で生き残らねばならないという部分に強調点が置かれること。だからこそ本作は現時点での唯一の本物の“SFサバイバル”となっている。 そして、その“ただ生き残る”ための努力がたまらなく面白い。生きるために何が必要なのかを計算で割り出し、そのために出来る努力を一つ一つ積み上げていく過程がなんだかとても観ていて元気づけられるというか、とても楽しく感じる。それが火星と地球の二つで同時進行で起こり、時に交差し、時にすれ違いながら、一つの目的に向かって徐々に完成されていく。それだけで充分ドラマになっているのがとても楽しい。 そして何より本作で良いのは、基本的に全員が一つの目的に向かって邁進していると言う事だろう。ハリウッドでの大作、特にSFになると、大概誰か陰謀を張り巡らせる人間が出てきて、人災によって計画が破綻しかけたり、余計なアクションシーンを入れたりするものだが、それを外し、あくまで一つのミッションを心を合わせて行う。それで充分ドラマ性を高めることが出来る。そんな地道な努力こそが本作の最大の見所なのだ。 |
エクソダス:神と王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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紀元前14世紀。エジプト王家の養子として育ったモーセ(ベイル)は、兄弟として育ったエジプト王子ラムセス(エドガートン)を助け、異民族との戦いに連戦していた。だが、予言により、民の指導者となるのはモーセであるとお告げがあり、その直後、実は自分の出自は奴隷であるヘブライ人であることが分かってしまう。父王の死により王位に就いたラムセスから追放を命じられたモーセは、遠く離れた中東の地で連れ合いと子どもをもうけ、羊飼いとして生きることに喜びを覚えるようになるのだが… 旧約聖書「出エジプト記」の前半部分を題に取った歴史スペクタクル作品。かつて『グラディエーター』や『キングダム・オブ・ヘブン』という人物主体のスペクタクル歴史物を撮ったスコット監督が、今度は聖書の物語に挑む。 「出エジプト記」はこれまでにもハリウッドでは結構作られていて、最も有名なのは『十誡』および『十戒』(1956)になるだろう。近年にあっても『プリンス・オブ・エジプト』というアニメーション作品も作られている。その中でも『十戒』はハリウッド製シネラマ作品として大々的に作られた超大作で、今観てもその迫力はたいしたもので、まさにハリウッドの代表作の一本と言っても良い。 まるでそれに対向するかのように作られた本作だが、出来としてはどうだろうか? 大変申し訳無いが、まず本作はコンセプトの時点で既に失敗していたような気がする。 本作の物語は、基本的に聖書の物語に沿って描かれており、それは良いんだが、それを徹底して人間視点で描こうとしているところに最大の特徴がある。いわば聖書物語を信仰ではなく、あくまで物語として作ろうとしているわけだ。 あくまで映画はリベラルなものであり、「こう作らねばならない」という束縛から脱して自由に映画をつくろうというその試みはある意味では正しいとは思う。だけど、それをストレートに作って受け入れられるのは、半世紀前の感性なんだよ。すでにひと回りしているのだから、もうちょっと違った切り口で語っても良かったと思うし、そこからプラスαが欲しかった。それがどんな方向になるとしても、もう一歩踏み込まなければ、魅力的にはなりえない。 本当に踏み込んでしまってどうしようもない物語に仕上がった『ノア 約束の舟』(2014)という前例もあるものの、その覚悟が中途半端なため、どっちつかずの薄味物語になってしまったのが残念なところだ。 あと、ベイルがこの役には合ってない。別段中東出身の役者にやらせよというつもりはないけど、エジプト王宮で王子の兄弟として育ってる人物が、なんで最初から髭面なんだ?全身ツルツルに剃った姿で登場し、中盤からどんどん小汚くなっていく姿にした方がリアリティあったんじゃないかな? …これについてツッコミ入れると果てしなくなりそうなので、この位で終える。 |
悪の法則 2013 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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有能な弁護士“カウンセラー”(ファスベンダー)は恋人のローラ(クルス)のために高額なダイヤの指輪を購入した。実はこれは彼がクライアントの一人ライナー(バルデム)と組んでメキシコから麻薬を輸入する手はずを整えたことによって得た報酬だった。その取引のため、彼は仲買人のウェストリー(ピット)と接触を図る。だが、そんなやりとりをライナーの恋人マルキナ(ディアス)が盗聴していた… これまで様々なジャンルに手を出し、そのほとんどが高水準にまとまるという奇跡的な映画作りを続けるリドリー・スコットが久々のSF大作『プロメテウス』に続いて手がけたのは、豪華な配役で作られたサスペンス作品だった。これまでもスコット監督は『ハンニバル』や『マッチスティック・メン』などのサスペンス作品は作ってきているが、今回作ったのは、既存のサスペンス映画の範疇には収まらないようなものだった。 脚本に起用したコーマック・マッカーシーは『ノーカントリー』(2007)の原作者だが、あの作品同様、出来る限り説明を排除し、ほとんどキャラの会話と行動だけで物語を組み立てている。いや、『ノーカントリー』の方はまだ逃走劇という側面があったため、分かりやすかったが、今回は敢えてそれらをも排除した、極めて分かりづらい挑戦作となってる。 下手すれば観ている方が置いてけぼりにされてしまい、一体何を描こうとしているのか全く分からなくなってしまうというリスクがあって、これが一般的に受け入れられるかどうか、かなり微妙なところではないかと思われる(実際この作品は大幅な赤字となったそうだ)。 でもどうなんだろう?説明不足は確かかも知れないが、物語そのものは分かりやすいものだぞ。 ストーリーはこれ以上ないほどにシンプルだ。“ワル”な弁護士とおだてられた主人公が、そのハクを付けるためと、恋人に良い思いをさせてやりたいという単純な理由で麻薬取引のお膳立てをしたら、その麻薬がかすめ取られてしまって、結局周囲の人たちを全部破滅させてしまった。実にそれだけの物語だ。 言うなれば、「軽い気持ちで犯罪を犯すとこんな悲惨な目に遭いますよ」という物語で、日本の公共広告機構のコマーシャルでやっても不思議じゃない。それこそ物語のフローだけだったら3分ほどあれば全部押し込める。 これほどシンプルだからこそ、敢えて挑戦として物語の説明を一切排除してみせたのだろう。それどころか、画面そのものにも説得力を持たせる説明的な要素を出来るだけ排除してる。 本作を評価する要素の一つとして、その挑戦の姿勢がある。スコットはまだまだ意欲的に挑戦作を作り続けるという宣言でもあった訳だが、実はこの手法、やれる人って本当に少ない。英語圏監督だったらエンターテインメントから一歩引いた時のソダーバーグとか、ポール・トーマス・アンダーソンとか、後は北欧系かフランス映画くらい。今の日本では皆無だ。 ここまで不親切な映画もなかなか無いのだが、だからこそ映画の中に登場する会話がとても面白い。けっしてそのものズバリを言うわけではなく、婉曲な表現を使いながら麻薬移送について、それから出る上がりの使い方についてなどもあるが、普通の会話の中に時折ドキリとするような表現が入ってくるのが良い。それが殺しの方法であったり、スナッフビデオの事だったり、あるいはカルテルからの報復についてだったりするが、実際にその行為を見せられる以前から、会話だけでその光景が“見えて”しまい、それだけで結構気持ち悪くなってきたりもする。そしてそれらの伏線がちゃんと全部回収もされている。 これは監督のフィルモグラフィにおいてはかなり異質。そもそもスコットと言えば、映像表現力が突出した監督として知られていた。『エイリアン』のスペースジョッキーやチェストバスターが生まれるシーンやら、『ブレードランナー』の近未来の街描写、『ブラック・レイン』に至っては、普通の町並みを魔界のように描いてもみせた。近年になって物語やキャラを深める方にその労力を使っているようでもあるが、元々は視覚表現の人だ。 ところがこの作品にあっては、その視覚表現部分を殊更に抑えた。むしろ凡庸にさえ見える。前述した、聞いているだけで気持ち悪くなるような話題も、画面に実際に現れると「こんなものか」と思えてしまう位になってる。 これは、キャラクターの存在感と会話に集中させるためであり、それがこの作品を特殊なものにしている大きな点でもある。これまで自分が培ってきたキャリアを捨て去り、全くこれまでやってこなかったところを集中して描く。もう監督は70歳を超えてるのに、こんな挑戦をやるって事だけでとんでもないことだと思う。 そしてその通り、役者も見事にそれに答えた。ほとんど会話だけなのに、一人一人のキャラ立てがはっきりと位置づけられ、その性格まで全て会話の中で把握出来るように出来ている。強いて言えば、あまりに伏線の付け方があからさますぎるために嫌味とさえ感じさせられるというネックもあるけど。 |
プロメテウス 2012 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2012米アカデミー視覚効果賞 2012英アカデミー視覚効果賞 2012放送映画批評家協会SF/ホラー映画賞 |
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2089年。考古学者のエリザベス・ショウ(ラパス)とチャーリー・ホノウェイ(マーシャル=グリーン)はアイルランドで未発掘の古代遺跡を発見した。そしてそこに描かれている星の模様が、世界各地で見つかった移籍と同じものが書かれていることに気付く。そして4年後。エリザベスとチャーリーはウェイランド・コーポレーションの保有する宇宙船で、その星図が示す宙域に向かっていた。アンドロイドのデヴィッド(ファスベンダー)が見守る中、宇宙船プロメテウス号は衛星LV-223に着陸したが… スコット監督による『エイリアン』は映画史においても特別な作品である。その完成度の高さから一本では終わることなく、次々に続編が作られ、しかもこれを監督した人は必ずメジャーになると言うジンクスまで作った(実際『エイリアン2』(1986)のキャメロン、『エイリアン3』(1992)のフィンチャー、『エイリアン4』(1997)のジュネと、全員世界的な監督になっている)、SFホラーはどこかで必ず本作の影響を受けていることもあり、様々な意味で映画史に残る名作となった(ついでに言うなら、本来「異邦人」という意味の「エイリアン」という呼称が、あの男性器のような顔でしか認識されなくなったのも含めて)。 そしてその第一作目ですべての始まりとなった『エイリアン』のスコット監督が再びメガフォン取った、同じ時間軸で語られるもう一つの『エイリアン』。 今年の夏は期待作揃いで、どれもわくわくするものばかりだったが、その中でもものすごく期待していた作品でもあった。 なんせトレーラーがわくわくさせる。『エイリアン』冒頭で登場したスペースジョッキーの機械が動くシーン、『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009)で期待の新人となったノオミ・ラパスとシャーリーズ・セロンの激突。さてエイリアンは出るのか?というわくわく感。公開してすぐさま観に行ってきた。 で、どうだったか。 これを「悪い」と一言で断じるのは避けておきたいのだが、期待をしてた分、がっかりしたというのが正直な話。 予告にあった「人類の起源」なんてもんは正直どうでも良いが(しかしあのオチはひどい。「招待状」を手に、苦労してやってきたら「俺知らね」でみんな殺されるって、ギャグか悪い冗談にしか見えない)、『エイリアン』につながる話だろうと思っていたのに、つながってないと言うことが分かってしまったから。 いや、無理矢理だったらつなげることは可能でもある。確かにスペースジョッキーは出てくるし、彼らがエイリアンを兵器として使用しようとしていたとか言う部分は確かにつながる。更にあの顔がヘルメットで、中身は完全に人類と同じってのも新しい解釈だ。 でもあのコックピットに収まって、腹に大穴が開いたスペースジョッキーの姿は無かったし、触手モンスターからエイリアンが生まれたのは、話につながらないのでは? 少なくともこれを『エイリアン』の前日譚として見るには難しい。もしこれをその位置づけに置くならば、脚本がミスしすぎだ。 それと、妙に物語が『エイリアン』とかぶる部分が多いのも気になる。主人公が女性であり、最初は「その他全員」の一人だったのに、ストーリーが進むに連れてどんどん存在感があがっていき、最終的に一人でモンスターと渡り合うところとか、仲間だとばかり思っていたアンドロイドが、実は全く違う指令を受けていて、乗組員を危機に陥らせるとか… しかし、なにも本作を『エイリアン』の前史とは見なければ問題はない。これは同じ世界での違う話と考えてしまえばいいのだ。 実際そう考えてみると腑に落ちることも多い。『エイリアン』をエイリアンとのファーストコンタクトと考えず、あれはイレギュラーなコンタクトで、実際はスペースジョッキーとのコンタクトが計られるはずだったと考えればいい。不慮の事故(?)により偶然に、主のいない生体兵器とのコンタクトになってしまったが、本来『エイリアン』だって、エイリアンの主人と出会うことが目的だったと考えるならば、本作は、本来の『エイリアン』をスコット自らがセルフリメイクしたのだと思えばいい。 そう考えると、オリジナル版『エイリアン』との脚本の類似点も納得がいく。スコット監督がここで作りたかったのは、“本来こうであるべきだった”『エイリアン』の物語なのだから。 キャラに関しては概ね満足。ラパスはアクション女優として大成しそうな演技力で、そのまま『バイオハザード』(2001)に出ても良いくらい。ジョヴォヴィッチの後継者としてこれからがんばって欲しいし、『スノーホワイト』(2012)に続いて出演のセロンは悪役が板に付いてきた。これだけ幅もった演技ができるなら、これからの映画界を背負って長く続けられそうだ。でも一番はファスベンダーだろうな。超絶の二枚目なのだが、どこか悪人面したこの人、これまで一番のはまり役は『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011)のマグニートーだと思ってたけど、それ以上のはまり役を手に入れた感じ。 色々不満もあるが、概ねはこの作りでよかったんだろう。 それと、本作は続編ありで作られた作品なので、むしろこれ単体で評価するのではなく、後はここまで色々あった伏線の未消化が、続編できちんと収まるべきところに収まってくれることを今は期待したい。 …あと、一つだけこれだけは言っておかねばならない。 もし「妊婦に観せてはいけない映画」のベスト10があっったら、確実にランクインする作品でもある。よって、女性にはあんまりお勧めしたくない。実はこれ嫁と観に行く予定だったが、「いや」というので一人で観て、「正解だった」と胸をなで下ろした経緯あり。 |
ロビン・フッド 2010 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2010タランティーノベスト第18位 2011サターンアクション/アドベンチャー作品賞、衣装賞 |
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12世紀末。十字軍遠征で疲弊したイングランドの獅子心王リチャード1世は帰還の途にあった。敵対するフランス領内の城を次々と落としていく軍の中核には弓の名手、ロビン・ロングストライド(クロウ)がいた。だが、攻城戦でリチャード王が落命した事を知ったロビンは弓兵の仲間達と共に故郷に向け逃亡する。そんな時リチャード王の王冠を持ち帰る使命を帯びた騎士ロバート・ロクスリーが闇討ちされる現場に遭遇してしまい、瀕死のロバートから剣をノッティンガム領主である父ウォルターに届けて欲しいと頼まれてしまう。しばらくの間と思い、ロクスリー卿のふりをしてイングランドに戻ったロビンだったが… 歴史を扱った映画が好きだ。いや、歴史を観るために映画を観ていると言っても良いくらい。間違いなくわたしの映画観のモチベーションには歴史がある。 だけど、本作を観て、その観方も変化してきたことを感じてしまった。 かつてわたしにとって映画で描かれる歴史は、どれだけリアルか?と言う一点に尽きた。この場合のリアルというのは、どれだけ史実に近いか、時代考証がしっかりしているか。と言うところにあって、内容そのものよりもそちらの方に目が行っていた。 そんな偏見に満ちていた時分に観たのがスコット監督のオスカー作『グラディエーター』だった。あの時は相当に無茶苦茶書いた記憶がある(…と言うか、このページのちょっと下にあるんだが)。 あれからもう10年が経過して、わたしの映画の観方も結構変化した。相変わらず歴史映画は大好きだが、むしろ今歴史映画に求めていることは、“どんだけはったりかまして、力業でリアルに魅せるか”と言う所にきている事が分かった。 そもそも歴史なんてものはいくらリアルに作ろうとも、実際に現場を見てる人がいない以上、絶対偽物なのだ。歴史作品はドキュメンタリーとは違うのだから当然嘘が入るし、更に物語を面白くするためには物語を創造して入れてやらねばならない。そこら辺は完全に嘘っぱちになる。 そう言った嘘をリアルに見せる力量が監督には求められるのだ。こう言うことが出来る人は昔の監督には何人もいたものだが、現代では少なくなった(わたしのような人間にツッコミ入れられるし)。その第一人者と言えば、スコット監督だろう。 この人の作る歴史物は大作感溢れるものだが、それを可能にしているのは、巨費の投じ方ではなく、必要な部分に必要なものを投入し、更に古典的な歴史大作作品の良い部分をきちんと投入している部分にある。 それなりに実力のある俳優を男女用意して、その恋物語を物語と多少デフォルメして絡めて展開し、見せ場にはふんだんに人間を投入する。 そう言った生の人間に任せるところをきちんと踏襲した上で、必要とあらば最新技術を使い、なるだけ金をかけないようにして作ってる。 更に割とコミカルな要素も要所要所に取り入れることで、ダレ場も丁寧に作ってくれるので、映画単体として本当に上手く作ってある。よく勉強してるよ。 それと、これも大切なのだが、歴史を下から観る視点をきちんと保持してるのも上手い。ロビン・フッドという存在はまさしく大衆の英雄なので、それが上手くできる存在ではあるが、彼の周囲で政治家達が虚言を繰り広げ、結局どうあっても庶民が苦しめられるだけ。と言う視点を中心に据えている。最近の作品ってこの視点が見えないことが多いので、なんかこう言うのを見せられるとほっとした気分になる。やっぱり映画は反抗のものであって欲しいと言うのがわたしの望みだし。 歴史の改変の仕方が小憎らしいところで、ちゃんと嘘をリアルに見せてくれて、それも楽しさにつながってる。今回歴史的な嘘つき部分は、ロビン・フッドにロングストライドという名字を与えたこと、年代をずらすことによってロビンをリチャード1世軍に従軍したことにしたこと、それとフリーメイソンの教義をさりげなく取り入れたことだろうか。これによって自由というものを求める庶民からの視点を本当に上手く取り入れてる。これは脚本の巧さだろうけど、それをきちんと映像化出来る監督の力量あってのことだ。 そんな意味で本作は監督の力量を存分に発揮できた作品と言っても良いだろう。 観終えた瞬間、是非続編を作って欲しくなった。多分やらないだろうけど(理由としては、前述のようにリチャード1世が死んでると言うことと、ロビンが戦うはずの悪代官がこの作品では殺されてるから)。 細かいところなので狙ったのかどうか微妙なところだが、最後のドーバー海峡を挟んでのフランスとイングランドの会戦シーンは『エリザベス ゴールデン・エイジ』(2007)と同じ構図を取ったのは笑えた。なんせブランシェットに同じ場所で同じような登場の仕方をさせてるもんな(3年後に300年前の歴史を再現したってのも面白い)。狙ったとしたら面白い。 |
ワールド・オブ・ライズ 2008 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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イラク戦争以来中東で諜報活動を継続中のCIA職員ロジャー・フェリクス(ディカプリオ)は、上司のエド・ホフマン(クロウ)から、ヨーロッパで頻発する連続自爆テロを指令するアル・サリームの居所を探るよう指令される。イラクで接触した情報提供者を簡単に見殺しにするホフマンのやり方に憤懣を抱きつつ、次の任務先ヨルダンへと向かう。そこで出会った看護士のアイシャ(ファラハニ)と、束の間の恋愛劇を楽しむロジャー。だが、ロジャー自身の情報がアル・サリーム側へと流れており… 2001年の『ブラックホーク・ダウン』以来久々にスコット監督が現代史を題材に取った作品で、ディカプリオとクロウの二大スター共演でも話題になった。 さて、本作を称するにどう言えばいいか。 本作はフィクションではあるし、緊迫した物語展開と言い、アクションと言い、単純に言えば、高水準にまとまった作品ではあるのだが、これを単なる「フィクション」とは言い切れないリアリティがある。 仮に本作が10年前に、有り体に言ってしまえば911の連続爆破事件以前に作られていたならば、本作は良くできたフィクションで終わっただろうし、諜報活動のハイテク装備などで、むしろSFとして観ることも出来ただろう。ただし、とびきりのディストピアものとして。いくらつぶしても次々に現れるテロリストと、世界のどこでも起こる自爆テロ。世界中どんな場所にいても決して安心することが出来ない世界。本気で嫌な未来世界。だから、2001年以前に作られていたら、後味が悪い良くできたディストピア作品。という評価で終わっただろう。 それならそれで幸せだった。 しかし問題は、イラク戦争を経て、この世界は現実のものになってしまったということ。今この作品を突きつけられると、既に自分たちは、昔「こうはしたくなかった」世界にいるという事実を突きつけられた気分にされてしまう。前の『ブラックホーク・ダウン』の時は対岸の火事だったのに、本作の場合、日本にいてでさえ、この世界は今私が観ている世界である。と思わされてしまうリアリティがある。 だから、はっきり言って本作はとても気持ちが悪い。わたしは今こんな世界に住んでるのか。と、SFではなく現実としてこれを観てしまう。劇中でも全く関係のないオランダが自爆テロの現場に選ばれたように(実は2004'3'11にスペインのマドリードで実際に起こってる)、実際今の日本でも、単なる示威活動のためだけにテロが起こっても不思議はないんじゃないか?とさえ思えてきた。 しかも、科学が進めば予防が出来るか。という事を本作では真っ向から否定する。911テロが世界に与えた衝撃は、まさにその点であった。本気で死ぬ気さえあれば、どんなハイテクの防衛機構があってもすり抜けてテロは可能なのだし、とても原始的な方法で監視をすり抜ける方法も提示される。安全は科学では得る事が出来ない。その現実の世界に我々は今生きているわけだ。 色々考えすぎたお陰で正直観終えて暗澹たる気分になった。 閑話休題。 さて、それでは物語として本作を追ってみよう。先に書いたように、本作は911以前である今から10年前に作られていたならば「良くできた作品」で終わるくらいの作品で、物語の展開自体はさほど目新しいところはない。色気がないからという理由で入れたロマンスも、ちょっと取って付けた感じになってしまった(こうでもしないと売れないからね)。それだけに演出部分とキャラの立ち具合が重要になるのだが、それに関しては充分。 演出に関してはスコットの上手さは群を抜いているので言うまでも無し。特に街の描写は益々冴え渡ってる。あれだけの群衆を使って、見せるべき部分をきちっと見せられる実力持った監督はそうはいない。 体当たりで汚れ役を演じるようになって最近のディカプリオは本当に上手くなったし、これまた嫌らしい目つきでクロウが好演。この人の役どころとして、どんな人間にも対等に扱うことがないので、常に視点は下か上だけに向いてる。唯一最後にディカプリオ演じるロジャーを自分のオフィスに迎えようとする時だけ視点が正面を向くというのは、流石に貫禄とも言える。 ただ、この二人がどれだけ好演しても、ストロング演じるハニには全く敵わなかったってのが面白い。全然知らなかった人なんだが、こんな存在感ある役者がいたんだね。この人のキャラ立ちっぷりは本当にたいしたもので、一見紳士的、しかし底が知れず、自分を裏切った人間に対しては情け容赦なく試練を与える…やくざの親分みたいな存在だな。国家を後ろ盾にする分、更に質が悪い。こういう人って本当に格好良いよなあ。 |
アメリカン・ギャングスター 2007 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007米アカデミー助演女優賞(ディー)、美術賞 2007英アカデミー作品賞、脚本賞、作曲賞、作曲賞、編集賞 2007ゴールデン・グローブ作品賞、男優賞(ワシントン)、監督賞 2007放送映画批評家協会作品賞、歌曲賞 2008MTVムービー・アワード男優賞(ワシントン)、悪役賞(ワシントン) 2008エンパイア映画サスペンス作品賞 |
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1968年ニューヨーク。ハーレムギャングのボスだったバンピーの右腕として仕えてきたフランク=ルーカス(ワシントン)は、バンピーの死と共にボスの座を引き継ぐ。ボスの地位を虎視眈々と狙う他のハーレム・ギャングの幹部やイタリアン・マフィアからの攻撃をかわし自らの帝国を築き上げるため、フランクは二つの方法をとった。一つはツテを頼りに東南アジアから純度の高いヘロインを直接輸入し、安価で町にばらまくこと。そして血縁を頼りにすること。この二つの誓いにより、休息に彼の権力は拡大していく。一方、ニュージャージーの警察に所属する刑事リッチー=ロバーツ(クロウ)は当時の汚職まみれの警察の中で潔癖な仕事を貫いていたため、周囲から疎まれ孤立していた。そんなある時、彼の仕事ぶりが見込まれて検察官からエセックス郡麻薬捜査班のチーフに抜擢されるのだった。そして麻薬捜査を進める内に、ヘロインの出所がフランクにあることを突き止めるのだった… 特に近年になってジャンルを問わずに質の高い作品を作り上げているスコット監督が最新作に選んだのは実話をベースとしたクライム・サスペンス作品だった。ただ、やはり一筋縄ではいかず、本作は暗黒世界でのし上がる一方の主人公と、周囲から白い目で見られながらも清廉な仕事ぶりをするはみ出し刑事という二方向からのアプローチを図った作品。実際はどちらの方向性でも結構な作品がこれまで作られているが(前者の代表は『スカーフェイス』、後者は『フレンチ・コネクション』と言えようか)、それを二つ合わせようというのは、かなり豪華な考え。しかも二人の主役にオスカー俳優を配し、万全の体制だ。 これは絶対に面白いはず。かなり期待を持って観に行った。 確かに面白い。実話を元にしていると言うだけで、話の緊迫感はしっかりしているし、どちらもある意味ストイックである意味欲望に忠実な二人の主人公が見事なはまり具合を見せる。猥雑さと空虚さを合わせたニューヨークの街並みも、スコット監督の手にかかると、多面性を持った街に見えてくるから不思議。 はっきり言うと、褒めるところは山ほどあるし、改めて考えてみても、確かに面白い作品には違いないのだ。文句を言う筋合いの作品じゃない。 しかし、観ている間終始退屈さを感じていたのは何でだろう?単に長すぎただけではないと思う。 ここからは勝手な私の妄想。 本作の当初の魅力というのは、あまりにもベタだが、オスカー俳優二人の共演!と言うのがあった。だけど、本作において二人が演技を競う。つまり同じショットに映っている場面があまりにも少なすぎた。これはデ・ニーロとパチーノ全く別々に物語を作り、二人がほとんど顔を合わせなかった『ヒート』と同じだ。共演というのは単に一人一人が言い演技をすれば良いというものではない。二人合わさった時に作品の魅力をぐっと引き出すことが求められていたはず。それを放棄してしまうと、物語そのものがちぐはぐになってしまうのだ。結果的に二つの物語が混ざり合うことなく独自に進行してしまうこととなり、時間軸を合わせる以外に意味が無くなってしまったからではないかと思う。二つの物語をくっつける実験と考えるなら、やはり本作は失敗だろう。物語が相互補完していれば、どれほど演出が退屈でも興味がどんどん惹かれるはずなんだが。 実験をしてますよ。というパフォーマンスだけで工夫をしてない作品ではどうにもはまりこむことはできない。スコット監督ならそれができると思ったんだけど… 勿論だからといって本作が駄作と言うつもりはない。演技者に関しては特にワシントンは本当に上手い。この人の器用さは今に始まった訳じゃないけど、抑えの効いた演技と、爆発する瞬間の演技のギャップがこれほどスムーズにいく人ってそうはいない。和気藹々とファミリーと食事していて、突然「ちょっと出かけてくる」と言ってライヴァルギャングを撃ち殺して又戻るシーン。ストイックに生きることを信条としているのに、妻のプレゼントだからと言って毛皮のコートを着てしまったため、それを悔いて妻の観ている前で焼き捨てるシーンなど、印象的なシーンは数多く、特に静から動へと映り、又静に戻る演技の質は、静かな狂気とでも言おうか。こういう役が出来る人は貴重だよ。 一方クロウも一世代前のはみ出し刑事を好演。何者にも邪魔はされない孤独さを纏っていたし、「ニュージャージーは狂ってる。だって(警察が)悪い奴を捕まえるんだぜ」とか言いのけるシーンは思わずガッツポーズ取ってた。 パートパートは非常に優れているのだ。ただそれが全体の雰囲気を作り出すことが出来なかったのが残念だった。 |
プロヴァンスの贈りもの 2006 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2006放送映画批評家協会若手男優賞(ハイモア) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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キングダム・オブ・ヘブン 2005 | |||||||||||||||||||||||
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妻子を失って悲しみに暮れる若き鍛冶屋の青年バリアン(ブルーム)の前に現れた騎士ゴッドフリー(ニーソン)。彼はバリアンの実の父だと告げ、これから向かうエルサレムにバリアンも連れて行きたい旨を明らかにされる。一度は躊躇するものの、バリアンは父と共に十字軍に参加することになる。旅の途中父を失い、自らが騎士として襲名を受け、ついにエルサレムに到着する。現王ボードワン(ノートン)はイスラムの守護者サラディン(マスード)と条約を結び、エルサレムに平和を作り出していた。その平和思想に、自らの剣を献げるバリアンだったが、ボードワン王は重い病にかかっており、余命幾ばくもない体であり、跡継ぎとなるはずの義弟のギーはイスラム教を毛嫌いしている極めて好戦的な男だった。そんな中、ギーの妻シビラと恋に落ちるバリアンだったが… 1099年にキリスト教国連合による十字軍により建国され、1291年にマムルーク朝の英雄サラディンにより潰されたエルサレム王国の最末期を舞台とする作品。これまでキーワードとしては十字軍の名前はよく出てきたが、歴史上で扱った作品は極めて珍しい。特に今、アメリカと中東とのギクシャクした関係の中でそれを主軸として捕らえようと企画した監督(製作も兼ねてる)の想いを先ずは評価したい。 新世紀に入ってからハリウッドは立て続けに歴史大作を連発している。ファンタジーである『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)は別扱いとしても、『トロイ』(2004)、『キング・アーサー』(2004)、『アレキサンダー』(2004)など(どれもファンタジーのような気がしてきた)、しかしそれで当たったのがあるか?と言われると、ほぼ皆無。歴史検証のために作られたというのならともかく(それだって『トロイ』はTVムービーの『トロイ ザ・ウォーズ』(2003)に遙かに負けてる)、とにかく時間が長いだけで大して面白くもないのばかりだ。 その中でスコット監督による本作は結構期待はしていた。同じスコット監督の『グラディエーター』はさほど好きではないにせよ、敢えてこれまで避けられてきた十字軍を題材にしたと言うことが気に入った。そして、他の歴史大作作品較べると、一本筋が通った作り方がされていたので、その点は評価すべき。細かい点で頷かせてくれるシークェンスが多かったのは結構うれしいところ。細かいところで突っ込むべきところが感じられないと言うだけで充分評価できる(ツッコめばいくつも出てくるんだけど、あんまり気にならない)。 それとスコット監督を特徴づける演出の巧さは本作でも際だっている。戦闘シーンでは『ブラックホーク・ダウン』で培った技術がここでも本当に巧く使われていたし、俯瞰や煽りを多用して町を縦横無尽に見せているカメラ・ワークも相変わらず高いクォリティを誇っている。演出面においては文句なし。この演出のお陰でこの長尺を最後まで飽きさせずに見せてくれていた。容赦のない殺人だって、監督なりのケレン味に溢れ、ただ残酷なだけのシーンにはなってない。ラストの戦いはまさに圧巻。 ただ、やっぱり問題は物語そのもの。スコット監督作品の大半は常にこれだ。演出や設定でこれだけ素晴らしいのが出来ているのに、物語が退屈なものが多く、それで損をしてるような気がしてならない。 ここでは主人公がまず鍛冶屋というのがそもそもの問題あり。いや、設定は良いんだけど、何で武術訓練どころか帝王学も学んでない鍛冶屋がここまでバランスの取れた判断を持つに至ったのか、その過程が必要だったのでは?グリーン演じるシビラとのメロドラマなんて最低限にして良いから、バリアンの成長の過程を丁寧に描いて欲しかった。それとイスラムの人間との友情についても、もうちょっと時間を取って欲しかった感じ。全般的に本作はもっともっと男臭くしてしまって良かったんだ。いや、いっそこれはシリーズ化して6時間くらいの大作にした方が…無理か?この時間でこれだけのものを詰め込むには無理があったのだから、テーマをもっと絞れば。 キャラは及第点。ブルームは弓矢を剣に変えただけのレゴラスじゃなくて泥臭さ満点だったし、顔を全く出してないのにノートンは存在感たっぷりだった。ファンのグリーソンが憎々しげな役をやってるのも、個人的にはツボ。 多分他の歴史大作に押されてしまって、一般的受けはしない気がするけど、かなり個人的には好きな部類。 |
マッチスティック・メン 2003 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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詐欺師のロイ(ケイジ)は相棒のフランク(ロックウェル)と共に少額の詐欺を繰り返していた。長年の生活で、金は貯まり、豪邸も手に入れたが、実はロイは広場恐怖症の上に極度の潔癖症で、自分を含めて誰にもカーペットには土足で上がらせず、ドアは常に3度試して開け、そして家中は洗剤の匂いで包まれていた。彼が食べるのは常に缶入りのツナだけと言う徹底ぶりだった。そんな彼の前に突然現れた彼の実の娘、14歳の少女アンジェラ。突然娘と暮らす事になり困惑するロイだったが、彼女の存在は彼の潔癖性を緩和していった。だが、アンジェラは彼の職業を詮索し始め、さらに詐欺師の弟子にしてくれと言い出す… 製作にロバート・ゼメキスを迎えて作られたサスペンス調作品。リドリー・スコット監督と言えば芸術的とも言えるカメラアングルが先ず頭に浮かぶのだが、意外なことに本作はそれを全く感じさせなかった。よっぽどリラックスして撮ったのか、それとも物語の都合を考え、キャラクターで見せることをあくまで選択したのか…いずれにせよ、この映画は情景描写よりも“人”を撮ることに特化した作品だと言えるだろう。画面には常に大きな比率で人間が登場しているため、結果的に登場人物の表情とか仕草の方に目がいってしまうし、事実そう言う撮り方をしている。 それで、それに耐えるだけの魅力があったのか?と言われると、確かにそれはクリアしてる。ニコラス=ケイジは確かに上手いとは思うが、これまでやや苦手なキャラクターだった。どの作品を観てもどうしてもキャラクターが浮いてるとしか思えない(今までで一番良かったと思ったのはな『8mm』(1999)んだが、これは例外的なキャラだったから)。ところが本作で彼が演じたのは、プロ意識を持つと非常に格好良いが、反面極度の潔癖性で、気が高ぶるとチック症まで出てくるという、言わば二枚目半の役を演じている。こりゃ又、非常に魅力あるキャラクターで、こういう役こそ、彼には向いてるんじゃないか?上手いはまり具合だ。彼と競演したロックウェルとローマンも上手かった(ローマンはこの年23歳のはずだが、14歳に見えてしまうのが凄いな…でも肌は露出させなかった方が良かったと思うぞ)。 で、ストーリーだが、前に私が『スティング』(1973)で言ったことをもう一度繰り返させてもらおう。「これは詐欺師の映画だ」…見事に最初から最後まで詐欺で彩られた作品。その描写がとても楽しかった。 でも、これってやっぱりハッピー・エンドなんだよな?詐欺をしてる時は充実した時間を持っていたロイだが、何のことはない。そのために自分にどんどん強迫観念を増やしていた訳だろ?薄氷を踏むような人生を楽しんでいるように見えて、実はそれが人生の彩りをどんどん失わせていった。表題のマッチスティックってのは言い得て妙で、光を長く放てば放つほど、マッチ棒ってのは短くなっていく(勿論これは彼がヘビー・スモーカーだって事を伏線にしてるのは間違いないけど)。 しかしながら、最後に全てを失ってしまうことで、逆に彼は人生というものを手に入れる…人は何かを得ようとするなら、何かを失う覚悟をしなければならない。逆に言えば、自分が持っていると思っていたものを失った時に、実は本当に大切なものを手に入れてる。人生訓にもなるぞ。 |
ブラックホーク・ダウン 2001 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001米アカデミー音響賞、編集賞、監督省(スコット)、撮影賞 2001英アカデミー撮影賞、編集賞、音響賞 2002MTVムービー・アワード作品賞、アクション・シーン賞 |
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1993年、泥沼化する内戦を鎮圧するためソマリアに兵士を派遣したアメリカ。膠着状態のまま6週間が経過し、10月3日、ついに敵対するアイディード政権の本拠地への奇襲作戦を決行するため特殊部隊が投入された。1時間以内に終わるはずの作戦は、敵の思わぬ逆襲に遭うことで、長引くことになった。頼みの綱のブラックホークがRPGにより撃墜されたことで孤立する兵士たち。ますます数を増していく民兵を前に絶望的な戦いが続けられる。 これは史実を元にした戦争映画。ハリウッドは第二次世界大戦やヴェトナム戦争についていくつもの映画を作っているが、こんな近い時代の、しかも失敗した作戦を克明に描いたのは初めての試み。 ソマリアでの内戦は、そもそもアメリカが隣国のエティオピアのように共産化しないようにと隣国のソマリアに資金供与し続けたことがそもそもの発端。政府のみならず強いリーダ・シップを持ち、しかも強力な力を持つ民族主義者がその候補に選ばれ、共産主義の防波堤とすべくアメリカは彼らを全面的に援助していた。それが1991年のソ連崩壊によって、戦略上のメリットが薄くなりぱたりと資金供与を止めてしまったため、弱体化した政府に替わるように、今まで資金供与を受けていた民族主義者が台頭してきたわけである。実はアフガニスタンのタリバーンの発生もこれとまるで同じ。 自分で内戦を煽っておいて、それが手に負えなくなると国連に任せ、それで勝手に自分で極秘の特殊作戦を行って失敗した。ある意味アメリカという国の近年まれにみる最大の失敗劇でもあった。この当時、まだインターネットが普及していない時代のため、テレビや新聞でしかそのことについて知る手だてが無く、テレビにかじり付くようにしていたもんだ(フリーター状態だったため、当時はすっごい暇だった)。 そんなものを映画化しようというのだ。韜晦の嵐になるんじゃないかな?とか思いつつも、それでもリドリー・スコット監督作品は好きだし、何せ出演キャラクターが良い。結構期待感はあった。 予告を観ると、墜落するブラックホーク、うなりをあげて襲ってくるRPG、兵士達の友情などなど、盛り上がりのシーン満載。これは結構期待できるかも。 だけど何より期待したのは夜の濡れた町並みを幻想的に撮る名手リドリー=スコット監督が昼の、しかも砂埃の舞う町並みをどう撮ってくれるか、と言う些か的はずれな部分だった。 結果的に言うと、本当に見事な撮影だったのは確か。監督お得意のロー・アングルからの背景描写は昼の、埃っぽい町並みでも充分に有効。それにエッジを効かせたり、逆にぼけさせたりして面白い効果を作ることで、現実の目の前にある事実を、まるで悪夢のような、現実味を欠いた町並みに変容させているのは実に上手いところ。本領発揮とも言える夜のシーンでの暗闇に踊る光の乱舞は本当に綺麗(コンピュータ処理がなされているんだろうが、画面の粒子を荒くすることで、「混乱」及び「非現実感」がこんなに強調できるものだとは思わなかったよ)。コンクリートの固まりが吹き飛び、その破片が飛び散る描写も良い。 又、この映画は戦闘シーンが実に1時間半に渡って続けられているのだが、これくらい長いと普通刺激に慣れてだれてくるはずなのに、それがない。戦闘の中にあっても微妙な緩急の付け方が出来ている証拠。映像として見る限り、かなり質は高いし、私はあまり銃器類に詳しくないので、その辺の不満もなし。ただ、ソマリアの民兵が使っている武器の多くはアメリカ製のはずなのだが、それが確認できなかったのは残念だったな。 ただ、いくら映像技術が高くても、ストーリーはほとんど無きが如し。喋るより叫ぶ方が多い台詞の数々。平行して出てくる画面のほとんど全部が戦闘シーンなので、メリハリもあまり感じられない。これは物語を観る作品なのではなく、完全に戦闘シーンの圧倒的迫力の中に身を置いて、それに陶酔するタイプの作品だ。 そして最後に思い切り脱力した「何故戦争に行くのか」の理論… 「そこに仲間がいるからだ」。そう。近代の戦争の全てはそれが理由だったのだよ。内実はどうあれ、戦争を始める理由は、「同胞を助ける」が常套文句なんだ。これはスコット監督流の皮肉なのか、それとも本気で言ったのか…この作品では次々仲間が倒れ、それを前にして「何故戦うのか」が問い続けられるが、そのオチがあまりにも陳腐。 やっぱり本作は物語として観てはいけない作品なのだろう。 |
ハンニバル 2001 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
2001MTVムービー・アワード作品賞、キス・シーン賞(ホプキンス&ムーア)、悪役賞(ホプキンス) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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あの惨劇から10年が経過。クラリス(ムーア)に1通の手紙が届く。そこには“クラリス、いまも羊たちの悲鳴が聞こえるか教えたまえ”と記されていた。クラリスはそれがハンニバルからのものだと直感する。その頃ハンニバルはヴェニスにおり、アメリカ帰国の機会を狙っていた。 食事のシーンが出てくる映画が好きだ。洒落た会話とか、上の空でとかで食事をするのではない。ひたすら食事そのものに没頭するシーンがとにかく好きだ(多分これは押井守の影響だろう)。 のっけから変なことを書いてしまったが、意外に食事そのものを描いた映画というのは少ない。大体は先に言ったとおりで、食事というのは会食に他ならず、食事そのものではなく、会話が重要なものとなってしまうから。通常、映画における食事は小道具として用いられているのが普通だ。 ただ、食事シーンを殊更集中して描く映画というのもあるにはある。リビングデッドものや『食人族』に代表される、いわゆるカニバル映画がそれ。人を食うと言う背徳的な主題を全面に持ってきたため、ショックシーン連発で、そして結果的に食事シーンを克明に撮ることで、クライマックスを迎える。ある意味、これほど食事に熱中する映画はないだろう。 だけど、これにはかなり問題がある。食事が全然美味そうに見えない(見えたらやばいが)。むしろこれは嫌悪感を演出するためのものに他ならないから。 嫌悪感を催さずに熱中して食事を撮る映画はないものか?そう言う意味で、かなり私はこの映画、期待していた。主人公が美食家のレクター。しかも監督がリドリー=スコットと言うことで、かなり凝った食事シーンが登場するのではないか。そのように思っていたわけである。 それで最初に小説の方を読む。レクター博士が出てくる3部作「レッド・ドラゴン」、「羊たちの沈黙」と較べ、ちょっと落ちるかな?と言う感じではあったが、いくつか、映画にしたら面白そうな食事シーンが二つあった。一つは無論最後のあのシーンだが、もう一つに、飛行機での少年との会話シーンがある。小説においてはあそこの凝った食事の描写がかなり私は気に入っている。 そう言うことで、かなり期待を持ってこの映画に臨んだ。 流石スコット監督。相変わらず町並みを美しく、幻想的に撮ることにかけては彼を凌ぐ者はない。あのフィレンツェの闇と光が交差する、ヌメヌメとした町並みの描写は見事の一言だった。この点は流石。 だが、私が最も期待していた食事のシーンはちょっといただけない。と言うより、食べてる描写が全然無いじゃん。これほどの素材を用いていながら、その最高の売りの部分を無視するなんて何と勿体ない。(そんなものに期待するのは私くらいかも知れないけど)。 確かに私が観たいと思っていたシーンは形を変えて二つとも入っていた。だけど、例のクラリスとの会食は、クラリスがまともだったためにかなり描写はスポイルされていたし、少年との会話も、最後にとってつけただけと言う感じ。そこが残念。 相変わらずホプキンスは個性派俳優の面目躍如で、怪演を見せているし、全く顔の見分けが付かなくなってしまったオールドマンも、見ていてかなり楽しい。しかし、クラリスをジュリアン=ムーアにしたのはどうかな?ジョディ=フォスターと較べ、明らかにパワー・ダウンしてないか?(勿論フォスターにオファーが行ったのだが、本人が嫌がったのだそうだ)ホプキンスと並ぶ映画の顔だけに、そこが残念。もうちょっと強い女性を演じられたら良かったのに。それにスコット監督もメジャーになったお陰で映画を魅せるところまで至ってなかった感じ。 本当に惜しい作品だな。これは。 |
グラディエーター 2000 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2000米アカデミー作品賞、主演男優賞(クロウ)、衣装デザイン賞、視覚効果賞、音響賞、助演男優賞(フェニックス)、監督賞(スコット)脚本賞、撮影賞、作曲賞、美術賞、編集賞 2000英アカデミー作品賞、撮影賞、プロダクションデザイン賞、編集賞、観客賞、主演男優賞(クロウ)、助演男優賞(フェニックス、リード)、監督賞、オリジナル脚本賞、作曲賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアー賞、音響賞、特殊視覚効果賞 2000日本アカデミー外国作品賞 2000ゴールデン・グローブ作品賞、音楽賞、男優賞(クロウ)、助演男優賞(フェニックス)、監督賞 2000ヨーロッパ映画インターナショナル作品賞 2000放送映画批評家協会作品賞、主演男優賞(クロウ)、撮影賞、美術賞 2000キネマ旬報外国映画第8位 2001MTVムービー・アワード作品賞、主演男優賞(クロウ)、アクション・シーン賞、格闘シーン賞(クロウ)、悪役賞(フェニックス) |
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西暦180年、皇帝マルクス・アウレリウスによる信頼も厚く、何よりローマを愛する将軍マキシマス(クロウ)はゴート族との最後の戦いに大勝利を収め、その夜に皇帝自身から後を継いでくれと頼まれた。だがそれを耳にした野心家の皇帝の息子コモドゥス(フェニックス)は、父を暗殺し、その罪をマキシマスに負わせる。故郷をも焼かれ、全てを失ったマキシマスは剣闘士として生きつつ、皇帝コモドゥスへの復讐を誓うのだった。
2000年のアカデミー作品賞を筆頭に数々の賞を独り占めにした大作。かつてハリウッドの代名詞とも言われたスペクタクル作品をCGの力を得て現代に復活させた(本作にはオリジナルがあり、『ローマ帝国の滅亡』(1964)と物語は全く同じ)。この作品はそれだけでなく、近年鳴かず飛ばずだったリドリー=スコットの再起作としても有名になった。スコット監督本人も「これで吹っ切れた」とインタヴューに答えていたっけ。かつての『エイリアン』(1979)や『ブレード・ランナー』(1982)ファンとしては嬉しくもあり、寂しくもあった。 帝政ローマ時代を舞台に、スコット監督の映像美が冴え渡る… と言いたいところだが、正直、私はこの映画に幻滅しか覚えなかった。 歴史物の映画というのは私は好きでもあり、又さほど好きではない。理由は簡単で駄作が多すぎるのだ。歴史上の人物や、背景というのは私の頭の中では固定化されており、そのイメージと合えば良いし、合わなければどうしてもくだらないと感じてしまう。イメージどころか、「この監督、歴史そのものを知っているのか?」と思わせる作品も多く、大概は幻滅して終わる。その辺の設定をきちんと分かった上で監督の強烈なイメージが投射されていれば、私の中の固定化されているイメージの中に新しい要素が加わるので、凄く好きになることもある。私にとって歴史物映画は結構賭け的な要素が高い。 ただ、そこまでの作品は滅多に出会うことが出来ない。特に設定マニアの私は史実をごまかされると急速に醒めてしまうので、歴史物の映画を観るときはかなり警戒しつつ観に行くことになる。 で、本作だが…設定的に言わせてもらえば、無茶苦茶不満。ただ細かいことばかりなので、小骨が何本も喉に引っかかった気分。 まず冒頭の戦闘風景。映像的には実に美しい。ただゲルマン民族というのは騎馬の民であり、対するローマの主力はレギオンと呼ばれる重装歩兵部隊。その重装歩兵を指揮者の命令の元、整然と運用することで無敵のローマ軍を作り上げていた。しかるに最初の戦闘では戦闘隊形もなにも無し。力同士のぶつかり合いの上、騎馬姿はローマ人だけで、騎馬民族であるはずのゴート人はみんな歩兵ばっかり…これを見た瞬間、確信した。これは駄作だ。 更に細かいことなのだが、馬の鐙(あぶみ)が発明されたのはもう少し後の時代で、この時代の騎馬と言うのは裸馬の背中に脚の力でしがみつく乗り方しか出来なかったはず。画面を見ると、しっかりと鐙があるんですけど… 他にもいくつか。ローマ人の主食がパンで、チーズが一切出ず、肉ばかり食べてるとか(ローマ人は肉を嫌い、基本的に食事はオートミールとチーズ、それにワインと果物だった)。ショーの時マキシマス達はカルタゴ人に扮装させられるのだが、ここでもローマ軍が騎馬姿、騎馬国家のカルタゴが歩兵役…この辺は本当に細かいことばかりだが、それがこう連発されると醒めるだけ醒めてしまう。 こうなってしまうと、もはや画面に集中しようと言う気持ちさえ持てなくなってしまう。少なくとも私を快楽の世界に連れていってくれない映画なんて、観る価値もない。こう醒めてしまうと物語そのものも陳腐にしか思えなかった。 逆にグラディエーター同士の戦いなんかは設定的にも結構しっかり作られていて、その辺は良いんだけど、手を抜く場所と本気になって取り組んだ場所のギャップが酷すぎ。もうちょっと設定をしっかり作ってくれたらそれなりに評価したいけど、これじゃ駄目だ。 以上述べたことは私の観方が偏っているのは確かだと自分でも承知している。だけど、見事な位にはまれなかった映画であることは間違いがない。前年の『アメリカン・ビューティ』(1999)に続き、オスカー受賞作と私の相性の悪さを露呈した作品になってしまった。この辺りからクロウは暴れもののレッテルを貼られ始める。 意外な事に、後年思い返すたびに本作の評価が上がってきてる。この理由は、おそらく本作に最も幻滅したのは、特撮の魂が無かったから。それを呑み込んでしまうと、純粋な意味で本作を評価できるようになってきたのかもしれない。 |
G.I.ジェーン 1997 | |||||||||||||||||||||||
1997ゴールデン・ラズベリー最低主演女優賞(ムーア) 1998MTVムービー・アワード格闘シーン賞(ムーア&モーテンセン) |
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テルマ&ルイーズ 1991 | |||||||||||||||||||||||
1991米アカデミー脚本賞、主演女優賞(サランドン&デイヴィス)、監督賞(スコット)、撮影賞、編集賞 1991英アカデミー作品賞、主演女優賞(サランドン&デイヴィス)、監督賞、脚本賞、作曲賞、撮影賞 1991ゴールデン・グローブ脚本賞、作品賞、女優賞(サランドン&デイヴィス) 1991全米批評家協会助演男優賞(カイテル) 1991キネマ旬報外国映画第4位 1992MTVムービー・アワード女優賞(デイヴィス)、コンビ賞(サランドン&デイヴィス) |
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アーカンソー州の田舎に住み、勝手な夫に振り回されていた専業主婦のテルマ(デイヴィス)は、友人でウェイトレスとして独身生活をエンジョイするルイーズ(サランドン)に誘われ、日常を離れてドライブに出かけた。だが、夕食に立ち寄ったバーで羽目を外しすぎたテルマは酔客にレイプされかかってしまう。思わずその男を撃ち殺してしまったルイーズ。あっという間にお尋ね者となってしまった二人はメキシコに向かって逃亡を始めるが… スコット監督は街を撮ることにかけては第一人者だと思っている。とにかく綺麗に、幻想的な町並みを映像化してくれる。しかし、時折彼の撮る作品で、街を殆ど撮らず、キャラクターを強調する作品を撮る場合がある。近年では『マッチスティック・メン』があるけど、それ以前にこんな素敵な作品も作っている。 当初期待していたのとは全く違った出来だったのが意外。なんとなくアメリカン・ニュー・シネマのロード・ムービーっぽい感じがするのだが…でも、二人がドロップアウトを楽しんで見えるのは時代の流れかな? とにかく本作は実にキャラクターが映えている。否応なくドロップアウトを余儀なくされた二人が、それまでの価値観を全く変えざるを得なくなるのだが、その思い切りの良さはそれまでの映画には見られないほど。こうなると強いのは男じゃなくて女だよな。主人公を二人とも女性にしたのは卓見。普通の男女のコンビだったら、ここまで面白くはならない。 それで面白いのは、今まで抑圧され、地味な存在として自らを位置づけていたテルマが、一旦キレた途端、もう凄い活き活きとしてる点。最初ルイーズに引っ張られるだけだったのに、いつの間にか主導権を握って、やりたい放題。それまでにどれだけ抑圧されていたか、そして本来の彼女がどれだけ活動的だったのか。その辺が見えて面白い。 一方のルイーズは、多分最初から少しだけ日常から離れていた生活を送っていた分、完全に思い切るまでに時間がかかったんだろうが、彼女もやがて自分が後戻りできない場所にいることに気付いてしまう。 ここで初めて二人は完全なコンビとなる。このコンビはもう最強! そのコンビの結びつきが、最後の飛翔につながったんだろうな。ラストシーンは爽快!に尽きる。 恐ろしいほどに濃い二人の女優の使い方としては、これが最も正しい。 本作にはブレイク前のブラピが登場してるが、実は彼ってこういう脇役の方が存在感映えてた気もする。今から考えてみると、この時代から既に華があったキャラクターだったんだな。 |
ブラック・レイン 1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1989米アカデミー音響効果編集賞、録音賞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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レストランで偶然にヤクザの殺人に出くわしたニック(ダグラス)とチャーリー(ガルシア)両刑事は、その犯人佐藤(松田)を日本に護送するが、大阪空港で逃げられてしまう。府警の松本(高倉)の監視下、警官としての権限の無いまま捜査を見守る彼らだったが、佐藤はそれを嘲笑うかの如く、自ら刺客となって二人の前に現れるのだった。 松田優作の遺作として有名な作品だが、彼の最後の作品がハリウッド資本というのが面白い。人を食ってると言うか。しかも監督があのリドリー=スコット。かなり期待していた。 スコット監督と言えば、それまでに『エイリアン』(1979)や『ブレード・ランナー』(1982)と言った未来SF作品で有名になった監督だったが、それらの作品の中でも都市の風景、中でも特に夜の町の演出は際だっていた。水に濡れる街路が町の光を浴びて仄かに光りを発するのをロー・アングルで捉える辺り、実に見事。ごみごみした町並みが幻想的にさえ見えた。 それであの大阪の街をどう撮るのか興味があったが、これが又見事にはまっていた。ミナミのあの辺りは何度か歩いたことがあったが、あのアーケード街をあんな風に撮れるなんて思いもしない。実に妖しげな雰囲気に映っていた。中盤で無機的なアーケードの町並みとコンクリートづくしの警察署を印象づけた後、最後で畳敷きの純和風の家と畑の泥で締める。効果としては本当に見事。 作品としては、それまでエキゾチックな国として、あるいはゼンとカラテの国としてしか認識されていなかった(?)日本を一つの文明国として描いた所が好感持てる(と言っても未だ結構誤解もあるけど)。 縦型の人間関係にあるヤクザ組織と、それを超えようとした男として松田優作が結構上手く描けていたんじゃないかな?逆に言えばそれ以外のキャラの立て方が下手だったとも言える。特に高倉健の描き方は情けないぞ。 松田優作はこれから世界に羽ばたいていく、日本の再考俳優に育っていくと思っていたのだが、本作が遺作となったとは…惜しい人を。 ちなみにブラック・レインというのはカクテルの名前にもあるけど(シャンペンとブラック・サンプーカのカクテル)、これとは関係ないか?(笑) 撮影にヤン・デ・ボン。 |
誰かに見られてる 1987 | |||||||||||||||||||||||
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ニューヨーク。資産家の娘で優雅な生活を送っているクレア(ロジャース)が殺人事件を目撃。警察に保護を求める。その護衛担当となったNY市警の新米刑事マイク(ベレンジャー)は、上流生活に初めて触れてとまどいがちだったが、彼女の生活につき合ううちに彼女に惹かれていくのだった。一方殺人犯ベンザはクレアの命を狙い、マイクの妻と子を人質にとる。 スコット監督によるラブサスペンス作品。NYを余す所なくスコット監督に撮らせようと言う狙いは見事にはまっている。 特にスコット監督は都市を美しく撮る事にかけては第一人者だけに、NYが幻想的に描けているし、サスペンス部分は青いバックライトを多用して雰囲気を盛り上げるなど、流石に上手い。 …けど、物語そのものが他愛なさすぎで、物語そのものは単なる不倫もの。脚本が今ひとつ好みじゃないし、事実この時代のスコット監督がスランプ状態と言われているのもよく分かる。 同じくNYを舞台にするんだったら、脚本さえよければ良い作品になったんだろうけど。あまり評価できないのが残念。バランスの悪さばかりが目立ってしまう。 |
レジェンド 光と闇の伝説 1985 | |||||||||||||||||||||||
1986アカデミーメイクアップ賞 | |||||||||||||||||||||||
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闇の魔王(カリー)は、地球を暗黒世界にしようとし、部下のブリックス(プレイトン)に野望を邪魔するユニコーンの角を取ってこいと命じた。その頃清楚な王女リリー(サラ)と森を散策していた野性の青年ジャック(クルーズ)はブリックスによって離ればなれにされてしまう。ユニコーンを守りつつ魔王に連れ去られた王女を救うため、ジャックは冒険の旅に出る… ウィリアム=ヒョーツバーグ原作のファンタジー小説の映画化作。アメリカでそろそろファンタジーRPGが出始めた頃。日本でも少しずつファンタジー小説が入り込んできた時代の作品。今から観ると、なんの捻りもない本当にストレートな作品に逆に驚くし、それが新鮮だったりもするが、とにかく物語に関してはほとんど何も言うべき事がない。このストレートさは一種80年代の映画に求められている事をよく表していたと思う。それに画面が飛びまくるため、雰囲気に浸ることも出来ず(本来140分もの長さを持つのだが、それを95分にまで縮めたお陰とも言われるが)。 キャラに関しても、クルーズにはワイルドで繊細という立場が求められていたと思うのだが、どちらも中途半端な印象が拭えず。カリーの魔王ははまっているものの、悪の存在としてはちょっと印象不足。これに関してもあんまり言うべき所がない。 ただし、流石はスコット。演出に関してのみで言えば無茶苦茶綺麗。特に沼地でのソフトフォーカスのかけ方や、砂漠の乾いた感じ。魔界のおどろおどろしい感じ。セットは幾分安っぽいものの、それを奥行きを感じさせるように努力したカメラ・ワークの苦労がしのばれる。幻想的雰囲気の演出にかけてはトップレベルとも言える。そもそもスコット監督はデビュー当時から『トリスタンとイゾルテ』を作りたがっていたそうだが、これだけのことが出来るならば、充分それも可能だと思わせられた。それだけでも観る価値はあるってもんだ。 ただし、興行的には本作は大コケ。いくら演出が良くても、他が悪いのではどうしようも無かろうと思われるのだが、実はもう一つ理由があったらしい。他でもなく、音楽が見事にそぐわなかったらしいのだ…「らしい」と限定的なのは、実は本作でスコット監督と会社側がぶつかり、アメリカ国内版とヨーロッパ版(インターナショナル阪)の二つが作られることになった。それでアメリカ版で音楽を担当したタンデリンドリームは全般的な音楽をおどろおどろしい雰囲気で仕上げた。だが、それが見事に世界観と合わなかったらしいのだ。 私が観たのはインターナショナル版で、こちらはゴールドスミスの綺麗な旋律の音楽が使用され、勇猛かつ幻想的な雰囲気に仕上げられたため、画面の雰囲気に良く合っていた。 演出の良さで見せるべき所を、演出によって駄作にしてしまった、失敗作と言えよう。残念な作品だ。 |
ブレードランナー 1982 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
1982米アカデミー美術監督・装置賞、視覚効果賞 1982英アカデミー撮影賞、プロダクションデザイン賞、衣装デザイン賞、作曲賞 1982LA批評家協会撮影賞 1993アメリカ国立フィルム登録簿登録登録 |
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環境汚染により酸性雨が絶えず降り続ける近未来のロサンジェルス。本来人を手助けするために作られた人造人間(レプリカント)が植民惑星から脱走した。彼らの捕獲を依頼されたブレードランナーと呼ばれるレプリカント専門の壊し屋デッカード(フォード)は、地球に潜入したレプリカントたちを追うのだが…やがてそれは自分自身を問い直すための旅へと変わっていく。 フィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の映画化作品。ちなみにこの『ブレードランナー』という題はウィリアム・バロウズの小説の題名が気に入ったスコット監督によって権利料を払って使ったのだとか(本作の題については二転三転。原作小説の『アンドロイドは伝記羊の夢を見るか?』から始まり、『アンドロイド』『メカニズモ』『デンジャラス・デイズ』『ゴッサム・シティ』などが候補に挙がった) 上映当時はあまり話題にならず、カルト作品と言われたが、現在ではSF映画の傑作とされるようになった作品。かつて『エイリアン』(1979)でホラーで大切なのは基本に忠実であることを示したかのように、本作はSFの体裁を取っているが、実質はハード・ボイルド映画を下敷きにしている。それが難解と取られてしまったのだろうか。 私の持っている映画(ビデオ、LD、DVD全て含めて)で、いくつか本当に繰り返し繰り返し観る作品というのがある。一番多いのがやはり押井守作品だが(特に『うる星やつら2』は様々に媒体を変え、何度観たか分からないほど)、他の映画で言えば、ダントツに多いのが本作。劇場鑑賞こそ逃したものの、私の故郷で初めてレンタルビデオ屋が出来た時は真っ先に借りた(勿論初見。当時一泊二日で1500円もした)。あのSFチックな設定。最後のあの名シーン。とにかくはまった。友人がそのビデオを持っていると聞いた時には拝み倒して借り、「絶対にやるな」と念を押されたピクチャーサーチをこっそり何度も何度も行って、細かいところまで観たものだ。勿論ビデオで完全版も最終版も観たし、LDで「最終版」「完全版」が出た時は両方とも買った。DVDでも「最終版」真っ先に買った。お陰で今でも劇中の台詞の多くは言えるし、あのルドガー・ハウアーの最後のシーンはわざわざ上半身裸になって鏡の前で練習までした…本当に良くやったものだ。確かに自分でも阿呆らしいと思う。でも、それだけはまった映画がある。と言うことは凄いことだと思う。 以降、思いつくままにこの作品の魅力について書かせていただく。 まず設定面だが、この映画はこの点について語られることが多い。どちらかというと原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』よりはウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』っぽい世界観だが、サイバーパンクの世界を初めて(そして多分唯一)映像化に成功させたのはいくら褒めても褒めすぎって事は無かろう。ポリススピナー、デッカードのブラスター、レプリカント判断装置のギミックなど。小物も巧くはまっている。 高層建築が立ち並ぶ未来世界はそれまでもかなり考えられてきたが、その下で逞しく生きる人間がいるという、小汚い生活感に溢れた描写も巧い。かつてのSF的な清潔感溢れる夢物語とは異なり、その下で蠢く人間がいるという点。それがサイバーパンクの世界の醍醐味で、それをはっきり分かっていたと言うところに監督の良さがある(考えてみれば当たり前のことだ)。『2001年宇宙の旅』(1968)に見られる清潔で白一色の世界ではなく、その下にある薄汚い人間の世界を設定したことは慧眼だった。実際、本作の描くディストピア的描写は以降のSF作品のテンプレートとされている。 それと演出面の素晴らしさも挙げられる。演出というのはSF作品についてはとても大切。いくら未来的な設定を作ったとしても、登場人物の身の回りにあるものが今の我々が見て違和感がなければ、いくら金をかけてもSFのように見えない。逆にリアリティを出そうとすればするほど、わたし達がいつも見ているものばかりになってしまうと言う問題が起こってしまう。更に、常識から飛び抜けたものばかりが出てくると、今度はこれはこれで全然リアリティを感じさせなくなる。そのさじ加減が無茶苦茶難しい。本作で面白かったのは、単なる近未来的な描写に留まらず、むしろ舞台の中心となっているのはゴシック様式だったりするところ。未来の話を作るのに、アイテムを過去から持ってくると言うのは本当に卓越した演出方法だった(お陰で既存の建築物を用いているにも関わらず、それが未来的に見せてしまうことにも成功してる)。監督の趣味が見事に役だったと言うべきか…それに冒頭に出てくる和風趣味。これが又実に小気味良い。空を飛ぶ強力ワカモトの宣伝、スシバーでの日本語の(一方的な?)会話(これも練習したっけ。「二つで充分ですよ」とか…)。うどんをすするハリソン=フォード。監督のゴシック&和風趣味がこれほど“未来”にはまるとは。それと夜の都市を美しく撮るのはなんと言ってもスコット監督の独壇場。雨にけぶる街のシーンは幻想的そのもの。一つ一つの部屋も特徴づけられていて(デッカードの住む狭い部屋、暗い警察署内、だだっ広く変なオブジェが並ぶセバスチャンの部屋、唯一自然光の当たるタイレル社長の部屋…)、その違いがはっきりしていて面白い。 後は、これはSFに限ってのことではないが、とても重要なストーリー。これに関してもこの作品、かなり深い。単純に考えるならば、この作品のストーリーは“人間に紛れているレプリカントを探し出し、壊す”と言うだけの事なのだが、そこにデッカード自身の“人間とはなんだ?私は誰だ?”というメッセージを織り込ませることによって深みを増している(オリジナル版ではこの辺りが結構希薄で、むしろレプリカントであるレイチェルの自我の方にスポットが当てられていたようだが、「最終版」では最少の演出だけで見事にデッカードにそれがもって行けたのは見事だった)。オリジナル版のラストも悪くないけど、最終版の不安そのものを表すかのような唐突なラストも好きだ。形式そのものがかつてのハード・ボイルドになっているのも特徴だろう。ガジェットの配置からファム・ファタールの存在、不安に駆られるラストまで、上手くその設定を使っている。。 カメラ・アングルも凝ってる。冒頭部分の街の下層の描写は俯瞰気味に撮っているのに対し、ラスト部、最後のレプリカントのロイとの戦いではあおり気味に撮られている。この作品、基本的に縦のカメラワークが多い。この都市の中からは逃げられないと言う事実をカメラワークで見せるなんて見事だ。最後の瞬間、ロイが鳩を放つ瞬間こそがこの作品のラストなんだろう。都市から飛び立つ、と言うイメージを残して。 ところでこの作品、本格SFとして製作された癖に、恐ろしく予算が少なく、いかに金をかけずにSF的要素を詰め込むかスコット監督も相当に苦労したらしい。だから画面をよく見てると一つ一つのパーツが兎角流用されていることに気付くし、冒頭の町の風景は殆ど市販のプラモデルを使ったもの(ビルの一つはミレニアム・ファルコン号のプラモデルだと言うのは有名な話。『スター・ウォーズ エピソードI』(1999)ではルーカスがお返しに、しっかり画面にポリススピナーを出している)。オリジナル版のラストで流れる風景は『シャイニング』(1980)のアウト・テイクの流用。更に滅多に不満を言わない事で有名なフォードがついに怒り、その調整…さすがに予算と演出で疲れ切った監督は後に「こんな作品はもう二度と作らない!」と断言したほどだった。 明らかにドイツ表現主義の影響が見られる。 |
エイリアン 1979 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1979米アカデミー視覚効果賞、美術監督・装置賞 1979英アカデミープロダクションデザイン賞、音響賞、助演男優賞(ハート)、作曲賞、新人賞(ウィーヴァー) 2002アメリカ国立フィルム登録簿登録 |
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人工冬眠から目覚めた宇宙貨物船ノストロモ号の乗組員達はコンピューターのマザーから、付近で発せられた救難信号の調査を命じられる。凍てついた辺境の惑星LV426に降り立った乗組員達を待っていたのは、人類が初めて遭遇する巨大な知的地球外生命体の死骸。そして、それは絶望的な恐怖の始まりを暗示していた。 1979年全米興行成績5位。ホラーでは快挙。 本作はリドリー・スコットの出世作であり、彼の知名度を一気に上げた作品でもある(ついでにシガーニー・ウィーバーも)。何せこれは凄い。ゴシック・ホラーの王道を宇宙でやってしまうという奇抜な発想も良いし(以降似たような路線が山ほど出たのはご愛敬)、ギーガーの作り出した殆ど登場しないエイリアンのデザインが又秀逸。 特に前半部分では何気ない宇宙船の日常生活が描かれ、トラブルがあったものの、普通に食事をしているところも結構良し。ところが、そこからが本当の恐怖だった。小学生当時にテレビで見ていて、前半は普通に見ていていて、あまりのショックにこのシーン以降は見られなかった。更に食事の度に腹をさすったりしてたし(笑) この映画の最大の良さは、奇抜な発想でもエイリアンのデザインでもない。あくまで基本に忠実に作られたホラーが一番怖いのだ。と言うことをしっかり認識させたことにある(『ディープ・ブルー』(1999)参照)。だからエイリアンは基本的に影から姿を現さず、見えない恐怖に脅えるキャラクター達の方が主となり、それが感情移入を容易にさせている。それが最後のカタストロフを最も効果的に魅せる方法ともなった。 キャラの配置も面白い。本作製作時での有名俳優はジョン・ハートのみなのだが、当のハートが一番最初の犠牲者になることで(後に散々パクられた)、一体誰が生き残るのか全く分からないと言う、一種の主人公不在の作品となっているのも特徴。徐々に主人公が分かっていくが、それは、意外にも女性。これまで叫ぶことでその存在理由を示していた感のあった女性の扱い方を全く逆転させることで、以降のホラー作品にも多大な影響を与えている(当初はリプリーも途中で死ぬ予定だったらしいが、最後まで生き残らせることにしたのはスコット監督の発案によるものだったとか)。 この作品を作り出したのは脚本のダン・オバノンの執念によるもの。かつて学生時代にジョン・カーペンターと組んで『ダーク・スター』を作り上げたが、その着想を広げたのが本作。ディテールを凝らすため、企画段階からギーガーに関わってもらったという(監督よりもギーガーの方を先にプッシュしたのがオバノンらしい)。 監督自身も当初はウォルター・ヒルの予定だったが、それがスコット監督に代わり、しかもこの時スコットは『トリスタンとイゾルテ』の製作に入ろうとしていた時期…結局『トリスタンとイゾルテ』の方がお蔵入りすることになる(随分後で『トリスタンとイゾルデ』(2006)の製作で作る事になるが)。 ちなみに雑学を少々。 エイリアンは3形態を見せるが、最初の蟹のような姿はフェイス・ハガー(顔を覆うもの)。そして腹を突き破ってくるのはチェスト・バスター(文字通り腹を突き破る)、最終形態はビック・チャップ(大きな顎)と呼ばれる。 冒頭に出てきた異星人の死骸は、何もないと寂しいので取り敢えず何か置いておこうと言う監督の意向によって置かれたものとか。スチルを見る限り、こっちの方がエイリアンに見えてしまうため、結構効果的だった。 エイリアンのデザインは芸術家ギーガーの手によるものだが、この映画の大当たり(視覚効果賞でオスカーも取ってる)のため、すっかり有名になり、彼のデザインはホラー映画ではよく用いられるようになる。 更にくだらない話だが、アンドロイドの本性を現したアッシュがリプリーに襲いかかってくるシーンでは、その手に持っているのは何故か「平凡パンチ」。これを丸めてリプリーの口に突っ込むシーンは、当時の(日本の)好事家の格好の題材になったとか。 |
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ミニメイツ/ エイリアン スペースジョッキー with ケイン |